第7話 視聴者数0
大穴の縁に立つと、螺旋状の石段が暗闇の中へ続いているのが見えた。
幅は大人が三人並んで歩けるくらいはある。壁には等間隔で魔石の灯りが埋め込まれていて、足元だけはぼんやりと照らされていた。
夜中だからだろうか、他に誰もいない。
そのため進んでいくたびに、自分の足音だけが壁に反響して大きく聞こえる。
どれくらい進んだだろうか。そんなことを考えながら、次の一段を踏み込んだ。
その瞬間ふと、足元の感覚が変わった。
石段が消えていた。足の裏に触れたのは、柔らかい土の感触だった。
「——え?」
顔を上げて、息を呑んだ。
さっきまでの狭い螺旋階段はどこにもなかった。目の前に広がっていたのは、見渡す限りの洞窟空間だった。
岩肌のあちこちに魔石の灯りが埋め込まれていて、薄暗い青白い光が空間全体をぼんやりと照らしている。
振り返ったが自分が降りてきたはずの階段は、もうなかった。
地上とは何もかもが違う空間。まるで石段を一つ踏んだだけで、まったく別の場所に飛ばされたかのようだった。
ここが、第1層。
「あっ、そういえば!」
僕はリュックから配信用の球体を取り出した。
職員さんに教わった通り、表面をそっと撫でる。球体が手のひらからふわりと浮き上がり、淡い光を灯しながら僕の斜め上で静止した。
同時に、目の前の空中に半透明の画面が浮かび上がった。
画面の上部には配信者名——「カイ」と表示されている。
その隣に小さな文字で「第1層」。画面の中央には球体が映している映像がリアルタイムで流れていて、薄暗いダンジョンの通路と、その真ん中に立っている僕自身の姿が映っていた。
画面の右上には「視聴者数:0」の表示。
右下には「サポートストーン:0」。
そして画面の左側に、縦長のコメント欄。当然、何も表示されていない。
「これでいいのかな?」
生まれて初めて見る画面ばかりで、これが正しい状態なのかどうかも分からなかった。
「けど、カメラにちゃんと映ってるし……大丈夫か!」
深く考えても仕方がない。僕は鉄の剣を腰から抜いて、ダンジョンの奥へと足を踏み出した。
壁の魔石の灯りを頼りに、奥深くへと進んでいく。
——ぴちゃん。
先の方から、水滴のような音が聞こえた。
「なにか来る」
剣を構えながら慎重に足を進めた。
通路を進むと、少し開けた空間に出た。天井から水が滴っていて、地面に小さな水たまりができている。
その水たまりの傍に——いた。
絵本で見たことがある。ダンジョンの最初の階層にいる、モンスター。
「スライムだ!」
透き通った青い体。拳二つ分くらいの大きさで、ぷるぷると震えながら地面の上を這っている。
「よし——いくぞ!」
僕は鉄の剣を構えて、一気に踏み込んだ。
十年間の修行の全てを込めて——は、大袈裟だけど、とにかく力いっぱい剣を振り下ろした。
鉄の剣が空気を切り裂いて、地面に叩きつけられた。
ガキンッ、と石を打つ嫌な音が手のひらに伝わった。
——当たってない。
スライムがいたはずの場所には何もなかった。水たまりの水飛沫だけが散っている。
「え!? どこ——」
きょろきょろと辺りを見回した瞬間、横腹に衝撃が走った。
「ぐっ——!」
体がよろめいた。横を見ると、さっきのスライムが僕の腰のあたりにべちゃりと張り付いて、そのまま弾かれるように離れていった。じんじんとした痛みが横腹に広がる。スライムの体当たりだ。
ただの体当たりのはずなのに、痛い。
「こっちだ——!」
スライムを目で追って、もう一度剣を振った。今度は横薙ぎに。
空振り。
スライムはぷるんと体を揺らして、あっさりと剣の軌道から外れた。僕が振り終わるのを待っていたかのように、再び体当たりを仕掛けてくる。
「うわっ——!」
今度は腕に直撃した。鉄の剣を取り落としそうになる。
もう一度振る。外れる。体当たりを食らう。振る。外れる。食らう。
何度繰り返しても同じだった。剣を振る場所にスライムがいない。スライムは止まらない。常にぷるぷると動いていて、僕が剣を振りかぶった時にはもうそこにいない。
息が上がってきた。体のあちこちがじんじんと痛む。相手はたった一匹のスライムだ。スライムは最弱というイメージを持っていたが、今僕は一方的にやられている。
——なんで当たらないんだ。
そこで気づいた。
岩は動かない。水は流れるけど、流れ方にはおおかた法則がある。でもスライムには——決まった動きがない。こちらの攻撃に反応して、その都度違う方向に避ける。予測できない。狙いが定まらない。
十年間の修行で学んだことは、全部「対象が止まっている」か「動き方に法則がある」場合の話だった。
目の前で不規則に動く生き物に対して、僕は——何の訓練もしていない。
「くそ——!」
やけくそだった。もう狙うのをやめた。スライムが向かってくるのに合わせて、力任せに剣を横に振り回した。型も何もない、ただの振り回し。
べちゃっ。
手に、柔らかいものを弾く感触が伝わった。
スライムが壁に叩きつけられて、ぐにゃりと形を崩し、そのまま地面に溶けるように消えていった。後には小さな魔石だけが転がっている。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
僕は通路の壁にもたれかかって、荒い息を吐いた。
全身が痛い。体のあちこちにスライムの体当たりの跡が赤く残っている。鉄の剣を握る手が震えている。
たった一匹のスライムに、ここまで苦戦した。
これがダンジョン。これが実戦。絵本の中の冒険者たちは、こんな世界で戦っていたのか。
「……ダンジョン、すごいなあ」
薄ら笑いのような声が漏れた。声に出したら、余計にそのことが実感として押し寄せてくる。
十年間の修行は無駄じゃなかったと思いたい。でも今の僕は、スライム一匹をまともに倒せない。
どうすればいいんだ。どうやったら動く相手に剣を当てられるようになるんだ。
師匠、教えてくださいよ——。
壁にもたれたまま、ぼんやりと目の前の配信画面を眺めた。
薄暗いダンジョンの中で、ボロボロの少年が壁に寄りかかっている映像。惨めな姿がそのまま映し出されている。コメント欄は空っぽ。視聴者数は——
ぴこん。
小さな通知音が鳴った。
画面の右上の数字が、変わっていた。
視聴者数:1
「……え?」
誰かが、見ている。こんな深夜に。僕のことを。
「これって……見られてるってことなのかな?」
ただまだ自分の中で遠くで見られている実感がなく、どこか現実味がなかった。
そう思いながらぼんやりと画面を見つめていると、空っぽだったコメント欄に、文字が浮かんだ。
ひかりん:こ、こ、こんばんわ!!!!




