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『猫吸いしてたら猫が喋り出した件』

 雨だった。


 最悪な日には、だいたい雨が降る。


 残業で終電を逃しかけ、コンビニでは弁当の温めを忘れられ、上司からは『悪い、明日の資料も追加で』とだけ送られてきた。


 時刻は午前零時過ぎ。


 佐伯悠真、三十二歳、独身。


 世間的には“独身貴族”らしい。


 笑わせる。


 貴族なら、こんな湿ったワンルームへコンビニ弁当をぶら下げて帰ったりしない。


「はぁ……」


 重い身体を引きずりながら、アパートへ続く細い路地を歩く。


 その時だった。


「にゃぁ……」


 小さな鳴き声。


 悠真は足を止めた。


 電柱の下。潰れかけた段ボール。


 その中に、黒猫がいた。


 びしょ濡れで、小さいくせに妙に目だけ強い。


「……お前、終わってんな」


 猫は鳴かない。


 ただじっと、悠真を見上げていた。


 見捨てるべきだと思った。


 今の自分に何かを飼う余裕なんてない。


 なのに。


「……あーもう」


 気づけば抱き上げていた。


 軽かった。


 驚くほど。



「暴れるなって」


「にゃー!」


「うおっ、爪!」


 帰宅後、風呂場で軽く身体を洗う。


 猫は全力で嫌がった。


 ドライヤーにもキレた。


 タオルにもキレた。


 ようやく落ち着いた頃には、悠真のスーツは毛だらけだった。


「お前ほんと自由だな……」


 黒猫はふいっと顔を背ける。


 悠真はコンビニで買ったサラダチキンを少し裂き、皿へ置いた。


 猫は最初だけ警戒し、その後ものすごい勢いで食べ始めた。


「腹減ってたのか」


 返事はない。


 当然だ。


 猫なのだから。


 悠真はコンビニ弁当を机へ置く。


 だが、食欲が湧かなかった。


 ネクタイだけ外し、そのままソファへ倒れ込む。


「……疲れた」


 薄暗い部屋。


 聞こえるのは冷蔵庫の音だけ。


 会社と家を往復するだけの日々。


 気づけば、まともに誰かと話すことも減っていた。


 黒猫が、ぴょん、と腹の上へ乗ってくる。


「うお」


 当然のように丸くなる猫。


「……そこ好きだなお前」


 小さく笑いながら、悠真は猫を抱き上げた。


 そして。


「……すぅぅ……」


 腹へ顔を埋める。


 温かい。


 柔らかい。


 生き物の匂いがした。


 その瞬間だった。


(きもいにゃ。)


「っ!?」


 悠真は勢いよく顔を上げた。


 黒猫は真顔だった。


「……は?」


 部屋には誰もいない。


 テレビも付いていない。


 聞こえるのは外の雨音だけ。


 悠真はゆっくり周囲を見回した。


「……疲れてんな、俺」


 連勤十二日目。


 寝不足。


 まともな食事もしていない。


 幻聴くらい聞こえてもおかしくない。


 そう結論付け、再び猫へ視線を戻す。


 黒猫はじっと悠真を見ていた。


(あと汗くさいにゃ。)


「…………」


 悠真の眉がぴくりと動く。


「お前、今なんつった?」


(くさいにゃ。)


「聞き間違いじゃねぇのかよ……」


 黒猫はふあぁ、と欠伸をした。


 そして。


(でも、ちょっと安心したにゃ。)


 悠真の動きが止まった。



「佐伯、最近ミス減ったな」


「……え?」


 悠真は顔を上げた。


 珍しく、上司が機嫌よさそうにこちらを見ている。


「前までボロボロだっただろ。ちゃんと寝てんのか?」


「あー……まぁ、少し」


 寝ている、というより。


 帰宅して猫を吸っている。


 その時間だけは、

 頭の中のぐちゃぐちゃしたものが静かになるのだ。


「いいことじゃん。最近ちょっと顔つき違うぞ」


「……そうですか?」


「前まで今にも死にそうだったしな」


 周囲が小さく笑う。


 悠真もつられて少し笑った。


 そんな風に笑ったのは、

 いつぶりだったか思い出せなかった。



「ただいま」


 少しだけ足早に部屋へ入る。


 ドアが閉まるより先に、黒猫が足元へ駆け寄ってきた。


「おー、今日もいたか」


 悠真は自然と頬を緩めながら猫を抱き上げる。


 最初の頃みたいな重さは、もうなかった。


 ネクタイを緩めるより先に、

 猫を抱き上げるのが当たり前になっている。


「……すぅぅ……」


 温かい。


 柔らかい。


 肺の奥に溜まっていたものが、少しずつ抜けていく。


(最近、吸い方に迷いなくなってるにゃ。)


「うるせぇ」


(気分よさそうにゃ。)


「……まぁな」


 仕事が少しだけ楽だった。


 理不尽は変わらない。


 会社も別に好きじゃない。


 でも。


 帰ればこいつがいる。


 それだけで、

 少しだけ頑張れた。



 そんな日々が、しばらく続いた。



「ただいま」


 いつものように部屋へ入る。


 黒猫はいつものように足元へ寄ってくる。


 悠真はいつものように抱き上げた。


「……すぅぅ……」


 温かい。


 柔らかい。


 安心する。


 けれど。


「…………」


 聞こえない。


 悠真はゆっくり顔を上げた。


「おい」


 黒猫はきょとんとしている。


「……なんか言えよ」


 返事はない。


 猫はただ、小さく欠伸をしただけだった。



 次の日も。


 その次の日も。


 声は聞こえなかった。



 あれは何だったのだろう。


 疲れ切った脳が見せた幻聴か。


 壊れかけた心を守るために、

 勝手に作り出した優しさか。


 それとも。


 本当に、

 こいつは喋っていたのか。


 答えは分からない。


 ただ一つ分かるのは。


 あの時間に、

 自分は確かに救われていたということだった。


 最初は、ただの猫吸いだった。


 温かくて、

 柔らかくて、

 少しだけ安心できる時間。


 でも今なら思う。


 あれはきっと。


 猫吸いじゃなく、

 猫救いだったのだ。



 悠真は黒猫を抱き上げる。


 昔みたいに顔を埋めた。


 温かい。


 柔らかい。


 でも、もう声は聞こえない。


「……ありがとな」


 黒猫は迷惑そうに尻尾を揺らした。


「にゃぁ」

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

猫が喋る話を書くつもりだったのに、

気づけば“壊れかけた心”についての話になっていました。


疲れている時、誰にも言えない時、

帰る場所すら少し苦しく感じる時。

そんな時に、

もし猫様が隣に来てくれたら。


勝手に寄り添って、

勝手に救って、

勝手に居座ってくれたら。


少しくらい、

また頑張れるのかもしれません。


この物語の声が幻聴だったのか、本当に猫の声だったのかは、読んでくださった皆様にお任せします。


ただ一つだけ。


誰かにとっての“猫救い”が、きっとあるのだと思っています。


皆様の元にも、いつか猫様が救いに来てくれることを願っています。

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