006 / 黒い薔薇
【3年前 4月】
佐伯真由は仏頂面で洋館の廊下を歩いていた。
普通の人が不機嫌そうにしていても鬱陶しいだけだが、それがファッション雑誌の表紙を飾れそうな美人であれば話は変わる。それはもう、美術館に飾られた絵画と同じく一つの芸術品。儚さと可憐さを兼ね備えた美貌には、見る人の心を震わせる魅力が秘められていた。
「……どうして、男って皆あんなにも愚かなのかしら?」
天城家の本家からやってきた幹部の男を思い出すだけで吐き気がする。醜い欲望に濁った粘着質な眼差し。内面ではなく、外見だけを愛でる下心に満ちた瞳。それを不躾に向けられる神経が信じられない。
今回だって押していた車椅子に乗った灰汐航が助けてくれなければどうなっていた事か。まず間違いなく声を掛けられていただろう。ただ面白くもない話を永遠と聞かされるだけならいいが、立場の違いを利用して無理やり部屋に連れ込まれていた可能性もある。
だが、それは仕方のない事なのかもしれない。
ファンタジーに登場する魅力の魔術。吸血鬼や淫魔が人間の自由意志を欠落させるために使う異能を、真由は仕草や声音といった技術で再現するよう叩き込まれていた。無意識でも発動してしまうそれは、もはや呪いと言っても差し支えがない。
美。
普通なら絶対に手が届かない高嶺の花。
それこそが自分自信の価値であり、大人達から要求されている役割だ。
『虎の院』の目的は裏社会で活躍する人材の育成。社会から求められているのは、何も戦闘力の高い界術師だけではない。
例えば、情報収集の専門家。
界力獣を使った索敵や盗聴能力。それに加えて、情報を聞き出すために目的の人物と親しくなったり、どんな集団にすぐに溶け込んだりできるコミュニケーション力と人間的な魅力が必要となる役割だ。
その点、真由には天性の才能があった。
人間関係を操る感覚に、相手の感情や集団の空気を思い通りに変える立ち回り。特に異性を手玉に取る事に関しては右に出る者がいない。生まれながらの魔性。その数字にはできない能力を買われての抜擢だった。
プロとしての情報収集。その技は言葉遣いや仕草だけに留まらない。
色仕掛け。
そう言えば聞こえは悪いが、これだって立派な戦術だ。少なくとも真由はそう思っている。
女として、男と向き合う。
当然軽蔑されるだろうし、一般的には理解されない事も重々承知している。だけど、驚く程に抵抗がなかった。初めてそういう任務に就いた時も、全く何も感じない自分に拍子抜けしたくらい。むしろ考えていたのは、どうすればもっと効率良く相手の心を奪えるかという点だった。
心にはスイッチがある、と真由は考えている。
仕事だと割り切れば感情だって無視できるし、自尊心もプライドも切り捨てられる。酩酊したみたいに思考が停止したあの瞬間ならば、理不尽な土下座だって受け入れられるし、殺したいほど憎い相手の靴だって喜んで舐められるのだろう。
その時に脳を支配しているのは、どこまでも冷徹な損得勘定。自分の行動で、どんな結果が得られるのか。揺れる天秤が釣り合いさえすれば、どんな要求でも受け入れられる自信があった。
仮に高校生として学校に潜入したら、数ヶ月でクラスの人間関係を滅茶苦茶にできるだろう。友人関係も、恋愛模様も、全てをグチャグチャに掻き混ぜて、自分は傷を負わないままステンドグラスみたいにバラバラになった人間関係を眺めて愉悦に浸るのだ。
「(最低ね、私)」
そう思いながらも、全く自分に嫌気が差さない。
どこか大切な部分が壊れている自覚はあった。けれども、病的なまでに合理的な考え方も、自分の価値を最大限に生かす戦い方も嫌いではない。結局、評価されるのは過程ではなく結果だ。自分なりの最短距離を走っていると思えば、これ以上に有意義な事はなかった。
古い洋館の長い廊下を進んで行き、真由は先程までいた応接室の前で足を止めた。ノックせずに、重たいダークブラウンの扉を押す。
「……真人?」
灯りの消えた薄暗い室内で、澤島真人が俯いたまま立ち尽くしていた。
長めの茶髪が垂れ下がっていて表情までは見通せない。入室者に気付いたのだろう。魂が抜けたみたいに弱々しい動きで、子どもの頃から付き合いのある一つ歳下の幼馴染みはゆっくり顔を上げた。
「真由か……どうした?」
「先生に頼まれて書類を取りに来たのよ。そういう真人は? 電気も点けずに一人で何してるの?」
「大した事じゃないよ……ただ、少しさ」
ぐしゃり、と紙を握り潰した音が薄暗い室内に響く。その正体は先ほど幹部に発表していた作戦指示書の紙束か。幼馴染みの悔しそうな様子から、真由は何となくの事情を察した。
「さっきの会議の内容が、そんなに納得できなかった?」
「……っ!」
真人はギリリッと音が漏れ聞こえそうなほど強く歯軋りをする。顔に落ちた深い陰翳には、普段の飄々とした態度からは想像できない程の黒い感情が刻まれていた。
「……真由は悔しくなかったのか? 新入りにあんな事を言われて」
「別に、霧沢君は事実を言ってるだけだから」
「事実だとしても、直也はまだ子どもなんだぞ! 任務も実戦も経験した事ないくせに、分かったような顔で僕を見下したんだ……黙って見過ごせる訳がないだろうが!!」
確かに今年で19歳になる真人からすれば、まだ13歳で新入りの霧沢直也は子どもにしか見えないだろう。こちらの苦労や状況など考えず、融通の利かない機械みたいに淡々と事実を告げる少年に怒りを覚える気持ちは理解できる。
正論過ぎる正論は、もはや暴論という名の刃だ。
人間関係を意のままに操る真由にとっては当たり前の常識。重要なのは様々な立場の人々を慮って『空気を読む』事なのだが、それを知らず正面からぶつかる事が正しいと思っている辺り、やはり霧沢直也は歳相応の子どもである。ただ、その子どもに正面から言い負かされて、ぐちぐちと陰口を叩く真人も同レベルにしか見えないのだが。
「熱くなってるところ悪いけど、どうでもいいってのが本音よ。私に面倒事が降り懸からなければそれで良いわ」
「ドライだな、相変わらず」
「興味がないのよ。私は自分の役割を果たすだけ。その結果に対して正当な報酬と評価が貰えれば文句はないわ。人生なんて、なるようにしかならないんだから」
「なるようにしかならない、か……だけど、そうやって流れに身を任せてたら後悔しないか?」
「しないわよ。前にも言わなかったっけ? 私、今まで生きてきて後悔した事ないの。後悔するほど色んな物に興味が持てないからでしょうけど」
「なるほどな、僕にはとてもできそうにない」
何やら女々しく呟く真人には視線すら向けず、背丈よりも大きな書棚の前に移動した。ファイルに印刷された題名を人差し指で追いながら目的の書類を探して行く。
「……昨日さ、実家から電話があったんだよ」
ファイルを引っ張り出そうとしたタイミングで、真人が重たい口を開いた。
「いつまで見習いのままでいるんだって怒られた。期待外れ、面汚し……後は、なんて言われたかな? とにかく散々な言われ様だったよ。とても実の息子に掛ける言葉とは思えない」
「昔から真人の家は厳しいから。そこは素直に同情するわ」
真人の両親は昔ながらの界術師だ。本家や分家といった縦社会に適合して、天城家の発展の為に生涯を費やす事を喜びとする。今時の感覚からすれば受け入れ難いかもしれないが、古い慣習の残る界術師の世界ではこれが常識。その為、いつまでも結果を出さない息子に対して辛辣になるのは十分に理解できた。
ちなみに、真由と真人――二人とも名前に『真』という漢字が使われているが、これは二人の家族がお世話になった人の名前に由来していたりする。
「どんな些細な事でもいいから、僕は結果が欲しかった」
ファイルの中の書類を確認してから、苛立ちを噛み砕いたみたいな声で話す幼馴染みに向き直った。
「実戦訓練に参加が認められて良かったよ。僕の力を証明するチャンスだ。今までの失敗は運が悪かっただけだって頭の固い連中に分からせてやる。適格者なんて理不尽に僕の人生を潰されて堪るか」
「あんまり思い詰めて体調とか崩さないでよ? 真人が倒れたら、私がリーダーをやる羽目になるんだから。面倒事を押し付けるのだけは勘弁して」
「相変わらず自分本位だな、真由は。安心してよ、死んでも倒れる気なんてないから。惨めな想いをしてきた分の報酬を貰わないとね」
真人は右手で長い前髪を掻き上げた。
精一杯の気丈を装っているつもりなのだろうが、ぎこちなさは拭えていない。目許には隈みたいな翳が浮いているし、表情にだって硬さが残っている。納得できていないのは誰が見ても明らかだった。
「なあ、真由」
応接室から出ようとすると、取り繕ったみたいに明るい声で真人に呼び止められた。
「次の休暇さ、外出許可を貰って一緒にどこかへ出掛けないか? ほら、二人でなんて、もう何年も遊んでないだろ? 気分転換にもなるし、久しぶりにどうかなって思ってさ」
「……、」
立ち止まり、気付かれないよう小さく、小さく、溜息を吐く。
真人との関係は、一言で説明するのは難しい。幼馴染みで家同士の仲が良かったため、物心付いた時から時間を共に過ごしてきた。お互いの家の繋がりを密接にするために、子供の頃は許嫁として将来を決められていたくらいだ。
今となっては有耶無耶で、有効かどうか分からない約束。真人と結婚した方が澤島家と佐伯家にとって都合が良いため両親は薦めてくるだろうが、本音を言えば絶対に回避したい未来だった。
「それにほら、この指輪!」
答えあぐねているのを好機と見たのか、パッと見れば可愛い系のイケメンである幼馴染みが、右手の人差し指に嵌めた銀の指輪を見せてきた。
「二年前の誕生日に真由から貰ったけどさ、まだお返しができてないだろ? それも兼ねてさ、ご飯でもどう?」
指輪なんてあげたっけ? と首を傾げそうになる。
言われてみれば、両親に言われて仕方なく誕生日プレゼントを見繕った気もしてきた。しかし、その程度の記憶。言われるまでは忘れているくらいには、興味と関心の薄い出来事という訳だ。
「(好きの反対は嫌いじゃなくて無関心ね……)」
そう、無関心。
はっきり言って、どうでもいい。
幼馴染みが自分に向けている感情の正体も、どんな事を望んでいるのかも、どんな言葉を掛けてあげれば喜ぶのかも、全て手に取るように分かる。決して表に出そうとしない邪な欲望も、純粋で綺麗な想いも、何もかもが透けて見えてしまう。
人間としての底が浅い。
赤の他人に想像される程度の深さしかない。
だからこそ、真人に対しては昔から全く興味が湧かったのだろう。
いっその事、本音をはっきり告げてあげようかとも思ったが止めておいた。『虎の院』にいる間は、リーダーである真人に好意を抱かせておいた方が何かと都合が良いからだ。
真由は申し訳なさそうな表情の仮面を被ってから、グレージュカラーの長髪を広げるように振り返った。
「ごめんなさい、行けそうにないわ。誘ってくれて嬉しいんだけど、先生を一人にする訳にはいかないから」
「……そう、だよな……うん、分かった。ごめん、また誘うよ」
「ええ、ありがとう」
左右に泳ぐ真人の瞳。一瞬だけ落胆の光が過ぎるが、すぐに愛想笑いを浮かべた。本当に詰めが甘い。その程度の動揺すら隠せないのでは、いつまで経っても三下のままだ。
応接室から出て扉を閉めた瞬間に仮面を取る。赤い絨毯の敷かれた廊下を歩くのは、異性の心を操る一人の悪女だった。
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