悪役令嬢、男爵令嬢をいじめる。
オフィーリア視点
ある日の昼休み、学園の中庭は穏やかな陽射しに包まれていた。
談笑する令嬢達の中に、ひときわ張り詰めた空気が走る。
「マリアン、そこにいらしたのね。ちょうど良かったわ」
名を呼ばれた瞬間、周囲の視線が一斉に集まる。
マリアンは一瞬だけ足を止めた後、静かに歩み寄り、深く頭を下げた。
「お呼びでしょうか、オフィーリア様」
「ええ。貴女、それを全てお持ちなさい」
視線の先には、机の上に置かれた書物や資料、たくさんの荷物があった。
到底一人で運ぶには大変だと一目で分かる。
ざわり、と周囲がざわめく。
「……承知しました」
マリアンは迷うことなく頷き、荷物へと手を伸ばした。
「それと」
オフィーリアが扇を軽く鳴らす。
「今日の講義のノート、後で写して持ってきなさい。見づらい字は困るわ」
マリアンが辛そうに顔を歪め固まる。
「まさか断るつもりではありませんわよね? 男爵令嬢が侯爵令嬢の頼みを」
念を押すような一言に、空気がさらに冷える。
「そのようなことは」
短く答え、マリアンは荷物を抱え上げる。
重みでわずかに体が揺れた。
「……かしこまりました」
再び小さく頭を下げるマリアン。
その手が、荷物を持ち直す際にオフィーリアの指先がそっとマリアンに触れた。
──冷たい。
一瞬、マリアンの動きが止まる。
オフィーリアの指先は白手袋越しでも分かるほどに硬く、わずかに震えていた。
(ごめんなさい。でも、こうするしかないの)
喉まで出かかった言葉を押し殺す。
「何をしているの? さっさと行きなさい」
冷ややかな声音が、感情を切り捨てる。
「……失礼致します」
マリアンは何も言わず、その場を後にした。
周囲にひそひそとした声が広がる。
「また……」
「ひどいわね」
「あれではまるで──」
──悪役令嬢だ。
そんな囁きを背に受けながら、オフィーリアはゆっくりと扇を閉じた。
その手が、かすかに力なく揺れていることに気付く者は、誰もいなかった。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
中庭へと続く回廊の影。
そこに、見慣れた姿があった。
リンドールが、こちらを見ている。
何も言わず、ただ静かに。
その視線は、先程の一部始終を確かに見ていたことを物語っていた。
胸の奥が、ひどく軋む。
けれどオフィーリアは、何事もなかったかのように小さく微笑んでみせる。
「……何か?」
届くはずもない距離で、そう形だけ唇を動かし──
すぐに興味を失ったかのように、ゆっくりと視線を逸らした。
こうしてオフィーリアは、公衆の面前でマリアンを虐める“演技”を続けた。
悪役令嬢の噂が学園中に浸透した、冬の終わり。
病は確実に進行していた。
腕は肘の下あたりまで黒く変色し、常に痺れが走る。ティーカップを持つことすら、やっとという有様だった。
「オフィーリア様、婚約解消されたら、どちらへ行かれるおつもりですか?」
「そうね……この体だもの、限界はあるでしょうけれど。辻馬車を乗り継いで、どこか知らない土地へ行くのもいいかもしれないわ。まあ、現実的ではないけれど」
「でしたら、私と一緒に領地へ来ませんか?」
思いがけない提案に、オフィーリアは瞬きをする。
「マベリーク男爵の領地……西の辺境伯領、その南方にある海沿いの土地だったわね?」
頭の中に地図を思い浮かべる。
南西に位置するその領は、大きくはないが港を有し、活気のある土地だと教師から教わった記憶がある。
「でも、私は退学すればいいけれど、貴女は学園があるでしょう?」
「うーん……実は私、学園のことはそれほど重要じゃなくて。大好きな幼馴染が王都にいるから、そばに居たくて通っていただけなんです」
あっけらかんとした言葉に、オフィーリアは目を丸くする。
「大胆ね」
「今も診療所を手伝っている方がずっと楽しいですし。それで彼とも、この診療所を閉めて領地へ戻ろうかって話していて……オフィーリア様も一緒なら、きっと楽しいんじゃないかなって思ったんですけど」
マリアンの隣に立つカール医師に視線を向けると、彼は静かに、しかし力強く頷いた。
──こんな優しさが、あっていいのだろうか。
胸の奥がほどけるように緩み、同時に、どうしようもなく熱くなる。
気付けば、涙が溢れていた。
きっと彼女たちは、オフィーリアを侯爵令嬢としてではなく、ただの一人の人間として見てくれている。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「……ありがとう」
掠れた声でそう告げる。
黒く変色した手を、マリアンは躊躇わずにそっと握った。
「私の男爵領を、オフィーリア様に自慢したいんですよぅ」
照れたように笑うその姿に、オフィーリアも小さく笑みを返した。
婚約解消を申し出た、その日の夜。
宝石箱から取り出したのは小さな宝石のついた指輪だった。
幼い頃、彼から贈られたもの。
当時は少し大きくて、すぐに外れてしまうからと大切にしまい込んでいた品だ。
時々取り出しては懐かしんでいた。
そっと指に通す。
大人になってからは逆に嵌まらなくなってしまっていたそれが、今はするりと収まった。
「……あら」
細くなってしまった指。
変わっていく自分の体を、こんな形で思い知らされるなんて。
けれど──
「今なら、ちゃんと持っていられるのね」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
外そうと思えば、きっと簡単に外せる。
それでも、外す気にはなれなかった。
これだけは。
これだけは、最後まで手放したくない。
動かなくなっていく手の中で、ただ一つ残されたもののように、指輪は静かにそこにあった。
マリアンの辛そうな姿は演技ではありません。




