『受け取って、くれますか?』
朝の教室は今日もうるさかった、笑い声、椅子を引く音、誰かのスマホの通知音、そんな騒がしさの中で雨宮紗菜は静かに席に座っている。
「おはよ、雨宮」
隣の席の女子に声をかけられ、小さく「……おはよう」と返した、表情はほとんど動かない、その反応を見て相手は少し困ったように笑う。
「相変わらず無だよねー」
「わかる、なんかAIみたい」
「てか、怒ったりとかすんの?」
後ろの席の男子の言葉に小さな笑いが起きた。
紗菜は何も言わなかった、別に本当に感情がないわけじゃない、傷つくし、落ち込むし、腹だって立つ、ただそれをどう表に出せばいいのか分からなくなってしまっただけだった。
昔はもっと泣いていたし、もっと笑っていた、嬉しいことがあれば母に抱きついて、寂しい時にはすぐ甘えていた、母も昔はちゃんとそれを受け止めてくれていた。
母は紗菜を一人で育てていた、昼も夜も働きながら、それでも家では笑っていて、小さい頃の紗菜にとっては世界で一番かっこいい人だった、だから母が「昔から夢だった服屋さんをやってみたい」と話した時も、紗菜は自分のことみたいに嬉しかった。
「ママのお店、ぜったい人気になるよ!」
そう言った時、母は少し泣きそうな顔で笑っていた。
最初はうまくいかなかった店も少しずつ客が増え、母はどんどん忙しくなっていった、帰宅時間は遅くなり、一緒にご飯を食べる日も減っていったけれど、それでも紗菜は我慢していた、母は頑張っているのだから自分まで困らせちゃいけないと思っていた。
けれど、あの日。
熱を出して寝込んでいた小学生の紗菜は、帰ってきた母の姿を見た瞬間、安心して抱きついた。
「ママ……」
その瞬間だった。
「今ほんとに無理なの!!」
鋭い怒鳴り声が飛び、紗菜の身体がびくりと震える。
母もすぐに後悔したような顔をしていた、でも紗菜は、それより先に理解してしまった。
――感情って、迷惑なんだ。
それからだった、泣くのをやめた、甘えるのをやめた、怒るのをやめた、寂しくても我慢して、苦しくても飲み込んで、できるだけ手のかからない子でいようとした。
その結果、周りからは「何考えてるか分からない」「ロボットみたい」「冷たい」と言われるようになった。
本当は違うのに、と何度も思った。
笑われればちゃんと傷つくし、嫌なことを言われれば苦しい、でももし勇気を出して感情をぶつけて、それでも受け取ってもらえなかったらと思うと怖かった。
放課後、紗菜は駅前にある母の店へ向かった、白を基調にした綺麗なアパレルショップ、母がずっと夢見ていた場所だった。
「いらっしゃ――あ、紗菜」
レジ越しに顔を上げた母は、忙しそうに商品の整理をしながら言う。
「今日ちょっと帰り遅くなるから、先ご飯食べてて」
「……わかった」
「あと洗濯物取り込んどいてくれる?」
「うん」
短いやり取りを終えると、母はすぐ接客へ戻っていった、紗菜は静かに店を出て、一人で家へ帰る。
昔はこの部屋で、母と一緒に新作の服を広げていた。
「紗菜はどっち好き?」
「こっち!」
「えー、ママはこっちかなぁ」
そんな時間が好きだった。
スマホが震え、母からメッセージが届く。
『ごめん、今日かなり遅くなる』
紗菜は既読だけをつけた。
別に平気、慣れてる。
そう思った直後、もう一件通知が届く。
『紗菜って昔からほんと手がかからないよね。助かる』
その一文を見た瞬間、胸の奥で何かが切れた。
夜十一時を過ぎて帰宅した母は、リビングで座ったままの紗菜を見て少し驚いたように目を開く。
「ごめんねー、今日ほんとバタバタで――」
「……手がかからないって、何」
母の動きが止まった。
「え?」
「私、手がかからなかったんじゃない」
声が震える、でも止められなかった。
「かけちゃダメだと思っただけ」
母の表情がゆっくり変わっていく。
「迷惑かけたらダメだって、ずっと思ってた」
「紗菜……」
「だってママ、あの時怒ったじゃん!!」
気づけば声を張り上げていた。
「寂しいって言っただけなのに、邪魔みたいにした!!」
「違、それは……」
「違わない!!」
堰を切ったみたいに涙が溢れる。
「私ずっと怖かった……! また嫌な顔されたらどうしようって! うるさいって思われたらどうしようって……!」
苦しくて息がうまく吸えない、それでも言葉だけは止まらなかった。
「私だって、ちゃんと悲しかった……!!」
静まり返った部屋の中で、母はしばらく何も言えなかった。
やがてゆっくり紗菜の前に座り込み、震える声で「……ごめん」と呟く。
「ごめんね、紗菜」
母の目から涙が落ちた。
「お店がうまくいくのが嬉しくて、でも余裕がなくて……紗菜がずっと我慢してたことにも気づけなかった……」
母も泣いていた。
「頑張らせすぎちゃったね……」
その時、紗菜はようやく気づく。
感情って、ぶつけなければ最初から誰にも受け取ってもらえないんだ。
怖かった。
ずっと怖かった。
でも、本当は最初から泣いてよかったし、怒ってよかったし、寂しいって言ってよかった。
見てほしいって、伝えてよかった。
紗菜は泣きながら母に抱きついた。
まるで、あの日できなかった続きを取り戻すみたいに。
小説という媒体も、もしかしたら感情のぶつけ先のひとつなのかもしれません。
数ある物語のどれかは、作者本人でさえ言葉にできなかった心の叫びだったりするのかも。
それを誰かが受け取った瞬間、はじめて感情は「届いた」と呼べるのかもしれません。




