◆第23話「失われていないものと、温かいスープ」
それから、蓮は自分の部屋(執務室兼寝室)へ向かう。誰にも会いたくなかった。
蓮が扉を開けると、そこには毛布を膝にかけ、机で書き物をしていたエリシアの姿があった。彼女は蓮の姿を見ると、驚いたようにペンを置き、そしてすぐに安堵の表情を浮かべた。
「お帰りなさい、蓮様。……遅かったですね」
「エリシアさん……? どうして、ここに」
「何となくです。あなたのことが心配で。聞きました。『謎の大口投資家が、売り向かって敗北した』と。そして今日、工場の看板が変わり、衛兵が警護するようになりましたから」
エリシアの静かな瞳に見つめられ、蓮は嘘をつけなかった。蓮はその場に崩れ落ちるように膝をついた。
「……ごめん。僕だ。僕がその馬鹿な投資家だ」
声が震える。一度口を開くと、止めどない懺悔が溢れ出した。
「ボルドーさんとファビアンさんの資産を借りて、自分の工場を軍に売って……全部、市場に突っ込んだ。バブルを止めようとして、逆に火に油を注いでしまった。……全部、無駄だった。俺は、みんなの未来を担保にして、博打に負けたんだ……!」
蓮は床に拳を叩きつけた。情けなくて、悔しくて、涙が滲む。エリシアの祖父の領地を買い戻すための貯金も、彼女にいつか贈るつもりだった指輪の代金も、すべて消えた。自分にはもう、彼女の隣に立つ資格なんてない。
だが、エリシアは静かに立ち上がり、部屋の隅にある簡易コンロへと向かった。コトコトと煮えていた鍋から、湯気の立つスープを皿によそう。
「……座ってください、蓮様。体が冷え切っています」
彼女は蓮の手を引き、椅子に座らせた。目の前に置かれたのは、野菜と白サツマイモがたっぷり入った、素朴なポトフだった。
「……怒らないのか? 俺は、君の未来まで売り飛ばしたようなものなのに」
「怒る? どうしてですか」
エリシアは蓮の向かいに座り、スープを一口すすった。
「あなたは、お金を増やしたくて博打をしたのではありません。……この国を、そして私たちの工場を守るために、戦ったのでしょう?」
彼女の声は、どこまでも優しかった。
「結果は残念でした。でも、私は知っています。あなたがどれだけ悩み、どれだけ苦しんで、その決断をしたのかを。……ボルドー様たちだって、あなたを信じたからこそ、資産を託したはずです。違いますか?」
エリシアは微笑み、蓮の手の上に、そっと自分の手を重ねた。彼女の手は温かく、震える蓮の手を包み込んだ。
「蓮様。お金はなくなりました。でも、ここを見てください」
彼女は、窓の外を指差した。夜が明け始め、工場の煙突から最初の蒸気が上がり始めている。早番の工員たちが出勤してくる声が聞こえる。
「工場は動いています。カイやアンナたちもいます。ボルドー様たちとの絆も残りました。……そして、私もここにいます」
エリシアは真っ直ぐに蓮の目を見つめた。
「あなたが命懸けで守ろうとした『一番大切なもの』は、何一つ失われていませんよ」
その言葉が、凍りついていた蓮の心を溶かした。そうだ。自分は、数字を守りたかったんじゃない。この場所を、ここにいる人々の暮らしを守りたかったのだ。
「……エリシアさん」
蓮の目から、熱いものがこぼれ落ちた。それは絶望の涙ではなかった。
「……ありがとう。君がいてくれて、本当によかった」
「はい。私はどこへも行きませんよ、工場長」
蓮はスープを口に運んだ。白サツマイモの優しい甘みが、疲労した体に染み渡っていく。それは、どんな高級料理よりも価値のある、命の味だった。
「……嵐が来るぞ」
蓮は窓の外、赤く染まり始めた東の空を睨んだ。
「今回の高騰で、バブルはさらに膨らんだ。弾ける時は、国ごと吹き飛ぶような衝撃になる」
「ええ。覚悟しています」
「俺たちは、現場で踏ん張るしかない。……忙しくなるぞ、副工場長」
「望むところですわ。……さあ、食べてください。戦うには、まず腹ごしらえです」
二人は並んでスープを啜った。失った財産は戻らない。だが、それと引き換えに得た「覚悟」と「絆」は、これから始まる本当の地獄――大恐慌の時代を生き抜くための、最強の武器となるはずだった。
◆
そして翌日のこと。蓮は工場の正門にある、新しい看板をもう一度見た。『ソラニア王国軍 兵站工廠・第一食糧加工場』。過去は変えられない。確定した事実があるのみだ。だが未来は変えられる。
執務室の荷物を整理していた蓮の元に、ガレスが現れた。
「……恨むか? 工場を召し上げた我々を」
「まさか。契約ですから」
蓮は淡々と答えた。
「それに、借金はチャラになった。従業員の雇用も継続される。文句を言ったら罰が当たりますよ」
蓮は相場で負け、約束通り工場は軍の所有物となり、利益はすべて国庫に入る。蓮はもはやオーナー社長ではない。ガレスは、一枚の辞令を蓮に手渡した。
「……軍属技官・工場長としての辞令だ。給料は公務員並みだがな」
「十分です。食べていけますから」
ガレスが去った後、エリシアが入ってきた。彼女は変わらぬ笑顔で、コーヒーを淹れてくれた。
「……取られちゃいましたね、工場」
「ああ。俺はもう一国一城の主じゃない。ただの雇われ工場長だ」
蓮は自嘲気味に応えたが、エリシアは首を横に振った。
「でも、守りました」
エリシアは、窓の外を指差した。そこには、以前と変わらず働くカイやアンナ、ガントたちの姿があった。看板は変わっても、中身は何も変わっていない。
「あなたは、最悪の事態になる前に、自分のプライドを捨てて、みんなの未来を守ったんです」
エリシアの言葉に、蓮の胸のつかえが取れていく。自分は負けたが全滅はしなかった。生きていれば、また種を蒔ける。
「……仕事に戻ろうか。オーナーじゃなくなっても、やることは山積みだ」
「はい、工場長。……あ、これからは『隊長』とお呼びした方が?」
「やめてくれ。今まで通りでいい」
二人は笑い合った。このあと、バブルは蓮の予想通り、実需との乖離に耐えきれず、やがて確実に崩壊することになる。その時、借金まみれで逃げ惑う投機家たちを横目に、軍の管理下で堅実に即席麺を作り続けていた蓮の工場は、揺るがない「実体」として、傷ついた国を支え続けることになるのだった。




