『猫吸いしてたら猫が喋り出した件』
雨だった。
最悪な日には、だいたい雨が降る。
残業で終電を逃しかけ、コンビニでは弁当の温めを忘れられ、上司からは『悪い、明日の資料も追加で』とだけ送られてきた。
時刻は午前零時過ぎ。
佐伯悠真、三十二歳、独身。
世間的には“独身貴族”らしい。
笑わせる。
貴族なら、こんな湿ったワンルームへコンビニ弁当をぶら下げて帰ったりしない。
「はぁ……」
重い身体を引きずりながら、アパートへ続く細い路地を歩く。
その時だった。
「にゃぁ……」
小さな鳴き声。
悠真は足を止めた。
電柱の下。潰れかけた段ボール。
その中に、黒猫がいた。
びしょ濡れで、小さいくせに妙に目だけ強い。
「……お前、終わってんな」
猫は鳴かない。
ただじっと、悠真を見上げていた。
見捨てるべきだと思った。
今の自分に何かを飼う余裕なんてない。
なのに。
「……あーもう」
気づけば抱き上げていた。
軽かった。
驚くほど。
◇
「暴れるなって」
「にゃー!」
「うおっ、爪!」
帰宅後、風呂場で軽く身体を洗う。
猫は全力で嫌がった。
ドライヤーにもキレた。
タオルにもキレた。
ようやく落ち着いた頃には、悠真のスーツは毛だらけだった。
「お前ほんと自由だな……」
黒猫はふいっと顔を背ける。
悠真はコンビニで買ったサラダチキンを少し裂き、皿へ置いた。
猫は最初だけ警戒し、その後ものすごい勢いで食べ始めた。
「腹減ってたのか」
返事はない。
当然だ。
猫なのだから。
悠真はコンビニ弁当を机へ置く。
だが、食欲が湧かなかった。
ネクタイだけ外し、そのままソファへ倒れ込む。
「……疲れた」
薄暗い部屋。
聞こえるのは冷蔵庫の音だけ。
会社と家を往復するだけの日々。
気づけば、まともに誰かと話すことも減っていた。
黒猫が、ぴょん、と腹の上へ乗ってくる。
「うお」
当然のように丸くなる猫。
「……そこ好きだなお前」
小さく笑いながら、悠真は猫を抱き上げた。
そして。
「……すぅぅ……」
腹へ顔を埋める。
温かい。
柔らかい。
生き物の匂いがした。
その瞬間だった。
(きもいにゃ。)
「っ!?」
悠真は勢いよく顔を上げた。
黒猫は真顔だった。
「……は?」
部屋には誰もいない。
テレビも付いていない。
聞こえるのは外の雨音だけ。
悠真はゆっくり周囲を見回した。
「……疲れてんな、俺」
連勤十二日目。
寝不足。
まともな食事もしていない。
幻聴くらい聞こえてもおかしくない。
そう結論付け、再び猫へ視線を戻す。
黒猫はじっと悠真を見ていた。
(あと汗くさいにゃ。)
「…………」
悠真の眉がぴくりと動く。
「お前、今なんつった?」
(くさいにゃ。)
「聞き間違いじゃねぇのかよ……」
黒猫はふあぁ、と欠伸をした。
そして。
(でも、ちょっと安心したにゃ。)
悠真の動きが止まった。
◇
「佐伯、最近ミス減ったな」
「……え?」
悠真は顔を上げた。
珍しく、上司が機嫌よさそうにこちらを見ている。
「前までボロボロだっただろ。ちゃんと寝てんのか?」
「あー……まぁ、少し」
寝ている、というより。
帰宅して猫を吸っている。
その時間だけは、
頭の中のぐちゃぐちゃしたものが静かになるのだ。
「いいことじゃん。最近ちょっと顔つき違うぞ」
「……そうですか?」
「前まで今にも死にそうだったしな」
周囲が小さく笑う。
悠真もつられて少し笑った。
そんな風に笑ったのは、
いつぶりだったか思い出せなかった。
◇
「ただいま」
少しだけ足早に部屋へ入る。
ドアが閉まるより先に、黒猫が足元へ駆け寄ってきた。
「おー、今日もいたか」
悠真は自然と頬を緩めながら猫を抱き上げる。
最初の頃みたいな重さは、もうなかった。
ネクタイを緩めるより先に、
猫を抱き上げるのが当たり前になっている。
「……すぅぅ……」
温かい。
柔らかい。
肺の奥に溜まっていたものが、少しずつ抜けていく。
(最近、吸い方に迷いなくなってるにゃ。)
「うるせぇ」
(気分よさそうにゃ。)
「……まぁな」
仕事が少しだけ楽だった。
理不尽は変わらない。
会社も別に好きじゃない。
でも。
帰ればこいつがいる。
それだけで、
少しだけ頑張れた。
◇
そんな日々が、しばらく続いた。
◇
「ただいま」
いつものように部屋へ入る。
黒猫はいつものように足元へ寄ってくる。
悠真はいつものように抱き上げた。
「……すぅぅ……」
温かい。
柔らかい。
安心する。
けれど。
「…………」
聞こえない。
悠真はゆっくり顔を上げた。
「おい」
黒猫はきょとんとしている。
「……なんか言えよ」
返事はない。
猫はただ、小さく欠伸をしただけだった。
◇
次の日も。
その次の日も。
声は聞こえなかった。
◇
あれは何だったのだろう。
疲れ切った脳が見せた幻聴か。
壊れかけた心を守るために、
勝手に作り出した優しさか。
それとも。
本当に、
こいつは喋っていたのか。
答えは分からない。
ただ一つ分かるのは。
あの時間に、
自分は確かに救われていたということだった。
最初は、ただの猫吸いだった。
温かくて、
柔らかくて、
少しだけ安心できる時間。
でも今なら思う。
あれはきっと。
猫吸いじゃなく、
猫救いだったのだ。
◇
悠真は黒猫を抱き上げる。
昔みたいに顔を埋めた。
温かい。
柔らかい。
でも、もう声は聞こえない。
「……ありがとな」
黒猫は迷惑そうに尻尾を揺らした。
「にゃぁ」
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
猫が喋る話を書くつもりだったのに、
気づけば“壊れかけた心”についての話になっていました。
疲れている時、誰にも言えない時、
帰る場所すら少し苦しく感じる時。
そんな時に、
もし猫様が隣に来てくれたら。
勝手に寄り添って、
勝手に救って、
勝手に居座ってくれたら。
少しくらい、
また頑張れるのかもしれません。
この物語の声が幻聴だったのか、本当に猫の声だったのかは、読んでくださった皆様にお任せします。
ただ一つだけ。
誰かにとっての“猫救い”が、きっとあるのだと思っています。
皆様の元にも、いつか猫様が救いに来てくれることを願っています。




