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◆第22話「冷ややかな工場」

 相場での敗北から数日後の朝。藤村蓮は、いつもより早く工場の門をくぐった。正門には、新しく掲げられた看板が朝日を浴びて光っている。


『ソラニア王国軍 兵站工廠・第一食糧加工場』


 蓮は、その看板を見上げた。昨日までは『藤村食品加工工場』だった。自分の城だった。それが今は、軍の所有物だ。門には武装した衛兵が立ち、物々しい雰囲気が漂っている。


(……みんなに、なんて顔をすればいい)

 蓮の足が重い。工場の中からは、いつもと変わらぬ蒸気の音と、機械の駆動音が聞こえてくる。だが、その音が今日はひどく遠く感じられた。

 製麺ラインのフロアに入ると、数十人の工員たちが黙々と作業をしていた。蓮の姿を見ても、誰も「おはようございます」と声をかけてこない。視線だけが、一瞬蓮の方を向き、そしてすぐに作業へと戻っていく。


 いつもなら、ベテラン工員のガントが真っ先に「工場長、お早いですね」と声をかけてくれるのだが、今日の彼は、麺を揚げる油槽の温度計を睨んだまま、まるで蓮の存在に気づいていないかのようだった。

「ガント、おはよう」

 蓮が近づいて声をかけると、ガントは手を止めず、横目で蓮を一瞥しただけだった。

「おはようございます……工場長。軍人になられたのですよね。工場を身売りして」


 その棘のある言い方に、蓮は息を呑んだ。ガントはこの工場で最も長く働いている男だ。蓮が工場を立ち上げた時から、文句一つ言わずに支えてくれた。その男が、今は氷のような声で話している。


「あ……ああ。でも、中身は何も変わらないよ。みんなの雇用も継続されるし——」

「継続、ねえ」

 ガントは油をすくうレードルを乱暴に置いた。カン、という金属音が、静まり返ったフロアに響く。

「軍の都合で、いつクビになるか分からないって話ですけどね」

「そんなことは……」


「ないって言い切れます?」

 ガントが初めて、蓮の目を見た。その瞳には、怒りというよりも、深い失望が宿っていた。

「俺たちは、この工場を信じてたんですよ。あんたが作った『真面目に働く者が報われる場所』ってのを。……それが一夜にして、軍の持ち物になった。俺たちの意見も聞かずにね」


 蓮は何も言い返せなかった。確かに、工員たちには事前に相談していない。自分一人で決めて、自分一人で負けたのだ。



 昼休み。工場の食堂は、いつもなら笑い声や雑談で賑やかなのだが、今日は妙に静かだった。蓮が隅のテーブルに座ると、近くにいた若手工員たちの声が、はっきりと聞こえてきた。

「なあ、結局さ……工場長も博打打ちだったんだよな」

 一人が、スプーンでスープをかき混ぜながら言った。蓮に聞かせるためではなく、本当に仲間内で話しているだけの、それゆえに残酷な会話だった。


「真面目に働けって、いつも説教してたのにさ。自分は工場まるごと賭けて、相場で勝負してたんだぜ」

「しかも負けたしな。ラクリオと何が違うんだ?」

「動機、じゃね? ラクリオは自分のため、工場長は国のため、みたいな」

「は? 結果が同じなら一緒だろ。俺たちを巻き込んで、博打に負けた。それだけの話だ」


 蓮は、手元のパンを握りしめた。弁解したかった。自分は私腹を肥やすためにやったんじゃない。バブルを止めて、この工場を、みんなの生活を守るために戦ったんだと。

 しかし、その言葉は喉の奥で固まった。

(……言い訳だ。結果的に、工場を失った。それは事実だ)


 もし自分が逆の立場だったら? ある日突然、「実は社長が相場で大負けして、会社が他人のものになりました」と告げられたら、どう思うだろうか。

 怒る。当然だ。


 そこへ、製造主任のカイが盆を持って通りかかった。彼は若手工員たちの会話を聞き、眉をひそめて割って入った。


「おい、そこまでにしとけ」

「カイさん……でも」

「でも、じゃない」


 カイの声は低く、しかし有無を言わせぬ強さがあった。

「工場長が何をしようとしてたか、お前らは知らないだろう。俺は聞いた。……あの人は、バブルを止めようとしてたんだ。このままじゃ国が壊れるって、本気で心配してた」


「それは分かりますよ」

若手の一人が反論した。

「でも、それって俺たちに関係あります? 俺たちは粛々と働いてただけなのに、勝手に巻き込まれたんですよ」


 カイは言葉に詰まった。彼自身、複雑な思いを抱えているのだ。工場長を信じたい。でも、工員たちの怒りも理解できる。蓮は静かに立ち上がった。食事は半分も手をつけていない。カイが「工場長……」と声をかけたが、蓮は首を横に振った。

「いいんだ。……みんなの言う通りだから」



 夕方、蓮は執務室の窓際に立っていた。外では、工員たちが定時で帰っていく。以前なら、「お疲れ様です、工場長!」と手を振ってくれる者もいた。今日は、誰も蓮の部屋の窓を見上げない。

 扉がノックされた。「どうぞ」

 入ってきたのはカイだった。彼は複雑な表情で、蓮の隣に立った。


「……工場長。さっきは、すみませんでした」

「謝らないでくれ、カイ。君は間違ってない」

 蓮は自嘲気味に笑った。

「俺はいつも、ラクリオやあの投機家たちを『汗をかかない博打打ち』だと軽蔑してた。でも、俺も同じことをしてたんだ。……いや、もっと悪い。だって、俺は『みんなの未来』まで勝手に賭け金にしたんだから」


「でも、工場長の狙いは——」

「狙いなんて関係ない」


 蓮は拳を握りしめた。

「大義名分があれば何をしてもいいなんて、それこそ傲慢だ。俺は、みんなに謝らなきゃいけない。……でも、今はまだ、その資格がない」

 蓮は窓の外、夕暮れの空を見上げた。

「言葉で謝っても、きれいごとにしか聞こえないだろう。だから、俺は——これから、背中で示すしかない。もう二度と博打はしない。地に足をつけて、みんなと一緒に汗をかく。それしかできない」


 カイは、蓮の横顔を見つめた。その目には、自己憐憫も、言い訳も浮かんでいない。ただ、自分の過ちを噛み締め、前を向こうとする意志だけがあった。

「……分かりました」

 カイは、蓮の肩を軽く叩いた。

「俺は信じてますよ、工場長。でも、みんなが納得するには、時間がかかる。……気長にいきましょう」

「ああ。ありがとう、カイ」



 その夜、蓮は一人、工場の屋上に立っていた。王都の夜景が、かつてないほど暗い。バブル期のような花火も、成金たちの馬鹿騒ぎもない。あるのは、ぽつぽつと灯る家々のささやかな灯りだけだ。

 蓮は、ポケットから小さな石を取り出した。それは、工場の基礎を作った時、自分で拾った最初の石だ。お守りのように持ち歩いていた。


「……ここから、やり直しだ」

 彼は石を握りしめた。失ったものは大きい。金も、工場の所有権も、そして何より——工員たちからの信頼も。でも、失っていないものもある。この手。この知識。そして、エリシアやカイ、アンナのように、まだ自分を見捨てていない仲間たち。

(俺は、博打で国を救おうとした。それは間違いだった。……これからは、泥臭く、一歩ずつ、働いて立て直す。それが、俺にできる償いだ)


 工場の煙突から、蒸気が白く立ち上っていく。明日も、工員たちは無言で出勤してくるだろう。冷たい視線を向けてくるかもしれない。

 それでも、蓮はここに立つ。逃げない。言い訳もしない。

 ただ、彼らの隣で、同じ油にまみれ、同じ汗をかく。

 それが——元工場オーナーで、今は一介の雇われ工場長となった藤村蓮が、自分に課した罰であり、同時に誓いだった。春風が、彼の髪を撫でていく。それは冷たかったが、どこか優しい風だった。

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