◆第18話「孤独な熊(ベア) ~売り浴びせの開始~」
決戦の舞台は、旧王立オペラハウス――現在は「王立ジャガイモ証券取引所」と呼ばれる狂乱の殿堂だった。午前九時。開場の鐘が鳴り響くと同時に、フロアは怒号のような歓声に包まれた。
「買いだ! 今日も買いだ!」
「『キタアカリ』先物、成り行きで一万口!」
「ジャガイモ証券をあるだけ寄越せ!」
群衆の熱気で、室温が上がっている。誰もが目を血走らせ、右肩上がりのチャートだけを見つめている。彼らの頭の中には「値上がり」という未来しかない。下がる可能性など、太陽が西から昇るのと同じくらいあり得ないことだと信じ込んでいた。
その熱狂の渦の中心にある特別ブースに、一人の男が立っていた。目深に帽子を被り、サングラスをかけた代理人――その正体は、変装した藤村蓮だった。彼の手元には、ボルドーとファビアンから託された巨額の資金と、自らの工場を軍に差し出して用意した莫大なキャッシュがある。
(……空気は、完全に『楽観』だ)蓮は冷静に市場を観察していた。誰もが買いたがっている。売り手がいない。だから価格は上がり続ける。(今だ。この最高潮の瞬間に、冷水をぶっかける)
蓮は、仲買人にハンドサインを送った。それは「買い」ではない。手のひらを外に向け、下へ振り下ろす動作。「――売り(ショート)。『秋物・男爵イモ』、五百万口」
仲買人が一瞬、耳を疑うような顔をした。「ご、五百万!? 買い間違いではありませんか? 今は上昇トレンドで……」「いいから売れ。今すぐだ!」
蓮の怒号と共に、大量の売り注文が市場に放たれた。それは、バケツ一杯の水どころではない。ダムが決壊したような、圧倒的な「売り」の奔流だった。
ザワッ……!黒板の数字が止まった。買い注文を、蓮の売り注文がすべて飲み込み、さらに余った売りが価格を押し下げる。100、99、95、90……。今まで見たこともない速度で、数字が下落していく。
「な、なんだ!?」「何が起きた!?」フロアがパニックになる。「大口の売りだ! 誰かが逃げ始めたぞ!」「暴落か!? いや、ただの調整か?」
蓮は攻撃の手を緩めない。「さらに追加! 『メークイン』三百万口! 『先物オプション』も売れ! 板にある買い注文をすべて食い尽くせ!」
蓮の戦略は単純にして豪快だった。圧倒的な資金量で「売り」を浴びせ続け、投資家たちに「恐怖」を植え付けることだ。バブルは心理戦だ。「みんなが買うから上がる」なら、「誰かが必死に売っている」という事実を見せつければ、不安が伝染し、我先にと逃げ出す者が現れるはずだ。そして、大量の売り注文で価格を押し下げ、レバレッジをかけて買い支えている投機筋を「強制ロスカット(破産)」させる。
読みは当たった。
「や、やばいぞ! 下がる!」
「俺のも売れ! 利益確定だ!」
動揺した小口の投資家たちが、パニック売りを始めた。売りが売りを呼び、価格の落下速度が加速する。
85、80、75……!
蓮は、サングラスの奥で汗を拭った。
(いいぞ。このまま心理的防衛ラインである『70』を割れば、トレンドは完全に『下落』に変わる。そうすれば、バブルは終わる……!)
それは孤独な戦いだった。数千人の買い手「ブル」に対し、たった一人で立ち向かう売り手「ベア」である。だが、蓮の背後には、ボルドーとファビアン、そして汗水垂らして働くすべての職人たちの魂がついている。
(落ちろ! 虚構の塔よ、崩れ落ちろ!)
黒板の数字が『71』をつけた時、フロアは悲鳴に包まれた。勝利が見えた。あと一押し。あと一押しで、人々は正気を取り戻す。
だが――。その時、取引所の2階にある貴賓席(VIPルーム)の扉が開いた。そこから現れたのは、メルキアの投資銀行家ゴードンと、悪徳仲買人メルカトルだった。彼らは眼下のパニックを見下ろし、慌てるどころか、獲物を見つけた猛獣のように、口元を歪めて笑っていた。
「……おやおや。威勢のいい熊が迷い込んだようだね」
ゴードンが葉巻をくゆらせる。
「だが、このパーティーを終わらせるには、まだ早すぎる」
悪魔たちが動き出す。蓮の「正義」が、「欲望」という名の怪物の反撃を受けるまで、あと数分。




