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◆第19話「踏み上げ(ショート・スクイズ) ~悪魔の哄笑~」

「買い支えろ」

 ゴードンの一言で、戦況は一変した。彼らはただ金を持っているだけではない。情報網と、大衆心理を操るノウハウを持っていた。


 取引所の掲示板に、一枚の速報が張り出された。それは、メルカトルが用意していた「偽ニュース」だった。『緊急速報:隣国ルマンダにて、イモ疫病発生! 同国政府、ソラニア産ジャガイモの緊急輸入を決定! 流通在庫の全量を買い取る意向!』


 もちろん、真っ赤な嘘だ。ルマンダ国ではイモなど主食ですらない。だが、パニックに陥っていた群衆にとって、それは地獄に垂らされた蜘蛛の糸であり、同時に「強欲」の火に注がれたガソリンだった。


「聞いたか!? 輸出だ!」

「疫病だってよ! ソラニアのイモがプラチナになるぞ!」

「売ってる場合じゃねえ! 買い戻せ! 今の安値はバーゲンセールだ!」


 恐怖が一瞬にして、倍化された欲望へと反転する。

「買いだ! 買いだ! あるだけ買ええええ!!」


 ドッッッ!!地鳴りのような買い注文が殺到した。蓮が必死に築いた「売り壁」が、津波のような「買い」によって一瞬で粉砕される。71、75、80、90……!


 数字が跳ね上がる。V字回復どころではない。以前の高値をぶち抜いて、天井知らずの上昇を始めたのだ。


「な……っ!?」

 蓮は愕然と立ち尽くした。

「嘘だろ……。あんな見え透いたデマを信じるのか? 冷静になれよ! 疫病なんて起きてない!」


 蓮が叫んでも、その声は熱狂にかき消される。誰も真実など見ていない。「上がる理由」があれば、それが嘘でも構わないのだ。


 そして、ここからが地獄の始まりだった。蓮は「空売り」をしている。つまり、「高く売って、安く買い戻す」ことで利益が出る。逆に言えば、売った価格より値段が上がれば、その差額はすべて「損失」となる。そして、損失が一定額を超えれば、証拠金が尽き、強制的に決済(買い戻し)させられる。これが「踏み上げ(ショート・スクイズ)」――空売りを仕掛けた人間を、価格高騰によって焼き殺す、市場で最も残酷な処刑法だ。


「おい、あのベアを狙え!」

 メルカトルが、蓮のいるブースを指差して叫んだ。

「あいつが大量に売っている! 値段を吊り上げれば、あいつは買い戻さざるを得なくなる! あいつの死体が、俺たちの利益になるぞ!」


 投資家たちの目が、蓮に集中した。それはもはや経済活動ではない。一人の人間を破滅させて、その肉を食らおうとする集団リンチだった。


「上げろ! もっと上げろ!」

「あいつが破産するまで吊り上げろ!」


 100、110、120……。蓮の目の前で、軍から借りた莫大な金が、みるみるうちに溶け去っていく。


「やめろ……やめてくれ……」

 蓮の手が震える。

「その金は、ただの金じゃないんだ。みんなの生活なんだ。未来なんだ……!」


 だが、数字は無慈悲に上がり続ける。仲買人が、青ざめた顔で蓮に告げた。

「ふ、藤村様……もう限界です。証拠金維持率が10%を切りました。これ以上は……」

「待ってくれ! あと少し耐えれば、みんな冷静になるはずだ! 嘘はいつかバレる!」

「待てません! これ以上損失が拡大すれば、我々、仲買人まで破綻します! ……強制決済ロスカット執行!」


 ガシャン!ハンマーが振り下ろされた。それは、蓮の敗北を告げる死刑執行の音だった。


 強制決済とは、持っている売りポジションを、これ以上損失が拡大しないよう、強制的に現在の高値ですべて「買い戻す」ことだ。蓮の意図に反して、システムが自動的に猛烈な「買い注文」を出す。皮肉なことに、蓮の断末魔であるその買い注文が、価格をさらに史上最高値へと押し上げた。


 150。最高値更新。会場中が歓喜の渦に包まれる。

「やったぞ!」

「勝利だ!」

「我々は神に愛されている!」


 ゴードンたちは貴賓室で高笑いをしていた。

「賢いベアが死んだぞ! 今日はとびきりのステーキだ!」と。紙吹雪のように舞う契約書の中で、蓮はただ一人、膝から崩れ落ちた。


 空っぽだった。鞄の中も、頭の中も。正義も、論理も、絆も、すべてが「狂気」の前に敗れ去った。

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