◆第15話「踊らぬ鉄と、沈黙する紡績」
王都全体が「イモ・バブル」という名の熱病に浮かされ、誰もが濡れ手に粟の利益を求めて狂奔していた頃。その狂騒から背を向け、冷徹なまでに沈黙を守り続ける二人の男がいた。かつて蓮と敵対し、今は最大の理解者となった「鉄の王」ボルドーと、「繊維の主」ファビアンである。
ファビアン商会の社長室。そこには、王都の投資銀行から派遣された若きセールスマンが、汗だくになって熱弁を振るっていた。
「社長! 今こそ決断の時です! 御社の工場を担保に融資を受け、イモ市場に参入しましょう! 本業の織物など馬鹿らしくなるほどの利益が……!」
セールスマンは、右肩上がりのグラフが描かれた羊皮紙をテーブルに広げた。だが、ファビアンは葉巻をくゆらせたまま、その紙を一瞥もしなかった。
「……帰れ」
「は? しかし社長、時代の波に乗り遅れますぞ! 隣の染色工場は廃業して全財産をイモに突っ込みました!」
「だから帰れと言っている」
ファビアンは煙を吐き出し、静かに、しかしドスを利かせた声で言った。
「私は服屋だ。糸を紡ぎ、布を織り、服を縫って売る。それが私の商売だ。……実体のないイモの絵に金を払うなど、道楽にもならん」
かつてファビアンは、利益至上主義に走り、労働者を虐げて破滅しかけた。それを蓮とアンナに救われ、「良い製品は、良い労働環境から生まれる」という真理を学んだ。今の彼にとって、汗をかかずに得られる金など、不純物でしかなかった。
「それにな、若造。私の工場で働く『お針子』たちの給料は、彼女たちがミシンを踏んだ回数で決まる。博打で儲けた汚い金で払う給料に、彼女たちが感謝するとでも思うか?」
ファビアンは、セールスマンの目の前で提案書を破り捨てた。
「二度と敷居をまたぐな。ここは『ものづくり』の場だ。博打打ちの来る場所ではない」
◆
一方、ボルドー製鉄所の社長室では、もっと直接的な怒号が響いていた。
「なんだと!? 土地の買収交渉が決裂しただと!?」
ボルドーが拳で机を叩くと、インク壺が跳ねた。秘書のシモンが、青ざめた顔で報告を続ける。
「は、はい……。予定していた鉄道延伸ルート上の地主たちが、一斉に売却を拒否しました。『この土地は将来、イモ畑にすれば百倍の価値になる』と……」
「馬鹿者どもめ!!」
ボルドーは激昂した。彼が計画していたのは、王都と北部の鉱山地帯を結ぶ新しい鉄道路線だ。これが完成すれば、鉄鉱石の輸送コストが半減し、国の産業基盤は飛躍的に強化されるはずだった。それが、「イモが植えられるかもしれない」という想像による地価高騰で、完全に頓挫してしまったのだ。
「……嘆かわしい。鉄路は国の大動脈だぞ。それを、たかが投機の道具ごときに邪魔されるとは」
ボルドーは窓際に立ち、眼下に広がる広大な操車場を見下ろした。そして、デスクに広げられた巨大な地図を指差した。そこには、王都から北部の鉱山地帯へと伸びる、建設予定の鉄道路線が赤く引かれている。
「いいか、シモン。俺はこの計画のために、十年前からルート上の土地を極秘裏に買い進めてきた。この赤い部分、全体の8割はすでに俺の土地だ」
シモンは地図を覗き込み、息を呑んだ。「8割……! これだけの土地を、バブル前に? だとしたら、今の地価高騰で、閣下の持つ資産価値はとんでもないことになっているんじゃ……」
「ああ、そうだ。含み益だけで、左団扇で暮らせる額だ」
ボルドーは葉巻の煙を吐き出し、ニヤリと笑った。だが、その目は笑っていなかった。
「周りの銀行屋どもは俺に言う。『社長、鉄道なんて面倒な事業はやめて、この土地を今すぐ転売しましょう。それだけで巨万の富です』とな。……馬鹿が。俺が見ているのは、そんな目先の小銭じゃない」
ボルドーは地図上の「駅予定地」を拳で叩いた。
「鉄道が通れば、人の流れが変わる。荒野は住宅地になり、駅前には市場ができる。俺が安値で仕込んだこの土地は、鉄道という『付加価値』によって、10倍、いや100倍の実体価値を持つことになる。……それが『開発』だ。何も生まないイモの転売とはわけが違う」
シモンは戦慄した。この男は、単なる経営者ではない。恐るべきビジョンを持った資本家だ。
「だが……残りの2割だ」ボルドーの声が苦々しく響く。
「ルート上に点在する残り2割の土地。こいつを、イモに狂った投機家どもが買い占めやがった。『鉄道が通れば値上がりする』と嗅ぎつけてな。……奴らは俺の足元を見て、法外な値段を吹っかけてきやがる」
「だから、工事が止まっているのですね」
「そうだ。奴らは自分では枕木一本敷く気がないくせに、俺が汗水垂らして作る鉄道の『果実』だけを横取りしようとしている。……そんな寄生虫どもに屈して、俺の計画を汚されてたまるか」
ボルドーは、地図上の「未買収地」に×印をつけた。
「だから、俺は待つことにした。延伸計画は無期限延期だ」
「待つって……バブルが弾けるのを、ですか?」
「そうだ。泡が弾け、奴らが破産し、二束三文で土地を手放すその時まで、俺は枕木一本動かさん。……俺の土地の価値は、鉄道が通って初めて完成する。10年でも20年でも待ってやるさ」
鉄の王は冷酷に言い放った。
「見ていろ。バブルという蜃気楼が消えた後、最後にこの大地に鉄の道を刻むのは、投機家じゃない。……『実業』だけだ」
◆
王都の夜景は、かつてないほど煌びやかだった。あちこちで花火が上がり、成金たちの嬌声が響いている。だが、その光の陰で、ファビアンの縫製工場からはミシンの音が、ボルドーの製鉄所からは蒸気の音が、変わらぬリズムで響き続けていた。彼らは踊らなかった。ただ黙々と、布を織り、鉄を打ち続けた。
その姿は、華やかなバブルの影で時代遅れに見えたかもしれない。しかし、彼らこそが、やがて来る嵐の中でこの国を支える「錨」となることを、まだ誰も知らなかった。ファビアンは縫いかけのシャツを手に取り、ボルドーは懐中時計の蓋を閉じる。二人の「実業家」の目には、今の王都の繁栄が、まるで腐りかけの果実のように脆く映っていたのである。




