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第25話 霧蝕域(むしょくいき)

霧が濃い。


視界が悪く、石壁の通路がどこまで続いているのかも分からなかった。足元の石畳は湿っていて、一歩踏み出すたびに靴底が滑る。空気が冷たく、肺に入るたびに重い。


「これが30層以降か……」


20層までとはまるで違った。空気そのものに魔力が含まれているのか、体の表面がぴりぴりする。


「カイ、左の通路から二体、近づいてきます!」


ミリアが小声で言った。彼女は魔力の気配を感じ取るのが僕より鋭い。回復魔法を扱う者は、他者の魔力に敏感になるのだという。


「わかった!」


剣を構える。霧の中から、ぬるりと影が現れた。

黒い甲殻に覆われた魔物だった。体長は1メートルほど。節のある八本の脚で石畳を掴み、尾の先に鋭い毒針が付いている。二本の鋏を前方に構え、こちらを威嚇するように開閉していた。


サソリだ。しかも二体同時。


霧蝕蠍むしょくかつです。30層台でよく出るモンスターです!」


ミリアが素早く言った。


「甲殻が硬いので正面から斬っても弾かれます。狙うなら尾の付け根か、腹側の関節部分。あと、毒針に触れると麻痺が入るので、尾の振り下ろしだけは絶対に避けてください!」


「尾の付け根と腹の関節。毒針は避ける。了解!」


言い終わる前に、一体目が突っ込んできた。鋏が横に薙ぐ。しゃがんで躱し、側面に回り込む。尾が振り下ろされる前に、付け根を狙って剣を振り抜いた。

手応えがあった。甲殻の薄い部分に刃が食い込み、尾が根元から断たれた。サソリが悲鳴のような音を上げて暴れる。


「もう一体、右から来ます!」


ミリアの声に反応して振り向く。二体目が鋏を振り上げて飛びかかってきた。半歩引いて鋏を空振りさせ、着地の隙に腹側へ剣を突き上げる。関節の薄い部分を貫いた。

二体目が崩れ落ちた。一体目も、尾を失った状態でもがいていたが、追撃の一閃で沈んだ。


魔石が二つ転がった。

魔法鞄に魔石を入れると、淡い光と共に数字が浮かんだ。


「12ポイントです」


「よし」


僕は剣の刃についた体液を振り落としながら、ミリアを見た。


「弱点の情報、助かったよ。事前に知らなかったら苦戦してた。」


「いえ、このくらいは……30層台のモンスターは甲殻系が多いので、お役に立ててよかったです。」


「ミリアはこの辺りの魔物を全部把握していたりするの?」


「全部ではないですけど……前のパーティーでここまでは来たことがあるので。その時に、できることをしようと思って調べたんです」


少しだけ目を伏せた。だが、すぐに顔を上げた。


「この先の構造もある程度わかります。30層台は環状通路が中心で、外周を回りながら小部屋に魔物が潜んでいます。奥に行くほど強い個体が出ますけど、ポイントも高くなります」


「じゃあ、外周で稼ぎつつ奥を目指す感じか」


「はい。それが一番効率いいと思います」


「了解。案内頼むよ」


ミリアが小さく頷いて、先に歩き出した。

そこからは、驚くほどスムーズだった。


ミリアの案内は的確で無駄な戦闘がほとんどなかった。

僕はミリアの情報を聞いた瞬間に動いた。弱点を聞けばそこだけを狙い、行動パターンを聞けば先回りして斬る。ミリアが驚いたような顔をすることが何度かあった。


「カイ、吸収が早すぎませんか……? 一回聞いただけでもう対応してる」


「ミリアの説明がわかりやすいんだよ」


「そういう問題じゃない気がしますけど……」


サソリの群れを三度抜け、蝙蝠型の魔物を二体片付け、石の壁に擬態していたトカゲ型を斬った。ミリアは戦闘の合間に的確に回復を入れてくれた。大きなダメージを受ける前に、小さな傷を丁寧に塞いでいく。おかげで体力を気にせず前に出続けられた。


魔法鞄の数字が、着実に増えていく。


「54ポイントです」


「半分超えたな。このペースなら——」


「はい、いけると思います。残り時間もまだ余裕がありますし、このまま奥に進めば高ポイントの個体が出るはずです」


ミリアが少しだけ笑った。不安げだった表情が、いつの間にか消えていた。


「よし、じゃあ——」


その時だった。


足が止まった。


霧の奥から、それまでとは明らかに異質な気配が流れてきた。重い。そして、広い。これまで戦ってきたサソリやトカゲとは、根本的に違う。空気そのものが圧迫されているような感覚。


「ミリア、感じるか」


「……はい」


ミリアの顔から、さっきの笑顔が消えていた。


「これ、かなり大きいです。この圧は——」


通路を進むと、突然空間が開けた。天井が高く、広い円形の部屋。霧がここだけ薄い。

そして、その中央に——それは立っていた。


体高は3メートルを超えている。灰色の剛毛に覆われた巨大な体躯。二本足で直立し、分厚い前脚には岩のような爪が生えている。顔面には霧と同じ色の紋様が刻まれ、小さな双眼が鈍い光を放っていた。

熊だった。人間など一振りで吹き飛ばせる、圧倒的な巨体の熊の魔物。


その口が開いた。


咆哮。


空気が震えた。霧が弾け飛び、足元の石畳がびりびりと振動する。体の芯まで響く、獣の叫び。


「——霧鎧熊アーマーグリズリー


ミリアが呟いた。声は震えていなかった。だが、拳が白くなるほど握りしめていた。


「35層の中ボスです」


霧鎧熊が、こちらを見た。

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