『見えない君は、怪物に触れた。』
怪物がいる。
そんな噂が、この街にはあった。
夜になると現れる黒い外套の男。深く被ったフードの奥には、人とは思えないほど醜く歪んだ顔が隠されているという。
その顔を見た者は恐怖で錯乱し、正気を失う。
子どもを攫った、人を喰った、呪いを撒いている——噂は好き勝手に尾ひれをつけながら街中を漂っていた。
だが不思議なことに、本当にその顔を見たと言い張る者ほど、酷く怯えた顔をしていた。
だから人々は、噂を信じた。
誰も真実など知ろうとしないまま。
雨が降っていた。
石畳を打つ雨音の中、男は黒い外套を揺らしながら街を歩いていく。すれ違った女が短く息を呑み、子どもが母親の後ろへ隠れる。
「見ちゃダメ」
小さな声が聞こえた。
男は足を止めない。
慣れていた。
昔は傷ついていた。けれど、もう慣れた。いや、慣れたと思い込むことにした。
そうしなければ、とっくに壊れていた。
男の顔は、醜く焼け爛れていた。
幼い頃、火事の中で母親を庇った時についた傷だった。片側の皮膚は大きく膨れ上がり、引き攣れた肉が顔の形を歪めている。初めて鏡を見た時、自分でも化け物みたいだと思った。
最初は皆、可哀想だと言っていた。
けれど時間が経つにつれ、視線は少しずつ変わっていった。
怖い。
気味が悪い。
近寄りたくない。
そんな感情が、言葉にされなくても伝わってくる。
そして最後には、母親すら彼を見なくなった。
自分を庇って負った傷だったにも関わらず、その顔に耐えられなかったのだろう。ある日突然、何も言わず家を出ていった。
だから男は、自分を“怪物”だと思うことにした。
人間だと思うから苦しくなる。期待するから傷つく。
怪物なら、怖がられて当然だ。
その方が、ずっと楽だった。
男は細い路地へ入ったところで、ふと足を止める。
誰かいる。
壁際に、小さくうずくまる人影が見えた。
少女だった。
肩を震わせながら、雨の中で何かを探している。
「……だれか」
掠れた声だった。
「……たすけて」
だが通行人は誰も立ち止まらない。ちらりと視線を向けるだけで、皆そのまま通り過ぎていく。
関わりたくない。
その空気を男は知っていた。
家の中では優しくされる。けれど一歩外へ出れば、人は簡単に他人になる。
少女もきっと、今それを知ってしまったのだろう。
男は小さく息を吐き、ゆっくり少女へ近づいた。
「……大丈夫か」
少女の肩がびくりと震える。
怯えられる。いつものことだ。
男が立ち去ろうとした、その時だった。
「……ひと?」
男の動きが止まる。
少女は顔を上げていた。しかしその瞳は男を見ていなかった。
白く濁った瞳。
焦点の合わない視線。
そこで初めて男は気づく。
目が見えていない。
「……怪我をしてるのか」
「え?」
「目」
少女は少し困ったように笑った。
「あぁ、小さい頃に火傷しちゃって」
軽く言う声が妙に痛かった。
「ごめんなさい。変ですよね」
「いや……」
変なのは、自分の方だった。
少女は濡れた地面を手探りしながら、小さく呟く。
「杖、落としちゃって」
男は足元に転がっていた白杖を拾い、少女へ差し出した。その時、少女の指先が男の手に触れる。
男の身体が反射的に強張った。
誰かに触れられることなど、もう何年もなかったからだ。
少女は気づかないまま、小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
怖がる様子はない。
本当に見えていないのだと、男はそこで初めて実感した。
「家は」
「……帰りたくなくて」
少女はぽつりと呟いた。
「最近、なんか変なんです」
雨音が静かに響く。
「小さい頃は、みんな優しかったんです。転ばないように手を引いてくれて、危ないからって守ってくれて」
少女は少し笑った。
「でも、大きくなるにつれて減っていって。困った顔とか、邪魔そうな顔とか、見えなくても分かるんです」
男は何も言えなかった。
少女は笑おうとしていた。けれど、その声は少し震えている。
「だから最近、外出るの怖くて」
男はゆっくり視線を落とした。
似ていると思った。
傷の形は違う。それでも同じように、人の視線に傷ついている。
「……送る」
「え?」
「家まで」
少女は少し迷ったあと、小さく頷いた。
「……お願いします」
男は少女の少し前を歩き始める。少女は白杖をつきながら、その後ろをゆっくり歩いた。
しばらく沈黙が続く。
やがて少女が、小さく口を開いた。
「あなた、優しいですね」
男の足が止まりかける。
そんな言葉、もう長いこと言われていなかった。
「……優しくない」
「でも助けてくれました」
「気まぐれだ」
少女は少し笑う。
「それでも、嬉しかったです」
男は返事ができなかった。
胸の奥が妙に苦しい。
期待するな、と自分に言い聞かせる。どうせ顔を見れば終わる。この少女も、他の人間と同じように自分を怖がる。
そのはずなのに。
少女と歩く時間は、不思議と温かかった。
それから二人は時々会うようになった。
雨の日の路地。
人通りの少ない公園。
人気のない川沿い。
ユキは外へ出る練習だと言い、レイはただ黙って隣を歩いた。
ユキはよく喋った。
好きな花の匂い。
雨の音の違い。
昔飼っていた猫の話。
見えなくなってから、音や温度に敏感になったこと。
レイは最初ほとんど話さなかった。けれどユキは気にしなかった。
その沈黙すら、受け入れていた。
ある日、ユキがふいに言った。
「レイさんって、どんな顔してるんですか?」
レイの身体が固まる。
来ると思っていた。
いつか必ず、この時が来ると。
「……醜い顔だ」
絞り出すように言う。
ユキは少し首を傾げた。
「醜いって?」
「見れば分かる」
「でも、見えないですから」
少し困ったように笑う。
レイは視線を逸らした。
「見えたら、お前も逃げる」
その言葉に、ユキはしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「逃げません」
「……どうしてそう言える」
「だって、レイさん優しいから」
レイは苦しそうに眉を歪めた。
違う。
そんな人間じゃない。
そう言い聞かせて生きてきた。
怪物でいなければ壊れてしまうから。
なのにユキは、平気でその内側へ入ってくる。
「……触ってもいいですか?」
レイの呼吸が止まる。
「顔」
ユキは少し不安そうに続けた。
「嫌なら、いいです」
レイは動けなかった。
怖かった。
触れられた瞬間、拒絶される気がした。
化け物だと怯えられる気がした。
けれどユキは待っていた。
静かに。
逃げずに。
長い沈黙のあと、レイはゆっくりフードを下ろした。
夜風が焼け爛れた皮膚を撫でる。
ユキの手が、恐る恐る伸びてくる。
指先が、レイの頬へ触れた。
びくりと身体が震えた。
ユキはゆっくり、その傷跡をなぞる。
熱を失った皮膚。
歪な感触。
それでも彼女は手を離さなかった。
「……あったかい」
ぽつりと、ユキが呟く。
レイは言葉を失った。
「ちゃんと、人の顔です」
その瞬間、レイの中で何かが崩れた。
怪物だと思い込んで蓋をしていたものが、音を立てて溢れ出していく。
苦しかった。
嬉しかった。
怖かった。
どうしていいか分からなかった。
気づけば、頬を涙が伝っていた。
ユキは少し驚いたあと、優しく笑う。
「やっと、触れられましたね」
レイは声を出せなかった。
ただ、初めて思った。
自分はまだ、人間に戻れるのかもしれないと。




