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◆第14話「沈黙の聖域と、ノアの方舟」

 王都の空気が、腐り始めた果実のように甘ったるく、そして重苦しくなっていた頃。狂乱の証券取引所から数ブロック離れた場所に、その喧騒を拒絶するように静まり返る場所があった。ソラニア中央大聖堂。石造りの重厚な扉の向こう側だけが、この街に残された最後の静寂だった。


 夕暮れ時。ステンドグラスから伸びる光が、無人の礼拝堂に長い影を落としている。その最前列の長椅子に、藤村蓮は深く背を丸めて座っていた。彼は祈っていたわけではない。ただ、震えを抑えていたのだ。これから自分が引き起こそうとしていることの、恐ろしい結末を想像して。


「……珍しいですね、蓮殿。あなたが神に救いを求めるとは」


 背後から、静かな、しかし威厳のある声が響いた。祭壇の奥から現れたのは、大司教ドミニクスだった。その瞳には、全てを見透かすような叡智が宿っている。


「ドミニクス猊下……」

「顔色が悪い。まるで、これから戦場に赴く兵士のようですな」


 ドミニクスは蓮の隣に腰を下ろした。普段なら冗談の一つも言い合う間柄だが、今の蓮にその余裕はない。蓮は膝の上で固く握りしめた拳を見つめながら、絞り出すように言った。


「……戦場の方がマシかもしれません。敵が見えますから。でも、今、王都を覆っているのは、目に見えない『欲望』という怪物です」


 蓮は語り始めた。今、市場で起きていることの異常さを。実体のない証券が飛び交い、農民がクワを捨て、未来の孫の労働力までが担保にされている現状を。

「これは『バブル』です。泡です。膨らめば膨らむほど、表面は美しく虹色に輝きますが……中身は空っぽだ。そして、極限まで膨らんだ泡は、必ず弾ける」

「弾ければ、どうなるのです?」


「地獄になります」

 蓮は断言した。

「泡が弾けた瞬間、国中の金が蒸発します。銀行は潰れ、工場は止まり、物流が死ぬ。……昨日まで宝石を持っていた気になっていた人々が、翌日にはパン一つ買えずに路頭に迷うんです」


 ドミニクスは長い沈黙を守った。彼は経済の専門家ではない。だが、長く人の世を見てきた宗教家として、街に漂う異常な熱気が、破滅の前兆であることは肌で感じていた。

「……人々を、止められないのですか? あなたが真実を告げれば、あるいは」


「無理です」

 蓮は首を振った。

「今の彼らは、集団催眠にかかっているようなものです。『まだ上がる』『自分だけは逃げ切れる』と信じ込んでいる人間に、冷や水をかけても怒り出すだけだ。……それに、僕自身が『イモ工場の主』として、この熱狂の片棒を担いでしまっている」


 蓮の声には、深い悔恨が滲んでいた。ジャガイモを普及させ、国を豊かにした。その結果が、この狂乱だ。便利すぎる道具を与えられた子供が、使い方を間違えて自らを傷つけようとしている。


「だから、僕は終わらせます。……これ以上、傷口が広がる前に、僕の手で無理やりにでも泡を割る」「……『空売り』というやつですかな」

「ご存知でしたか」

「噂は聞きますよ。市場を冷やすための、荒療治だと」


 蓮はドミニクスの方を向き、その目を真っ直ぐに見据えた。

「はい。ですが、その衝撃で多くの人が傷つきます。資産を失い、職を失い、絶望するでしょう。……その時、彼らを受け止める『セーフティネット』が必要なんです」


 蓮は懐から、一枚のメモを取り出した。そこには、詳細なリストが書かれていた。『小麦粉、乾燥豆、塩、薪、毛布、医薬品』


「猊下。お願いがあります。教会の資産を使って、これを買い集めてください。証券でも、金貨でもなく……『現物』を」


 ドミニクスが眉をひそめた。

「教会の倉庫を、食料庫にせよと?」

「はい。バブルが弾ければ、お金は紙屑になります。でも、小麦は小麦のままです。……人々が飢え、寒さに震えた時、彼らを救えるのは『説教』ではなく『スープ』です」


 蓮は、床に膝をつき、ドミニクスの手をとった。それは懇願だった。

「僕が市場を壊します。僕が悪魔になって、この国の経済を一度殺します。……だから猊下、あなたは『ノアの方舟』を用意してください。大洪水が起きた後、人々が生き延びるための、最後の砦になってほしいんです」


 冷たい石畳の上で、蓮の手は熱く、そして小刻みに震えていた。ドミニクスは、その手の震えから、この若者がどれほどの覚悟と罪悪感を抱えて決断したのかを悟った。彼は自分の財産を増やしたいのではない。自分が始めた物語の、残酷な結末に責任を取ろうとしているのだ。


 ドミニクスは、蓮の手を両手で包み込んだ。

「……分かりました。あなたの共犯者となりましょう」


「猊下……!」

「神は言われました。『富める者が天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい』と。……教会に集まる浄財を、死んだ証券に変えるより、生きたパンに変えることこそ、本来の道でしょう」


 ドミニクスは立ち上がり、祭壇の十字架を見上げた。

「パウロ司祭あたりは、『資産運用をして屋根を直しましょう』などと言ってくるでしょうが……頑固な者として振る舞うのは得意でしてな」

 司教は、悪戯っぽくウィンクしてみせた。

「それに、あなたの予言が外れて、ただ単に教会が大量の食材を抱え込んだとしても……盛大なパーティーを開けば済む話です」


「……ありがとうございます。本当に」

 蓮は深く頭を下げた。胸のつかえが、少しだけ取れた気がした。少なくとも、最悪の事態になっても、飢え死にする人々を減らす手はずは整った。


「行きなさい、蓮殿。あなたは、あなたの戦場へ」

「はい」


 蓮は立ち上がり、踵を返した。その背中は、来た時よりも少しだけ広く、そして孤独に見えた。


 彼が礼拝堂を出て行った後、ドミニクスは一人、祭壇の前で祈りを捧げた。

「主よ。あのような心優しき若者に、悪魔の仮面を被らせる無慈悲をお許しください。……そして、来るべき嵐の夜、我らが迷える羊たちの灯火とならんことを」


 教会では、ドミニクスの厳命により、地下倉庫への備蓄が極秘裏に開始された。街はまだ、永遠に続くかのような繁栄の夢の中にいた。だが、地下深くでは、来るべき冬に備えて、「種」が蒔かれ始めていたのである。

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