第35話 暁星
打ち消せない!
その事実が、頭の中を駆け巡っていた。
レクトの獣牙咬撃は、もう形を掴んでいる。魔力の回転も、厚みも、軌道の折れ方も。全部分かっている。なのに——あの黒紫の魔力が、すべてを飲み込んでしまう。
レクトが大剣を振り上げた。
「——獣牙咬撃」
もはや叫びですらなかった。低く、濁った声。人間の声というより、獣の唸りに近い。
黒紫の衝撃波が飛んでくる。一つじゃない。二つでも三つでもない。
十を超える獣牙咬撃が同時に放たれ、四方八方から追従してくる。
「数が多すぎる!」
さっきまでとは次元が違う。威力も、速度も、数も——すべてが跳ね上がっている。
剣で弾く。一つ。横に跳ぶ。二つ目が足元を抉る。三つ目を刀身で逸らし、四つ目を紙一重でかわす。だが五つ目、六つ目が間髪入れずに迫り、弾いた衝撃で体が揺れた隙に七つ目が脇腹を掠めた。
攻撃に出る余裕がない。弾いて、避けて、弾いて、避けて——それだけで精一杯だった。
「っ——!」
砕けた壁の向こうに、観客席が見えた。悲鳴が上がった。
観客が席から転がり落ちるようにして逃げた。壁の破片が降り注ぐ。間一髪だった。
「レクト選手——! 攻撃がアリーナの外に!」
エルナの声に焦りがあった。
「レクト! 攻撃をやめろ! 観客の人たちは関係ないだろ!」
僕は叫んだ。声を張り上げた。届け。聞こえてくれ。
だがレクトの耳には届いていなかった。赤く染まった目は、何も見ていないようだった。いや——見ているのかもしれない。だがもう、選別ができていない。敵も味方も、観客も、すべてが同じに映っているのだろう。
「——ァア」
レクトが大剣を横に振った。獣牙咬撃が無数に飛ぶ。アリーナの中だけではない。壁を突き破り、観客席に向かって黒紫の衝撃波が散っていく。
「危ない!」
僕は自分に向かってくる衝撃波を剣で弾きながら叫んだ。観客席に向かった衝撃波を追う余裕はない。
だが、爆発音は聞こえなかった。
観客席の前に、数人の冒険者が立っていた。剣や盾で衝撃波を受け止めている。腕が震えている。顔が歪んでいる。受け止めるだけで精一杯だった。
「くそ、なんだこの威力——!」
冒険者の一人が叫んだ。
「あれは止めた方がいいんじゃないか——!」
「止めるったって、あの状態のやつに誰が近づくんだよ!」
観客席がざわめいていた。恐怖と困惑。さっきまでの歓声は消え、悲鳴と怒号が入り混じっている。
レクトがまた大剣を振った。無差別に。もはや僕を狙ってすらいなかった。
衝撃波の一つが——観客席の最前列に向かって飛んだ。
その軌道の先に、ミリアがいた。
「ミリア——!」
僕は叫んだ。だが間に合わない。距離が遠すぎる。
黒紫の衝撃波がミリアに迫る。ミリアは気づいていた。目を見開いて、両手を前に出した。雷の魔力で防ごうとしている。だが、あの威力を——
金属音が響いた。
甲高く、澄んだ音。
衝撃波が、真っ二つに斬り裂かれていた。
ミリアの目の前に、一人の人影が立っていた。
銀の軽鎧。白いマント。手にした細身の剣が、淡い光を纏っている。
「リーナ……様?」
ミリアが震える声で呟いた。
閃光の勇者リーナ。冒険者ギルド最高戦力の一角。
観客がどよめいた。だがリーナは観客にも、ミリアにも、一言も声をかけなかった。
その目は、真っ直ぐに僕を見ていた。
言葉はなかった。
だが、分かった。
その視線が言っていた。
——君が、止めろ。
僕は剣を握り直した。
目を閉じた。一瞬だけ。
自分の中にある魔力に意識を向ける。体の奥。もっと奥。あの狼と戦った時に目覚めた、あの熱。あの深紅の力。
僕が、あいつを止める。
目を開けた瞬間——レクトの獣牙咬撃がまた飛んできた。十を超える黒紫の衝撃波が、僕を呑み込もうと殺到する。
「カイ! 避けて!」
ミリアが叫んだ。
衝撃波が僕に直撃した。砂煙が爆発的に舞い上がった。
「カイ——!」
ミリアの悲鳴。観客席が息を呑む。
砂煙の中から——深紅の光が灯った。
僕は立っていた。
デュランダルの刀身が、深紅に染まっている。体の周囲に、深紅の魔力が陽炎のように揺らめいていた。
「な——カイ選手の魔力が——!」
エルナが叫んだ。
「なんという魔力! 先ほどまでとはまるで別物です!」
「……これは」
ノエルが息を呑んだ。
「カイ選手の魔力が、完全に変質しています。色も、密度も、先ほどまでの澄んだ魔力とは別物だ。まるで——」
言葉を探すように、一拍の間があった。
「まるで、燃えているような——」
レクトがそれを見た。赤い目が、深紅の光を捉えた。理性があるのかないのか分からない。だが、脅威だと認識したのだろう。
咆哮と共に、十以上の獣牙咬撃が一斉に放たれた。全方位から。黒紫の衝撃波が、深紅の光を呑み込もうと殺到する。
僕はデュランダルを振った。
一閃。
深紅の刃が弧を描いた瞬間——十以上の獣牙咬撃が、すべて両断された。斬り裂かれた黒紫の魔力が霧のように散って消えていく。
「全部——全部斬った!?」
エルナの声が裏返った。
「なんという威力だ——! 十以上の獣牙咬撃を、一振りで!」
ノエルが絶句していた。
僕はそのまま前に出た。レクトに向かって走った。
レクトが獣牙咬撃を放つ。五発、八発、十発。次々と黒紫の衝撃波が飛んでくる。
全部斬った。
走りながら、一発も漏らさず斬り伏せた。観客席に向かう衝撃波すら、軌道の途中で追いつき、斬り裂いた。
「カイ選手が——すべての攻撃を斬り伏せながら前進しています! 観客席への攻撃まで処理している! なんという——」
エルナの声が興奮で震えていた。
衝撃波の嵐を突き破り、僕はレクトの前まで辿り着いた。
剣が届く距離。
レクトが大剣を構えていた。全身から黒紫の魔力が噴き出している。その背後に——無数の獣牙咬撃が生まれかけていた。黒紫の光が渦を巻き、大剣の周囲に集束していく。今までで最大の溜め。あれが放たれたら、アリーナごと吹き飛ぶ。
そしてレクトが大剣を振り下ろした。
背後から、無数の獣牙咬撃が解き放たれた。正面のレクトの斬撃と、背後からの衝撃波の嵐。前も後ろも——逃げ場がない。
絶望的な状況。
だが、僕の頭の中に浮かんだのは、恐怖じゃなかった。
ふと——ひかりんの声が蘇った。
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「必殺技ですか?」
森の中だった。修行の合間、木の根元に座って水を飲んでいた時のこと。
ひかりん:そう、必殺技。一個はあった方がいいと思って。カイにはまだないでしょ?
「ないですね……。僕だけの技なんて、思いつかないです」
ひかりん:何か一つ、自分だけの戦い方ってないの? 他の誰でもない、カイだけのやつ
僕は考えた。自分だけの戦い方。剣術はひかりんに教わったものだし、絶魔の剣閃もひかりんの技だ。僕だけの——
あの狼と戦った時の深紅の魔力が頭をよぎった。だがあれは、意図して出したものじゃない。技と呼べるものではない。
「……強いて言えば」
ひかりん:うん
「全部の魔力を、剣に込めて、一撃に賭けることくらいで。ただそれは技っていうか、ただ魔力を全部放出してるだけで……」
ひかりん:いいじゃん、それ
即答だった。
「え、それでいいんですか」
ひかりん:うん。別に必殺技だからって、難しいことをやるってわけじゃないしね
ひかりんが空を見上げた。木漏れ日が顔に落ちていた。
ひかりん:必殺技っていうのを決めるにあたって、一番重要なことはね——その技で絶対に倒すっていう意志なんだよ
「意志……」
ひかりん:だから私たちは、自分の必殺技に名前をつけるの。これは自分自身の最大の武器だって。自分だけが持ってる武器で、これで必ず相手を倒すっていう意味を込めてね
ひかりん:だからカイも、名前をつけてみなよ。自分の必殺技に
「名前……」
僕はしばらく考えた。目を閉じて、自分の中にある魔力のことを思った。剣に流し込んだ時の感覚。全部を注いだ時の、あの熱さ。暗闇の中で、それでも消えなかったあの光。
「……あっ」
ひかりん:決まった?
「これなんて、どうですか」
僕が口にした名前を聞いて、ひかりんが笑った。
ひかりん:いいね、それ。カイにぴったりだよ。最高!
「え、そうですかね……」
ひかりん:うん。その名前で、いこう
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——そう。これが、僕だけの技。
僕の必殺技。
この一撃で——必ず、倒す。
目を開けた。
正面にレクトの大剣。背後から無数の獣牙咬撃。
僕はデュランダルを両手で握った。
全身の魔力を——残らず、一滴も残さず、この剣に注ぎ込む。
深紅の光が、さらに強くなった。刀身に赤い文字のようなものが浮かび上がり、刃全体が深紅に燃え上がる。熱い。剣を握っている手が焼けるように熱い。だが離さない。
レクトの大剣が振り下ろされた。
「——ァアアアアアア!」
背後からの獣牙咬撃が、同時に殺到した。
僕はデュランダルを振りかぶった。
全魔力。最後の一滴まで。この剣に。この一撃に。
「——暁星の灯!!」
深紅の刃を、振り抜いた。
深紅と黒紫が——激突した。
深紅の奔流が、レクトの大剣を呑み込んだ。背後からの獣牙咬撃を呑み込んだ。黒紫の魔力を押し返し、引き裂き、蹂躙した。
アリーナ全体が白い閃光に飲み込まれた。衝撃波が全方位に広がり、砂地が爆発的に吹き上がった。観客席にまで風圧が届き、悲鳴と歓声が入り混じった。
光が収まっていく。
砂煙が晴れていく。
アリーナの中央。砂地が大きく抉れ、クレーターのようになっていた。
その中心に——二人がいた。
いや。
立っていたのは、一人だけだった。
レクトは仰向けに倒れていた。大剣が手から離れ、砂地に突き刺さっている。黒紫の魔力はもう消えていた。赤かった目が、元の色に戻りかけている。意識はなかった。
僕は——立っていた。
デュランダルを右手に下げたまま。深紅の光はもう消えている。黒い刀身に戻っていた。
「——準決勝・第1試合」
エルナの声が、静かに響いた。声が震えていた。
「勝者——カイ選手」
一瞬の沈黙。
そして——アリーナが、割れた。
今日一番の——いや、この大会で一番の歓声が、観客席から溢れ出した。地鳴りのような歓声。足を踏み鳴らす音。名前を叫ぶ声。
僕はそれを聞いていた。
聞いていたはずだった。
だが、音が遠くなっていく。視界が白くなっていく。
全魔力を使い切った。体に、もう何も残っていなかった。
膝が折れた。
砂地に崩れ落ちる瞬間、見えたものがあった。
観客席から駆け出してくるミリアの姿。泣きながら、僕の名前を叫んでいる。
その向こうに——銀の軽鎧と白いマントの人影。腕を組んで、静かにこちらを見ている。
口元が、少しだけ笑っていた。
——ああ、勝ったんだ。
意識が、途切れた。




