第4話
俺はゆっくりと目を閉じた。
そして。
半年もの間、一度たりとも満足に動かせなかった魔術回路へ意識を沈める。
魂の奥深く。
十一サークル大魔導士として刻み込まれた『魔術回路』。
「《マナ・ギャザリング》。」
静かに呟く。
魔力集束。
魔法と呼ぶのも少し違う。
魔法を学ぶ者なら誰もが最初に身につける、呼吸のような基礎技術。
生まれつき魔力を持たぬ者でさえ、この術式で初めて大気中のマナを取り込み、自分のものへと変えていく。
言わば。
魔法使いとして産声を上げるための第一歩だ。
もっとも。
「俺が失敗するわけないけど。」
世界唯一の十一サークル大魔導士。
しかも、一度極めた術式だ。
今さら躓く理由などない。
「来い。」
その一言だった。
ゴォォォォォォォォ――――ッ!!
静まり返っていた森が突如として唸り始める。
木々が大きく揺れ。
落ち葉が宙を舞い。
半径数百メートルに散らばっていた膨大なマナが、まるで重力でも発生したかのように俺へ向かって雪崩れ込んできた。
「……ッ!」
止まらない。
いや。
止める必要がない。
半年もの間、空っぽだった器が飢えた獣のように周囲のマナを飲み込んでいく。
ドクン。
心臓が鳴る。
ドクン。
もう一度。
胸の奥。
魔力核が淡い光を放ち始めた。
一本。
光の輪が刻まれる。
「……一サークル。」
魔法使いとしての第一段階。
ようやくスタートラインへ戻ってきた。
だが。
勢いは止まらない。
ドクン。
二本目。
「二サークル。」
心臓が魔力を全身へ送り出し、血管を新たな魔力回路へと作り替えていく。
パチッ。
細い指先から、小さな蒼い火花が弾けた。
「悪くない。」
その直後だった。
ゴォォォォォォッ!!
さらに濃密なマナが一気に押し寄せる。
「ぐっ……!」
身体中へ激痛が走る。
筋肉。
骨。
血管。
皮膚。
全身が悲鳴を上げながら、それでも魔力を受け入れていく。
そして。
三本目の輪がゆっくりと刻まれた。
「……三サークル。」
ふぅ、と長く息を吐く。
普通なら。
才能ある魔法使いですら数年かけてようやく辿り着く領域。
だが俺は違う。
一度頂点まで登った人間が、同じ山を登り直しているだけだ。
経験も。
理論も。
感覚も。
すべて身体ではなく魂に刻まれている。
だから数分。
ただマナを吸収しただけで、ここまで戻ってこられた。
「はぁ……。」
身体が軽い。
頭も冴える。
半年間まとわりついていた倦怠感が、まるで嘘だったかのように消えていく。
銀色の髪が淡く輝き。
白い肌はさらに透き通るような美しさを帯びていた。
「……っと。」
そこで俺は意識的に術式を止めた。
「この辺で十分か。」
まだ続けることはできる。
だが。
この身体が耐えられない。
魂は十一サークルでも、肉体はまだ普通の少女に過ぎない。
どれだけ高性能なエンジンを積もうと、車体が軽自動車なら限界はある。
今の安全圏は三サークル。
無理をすれば、この身体そのものが魔力に耐え切れず壊れてしまう。
まあ。
身体を少しずつ慣らしていけば、そのうち四サークル、五サークルと問題なく扱えるようになるだろう。
「俺を誰だと思ってる。」
自然と笑みがこぼれる。
「……自惚れるな、か。」
そう言われても困る。
十一サークルまで辿り着いた実績があるんだ。
多少くらい自信を持たせてくれ。
……それに。
「今はシノだったな。」
この顔なら。
少しくらい調子に乗っても許される気がした。
「……さて。」
満足げに息を吐き、ゆっくりと目を開く。
そこでようやく、あることに気が付いた。
「……ん?」
何気なく後ろを振り返る。
そこにあるはずのものが――ない。
「……あれ?」
俺が通ってきた渦巻くゲート。
その入口が、跡形もなく消えていた。
「……。」
しばらく無言で周囲を見回す。
やっぱりない。
「一方通行だったのか?」
それとも、俺がマナを吸い上げすぎて空間構造が一時的に乱れたのか。
可能性はいくつか思い浮かぶ。
だが。
「まあ、いっか。」
俺は肩をすくめた。
帰りたくなったら、自分でゲートを開けばいいだけの話だ。
今の俺には三サークルの魔力がある。
十一サークルだった頃と比べれば雀の涙にも等しいが、この世界程度の空間魔法なら十分扱えるはずだ。
ゲートを作る理屈自体は単純。
元いた座標を指定し、空間を接続する。
たったそれだけ。
もちろん、異なる次元なら話は別だ。
座標そのものが存在しない以上、いくら俺でも接続はできない。
だが、そんなはずがない。
街中に自然発生する程度のゲートが、世界と世界を繋ぐような超高位魔法であるはずがなかった。
そんな代物なら、俺ですら完成まで五年かかったのだから。
「……むしろ都合がいいか。」
外は今頃サイレンが鳴り響き、ハンターや警察で大騒ぎになっているはずだ。
そんな場所へ慌てて戻る理由もない。
せっかくここまで来たんだ。
少しくらい、この森を見て回っても罰は当たるまい。
「散歩でもするか。」
俺は軽い足取りで森の奥へ歩き出した。
草を踏みしめる柔らかな音。
木漏れ日。
澄み切った空気。
半年ぶりに感じる濃密なマナ。
「ふん♪、ふふ~ん♪」
思わず鼻歌まで飛び出す。
「さてさて……。」
周囲をきょろきょろと見回す。
「猫みたいな魔物でもいたら最高なんだけどな。」
可愛ければ連れて帰ってもいい。
いや、むしろ猫カフェ一号店の看板猫になってもらうのも悪くない。
そんな馬鹿なことを考えながら歩いていると――
ガサッ。
近くの茂みが小さく揺れた。
「ん?」
足を止める。
風ではない。
何かいる。
魔力の気配も、確かに感じる。
思わず口元が緩んだ。
「へぇ……。」
この世界で初めて出会う魔物。
さて。
どんな奴がお出迎えしてくれるのやら。
俺は少しだけ期待を胸に、その茂みへ視線を向けた。




