幕間6 忍び寄る影
「クソ——何なんだよ」
拳が壁に叩きつけられた。鈍い音が、薄暗い通路に響く。
アリーナの関係者用通路。天井近くの細い窓から日差しが一筋だけ差し込んでいるが、それ以外は影に沈んでいた。試合の合間、ここを通る人間はいない。
レクトは壁に拳を押し付けたまま、歯を食いしばった。
気に食わねえ。
何もかもが、気に食わねえ。
Eランクの野郎。カイとかいうあの無名が、ディスタブとかいう魔法で勝ち上がってきている。準々決勝のDランク魔法使いを、たった一撃で沈めた。観客が沸いた。解説が褒めた。まるで英雄が現れたみたいに。
こんなはずじゃなかった。
そしてミリア。
「……ありえねえんだよ」
声が低く漏れた。
あいつは回復魔法しか使えなかったはずだ。それもクソみたいな回復量で、戦闘じゃ足手まといにしかならなかった。だから切った。当たり前の判断だった。セナに当たれば一方的にやられて終わるはずだった。
なのに——雷魔法だと? 覚醒だと? セナを倒しただと?
拳がもう一度、壁を打った。
「ふざけんなよ……」
あいつが覚醒したのは、あのEランクと組んでからだ。あのカイとかいう野郎と組んでから、急にミリアが変わった。それが余計に腹が立つ。自分が切り捨てた人間が、別の誰かの隣で花開いた。それが——
上の観客席から、声が降ってきた。壁越しに、くぐもった声。
「——おい、あのEランクのカイってやつ、優勝すんじゃねえか?」
「え、けど次はあの優勝候補のレクトだろ。さすがに負けんじゃね?」
「いやいや、俺はカイが勝つと思うね。あいつは優勝する目をしてるよ」
「何言ってんだよお前、ははは」
笑い声。軽い、無責任な笑い声。
レクトの目が、細くなった。
「……あいつなんて、俺がぶっ殺してやるよ」
低い声が、通路の闇に溶けた。
その時だった。
コツ、コツ、コツ。
足音。ゆっくりと、一定の間隔で近づいてくる。
「そうですよねえ」
声がした。甘ったるい、粘つくような声。
「そうですよねえ。分かりますよ、その気持ち」
レクトは振り返った。通路の奥、日差しの届かない暗がりから、一つの影が歩いてくる。
「自分自身の思い通りにならない。こんな世界は不条理ですよねえ」
黒いフード。顔はほとんど見えない。ただ、フードの胸元に紫色の紋章のようなものが刺繍されているのが、薄い光の中でかろうじて見えた。
レクトの目が鋭くなった。
「なんだお前」
「そんな睨まないでくださいよ。私はあなた様——レクト様を助けに来たんです」
「は? 助けにだと? お前みたいな不気味な野郎が」
レクトは鼻を鳴らした。
「帰れ」
「いえいえ、お待ちください。少しだけ、少しだけお話を」
フードの男は両手を広げて見せた。武器はない。だがその動作がやけに芝居がかっていて、レクトの苛立ちを逆撫でした。
「いいって言ってんだろ——」
「カイ選手に、負けると思っているんですか?」
レクトの言葉が、途切れた。
一拍の沈黙。
「——は? 思ってねえよ」
「ですよねえ。失礼しました、確認がしたかっただけです」
フードの男は一歩、距離を詰めた。声が少しだけ低くなった。
「ですが——あのカイ選手。絶魔の剣閃。あれはご存知ですよね? 勇者リーナの代名詞の一つ。あの技を使える時点で、ただのEランクではない」
「……」
「私はね、レクト様。あなた様のファンなんですよ。ルーキー大会のずっと前から、あなた様の戦いを見てきました。だからこそ——万が一にも、負けてほしくないのです」
フードの奥から覗く口元が、薄く笑った。
「こちらを」
フードの男が懐から取り出したのは、小さな注射器だった。透明なガラスの中に、赤い液体が入っている。どろりとした赤。血のような色だった。
「なんだこれは」
「お守りのようなものです。あなた様が本当に危険になった時——それだけでいい。使ってください。きっとあなた様の力になります」
「は? 大丈夫かお前、頭」
「あなた様ならきっと勝てますよ」
フードの男の声が、ほんの少しだけ変わった。甘さの奥に、別の何かが混じった。
「あんな——憎いやつに」
その一言が、レクトの胸の奥を刺した。
沈黙が落ちた。
レクトは注射器を見つめていた。赤い液体が、薄い光を受けてゆらりと揺れている。
舌打ちが一つ。
「……ちっ。もらっといてやるよ」
注射器を掴み取り、懐にしまい込んだ。
「ありがとうございます。これであなた様の勝利は、絶対的なものになりました」
フードの男が深々と頭を下げた。
「楽しみにしております」
レクトは何も答えなかった。背を向け、通路の光の方へ歩き出す。足音が遠ざかり、角を曲がって消えた。
通路に、フードの男だけが残された。
顔を上げた。フードの奥で、口元だけが見えた。
笑っていた。
「ええ——本当に、楽しみにしておりますよ」
声が闇に溶けた。
次の瞬間、フードの男の姿は消えていた。足音もなく、気配もなく。薄い日差しだけが、誰もいない通路を照らしていた。




