第3話 弟子という言葉
その夜、CDの第三の修行が解放された。
今度の映像は、山の上だった。見晴らしのいい草原が広がっている。風が強い日らしく、ヴォルフの服がはためいている。足元の草が、風に押されて一方向にべったりと倒れていた。
『第三の修行。風の——「芯」を斬れ』
「……芯?」
『岩は見える。水も見える。だけど風は見えない。見えないものを斬る。——それが第三の修行だ』
ヴォルフが草原を歩きながら語る。足元の草が風に煽られて、ざわざわと波打っている。
『風にもな、芯がある。全体としてぶわーっと吹いてるように感じるだろうけど、実は中に「一番圧が強い筋」ってのがある。風の背骨、みたいなもんだ。そこを正確に斬ると——風が裂ける。斬った先の空間から、風が消える』
ヴォルフが構えた。風が吹いている。草が揺れている。それでもヴォルフの体だけが、根を張ったように微動だにしない。
一閃。
音はほとんどしなかった。ヴォルフの剣が横に薙がれた——その先。
草原の向こう、遥か遠くまで——草が止まった。
風は吹いている。ヴォルフの横でも、背後でも、草はざわざわと揺れ続けている。なのに、剣が振られたその先だけ、遥か向こうの丘の麓まで——草が微動だにしなくなった。風が確かに吹いているのに、その一帯だけ凪の空間ができている。まるで見えない壁で風を遮ったかのように。
数秒後、その空間がじわりと狭まって、風が戻った。草がまた揺れ始めた。
「…………」
声が出なかった。
岩を両断した時も、川幅の水面に線を刻んだ時も驚いた。でもこれは次元が違う。目に見えないものを斬って、その結果が「草が止まる」という形で示される。信じられないのに、映像の中の景色がそれを証明していた。
『——と、これが完成形だけどな。お前にいきなりここまでやれとは言わない』
ヴォルフが剣を下ろして、こちらに向き直った。
『まずは三メートルでいい。三メートル先の草が一瞬でも動かなくなったら合格だ』
「三メートル……」
向こうの丘まで風を断ち切った映像を見た後では、三メートルが妙に短く感じる。でもきっと、その三メートルがとてつもなく遠いのだろう。岩の修行も、水の修行もそうだった。
『コツを教えるぞ。風は見えないだろ? だから目に頼るな。目を閉じろ。全身の肌で感じるんだ。風がどっちから吹いてるか。どれくらいの強さか。その中で——一番圧が強い筋がどこを通ってるか。それを感じ取れ』
「……うん」
『で、その芯を捉えたらな——水の時と同じだ。力じゃなくて精度。芯の位置にピンポイントで剣筋を通す。ただし水と違うのは、風の芯は目を開けても見えないってこった。感覚だけが頼りだ。スゥーッと息を消して、肌がピリッてなった方向に——シュパンッ! とやる。間違ってもブオンッはダメだぞ。ブオンッは力みの音だ。シュパンッだ。シュッでもないし、パンッでもない。シュパンッ。この複合音が——』
「シュパンとブオンの違いだけは今のところ一個も分からないよ!!」
僕は画面に向かって叫んだ。もう慣れてきたとはいえ、この人の説明は毎回こうだ。大事なところは全部擬音で片付ける。
でも、わかっている。岩の時も水の時も、最初は意味不明だった擬音が、体を動かし続けるうちにちゃんと意味に変わった。今回もきっと、そうなる。
「——よし。やるぞ」
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風の修行は、今までで一番苦しかった。
だって、見えないだもん。
岩は殴れば手応えがある。水は飛沫で結果が分かる。でも風は、切れたのか切れていないのか、自分では判断しにくい。目印は足元の草だけ。草が止まれば成功。止まらなければ失敗。だけど風がたまたま弱まっただけなのか、自分が斬ったから止まったのか、その区別がつかない。
裏山のてっぺんは、風がよく通る。毎日そこに立って、目を閉じて、木の剣を振った。朝から晩まで。風が吹けば振る。風が止んだら待つ。風が吹いたらまた振る。ただその繰り返しだった。
近所のおじさんが通りすがりに「お前、毎日山のてっぺんで何してんだ」と聞いてきたので、「風を切る修行です」と答えたら、ものすごく心配した目で見られた。
最初の一年は、何をしているのか自分でもよく分からなかった。ヴォルフの言う「風の芯」が全く感じ取れない。目を閉じても、ただ風が吹いているとしか分からない。どこに芯があるのか、そもそも本当に芯なんてあるのか。
だけど変化は、いつも突然やってくる。
十一歳のある日。目を閉じて立っていた時、ふと——風の「形」を感じた。
見えたわけじゃない。目は閉じている。でも、全身の肌がそれを教えてくれた。右の頬を撫でる風と、左肩を押す風は別の流れだ。腕の産毛が立つ方向、首筋を抜ける冷たさの角度、前髪が押される力の強さ。それら全部が、バラバラの情報じゃなくて、一枚の「地図」のように体の中で繋がった。
そしてその地図の中に——一本の、他より強い線があった。
右斜め前方。肩の高さ。他の風より少しだけ圧が高くて、少しだけ冷たい。
これが——芯。
目を閉じたまま、構えた。
芯の位置に剣筋を合わせる。息を止める。力を消す。水の修行で学んだ「精度」を、目に見えない相手に向かって放つ。
——振った。
手応えは——なかった。手応えがないのは今までと同じだ。
でも。
目を開けた瞬間、足元の草を見た。
風は吹いている。左右の草は相変わらずざわざわと揺れている。なのに——自分の足元から、剣を振った先へ向かって。三メートルほどの一直線上にある草が、全て止まっていた。
風に押されて傾いていたはずの草が、すっと真っ直ぐに立っている。まるでそこだけ風という概念ごと消え去ったかのように、僕の足元から三メートル先まで、草が微動だにしない。
二秒ほどで、じわりと風が戻って、草がまた揺れ始めた。
膝が震えた。
ヴォルフの映像では、遥か向こうの丘の麓まで風を断ち切っていた。僕のはたった三メートル、二秒だけ。比べものにならない。
でも——風を、斬った。
「——斬れた。風、斬れたぁぁぁあああっ!!」
三度目の全力疾走で山を駆け下りた。
家に飛び込んだ僕を見たお母さんは、何も聞かなくても「やったのね」と笑った。この人は本当に、全部お見通しだ。
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第三の修行をクリアした後も、CDにはまだ続きがあった。
第四、第五、第六——修行は続いた。内容はどんどん複雑になっていったし、ヴォルフの擬音は更に磨きがかかっていった。正直、第六の修行で言われた「ヒュルルンッからのドパァンッ」は今でも言葉としての意味は全く分からなかったけど、体は知っていた。というか、体に聞くしかなかった。
季節が何度も何度も巡った。木の剣は何百本と折れた。裏山の岩は練習台として何度も両断され、砕けた破片がもう小山のようになっている。
そして——修行を始めてから十年目。十五歳の春。
ヴォルフの声が、いつもと少し違って聞こえた。ふざけた感じがない。静かで、まっすぐだ。
『これがお前に与える、最終課題だ。』
『ここまで来たお前は、もう立派な剣士だ。だけど最後に一つだけ確かめさせてくれ。全ての修行で学んだことを——一つの「型」にまとめろ。これまでの修行で得たすべての感覚すべてを一振りに込めて、お前だけの一撃を放ってみせろ。それができたなら——次に進め。最後のメッセージを用意してある』
最終課題には、細かい合格条件の説明がなかった。ただ「まとめろ」とだけ。
僕は裏山に立った。目の前には、日々の練習として十年間ずっと付き合ってきた——何度砕いてもお母さんが「次の岩見つけてきたわよ」と調達してきてくれた——大きな岩がある。
木の剣を構えた。
目を閉じる。
足の裏から大地を感じる。岩を切った日の、あの最初の手応え。——第一の修行、「力」。
力を針の先まで絞り込む。水面に線を刻んだ日の、一ミリのブレも許さない集中。——第二の修行、「精度」。
風が頬を撫でる。草を揺らす。遠くの木の葉を鳴らす。その全ての流れが、体の内側に地図のように広がる。——第三の修行、「感覚」。
そしてそれだけじゃない。これまでの全て。言葉にならない全ての修行が——十年間の全てが——僕の体の中で一つになっていくのを感じた。
ヴォルフの擬音が、最初から最後まで全部つながった。ギュッ。ジワー。バシュッ。キュッ。スゥー。シュパンッ。全部が、一つの動作のための部品だったのだ。
——振った。
音はしなかった。
風も止まった気がした。
目を開けると、岩があった場所にあの大きくそびえたつ岩はなかった。あったのは、真っ二つに割れた岩と——その奥の地面に走る、一筋の切り傷だった。
木の剣は——折れていなかった。
「…………」
しばらく動けなかった。
その夜。家に帰って、CDの最後の映像に切り替えた。手が少しだけ震えていた。十年間ずっと一緒だったこの映像も、これで最後だ。
壁にヴォルフの姿が映し出される。
『——お。ここまで来たか』
ヴォルフは笑っていた。今までで一番穏やかな笑顔だった。いつもの軽い調子ではなく、一人の剣士として、まっすぐに語りかけている。
『正直な、途中で進めるの止めちまった奴も結構いると思う。嘘ついてこの映像まで飛ばした奴もいるかもな。でもお前がちゃんとやったかどうかは——お前自身が一番分かってるはずだ』
「……うん」
思わず返事をしていた。映像相手に返事するのも、十年間でずいぶん慣れてしまった。
『最後まで諦めずについてきてくれた。お前は——俺の型の基本修行の、全課程を修了した。胸張れ』
ヴォルフが一度言葉を切った。映像の中の男は、少しだけ目を細めて、照れくさそうに頭をかいた。
『いやー、正直ここまで来る奴がいるとは思ってなかった。嬉しいもんだな』
そしてまっすぐにこちらを見た。
『お前は紛れもなく——俺の弟子だ』
「——っ」
涙が出た。
ずるい。映像なのに。もうとっくに録り終わった、いつ撮ったかも分からない映像なのに。画面の向こうのこの人は、僕の顔なんか見えていないのに。
でも、嬉しかった。十年間、ずっと一人で修行してきた。映像の向こうの人に「弟子」と呼ばれることが、こんなに嬉しいと思わなかった。
木の剣を握る手で涙を拭いた。
ヴォルフは笑っていた。穏やかで、けれどどこか誇らしげな笑顔だった。
『だからな——ここからは、俺が直々にお前を——』
ブツッ。
映像が乱れた。
「え?」
台座の魔道具から煙が出ていた。小さな火花がパチパチと散って、投影されていたヴォルフの映像がぐにゃりと歪む。
バンッ!
破裂音とともに台座が弾けた。古い魔道具だ。もう十年近く酷使し続けてきたのだから、限界が来てもおかしくはない。煙がもうもうと立ち上り、部屋中に焦げ臭い匂いが広がった。
「きゃあっ! カイ、大丈夫!?」
隣の部屋からお母さんが飛んできた。僕は煙を手で払いながら台座を覗き込む。魔道具は完全にダメになっていた。中の回路が溶けているのが見える。そしてCDも——台座にはめ込まれたまま、ヒビが走って割れていた。
「あ……」
割れたCDの破片を拾い上げた。光に透かすと、かすかに映像の残滓のようなものが見える気がする。ヴォルフは最後に何を言おうとしていたんだろう。「俺が直々にお前を」——なんだったんだ。
「CD、割れちゃったね……」
お母さんが申し訳なさそうに言った。
「古い台座、ごめんね。ガタが来てたの気づいてたのに、買い替えてあげられなくて……」
「ううん。いいよ、お母さん」
僕はCDの破片をそっとテーブルに置いた。九年間、毎日毎日見続けた映像だ。壊れたのは寂しい。最後の言葉は気になる。でも——。
「弟子って、言ってもらえた。それだけで十分だよ」
言ったら、なんだか実感が湧いてきた。十年。五歳から十五歳まで。生まれてからの記憶のほとんどを、僕はこのCDに費やしてきた。そしてそれが、今日、終わった。
お母さんが、また僕を抱きしめた。十年前よりずっと背が伸びて、お母さんの肩くらいまで届くようになった僕の頭を、優しく撫でてくれた。
「カイ。お母さんね、あなたのこと本当にすごいと思う。十年間、一日も休まなかったもの」
「……うん」
「だから——」
お母さんが僕の肩を掴んで、真っ直ぐ目を見た。
「行ってきなさい。王都へ」
僕の目が丸くなった。
「お母さんが止めるとでも思った? あなたが五歳の時から夢見ていたこと、お母さんは全部知ってるわよ。冒険者になるんでしょう? だったら行きなさい。この村にいたって、ダンジョンはないもの」
「……いいの?」
「何言ってるの。今まで十年も修行したのは、何のためよ」
お母さんは笑った。少しだけ寂しそうで、でもとても誇らしそうな顔だった。
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それから二日後。十五歳の僕は、旅支度を整えて家の前に立っていた。
背中には小さなリュック。腰には——いつもの木の剣。鉄の剣は五歳の初日に折ったまま、新しいものは買えなかった。でもいい。今さら材質なんて関係ない。
「はい、これ」
お母さんが、布に包まれた丸いものを差し出した。
おにぎりだった。大きい。僕の顔くらいある。
「おっきい!」
「道中お腹空くでしょ。三つ作ったからね、ちゃんと食べるのよ」
「ありがとう、お母さん」
リュックにおにぎりをしまって、僕はお母さんに向き直った。
何か気の利いたことを言いたかったけど、何も思いつかなかった。だから正直に言った。
「行ってきます」
お母さんは目に涙を溜めていた。でも笑顔だった。
「行ってらっしゃい。世界一の冒険者になりなさい」
僕は頷いて、振り返って、歩き出した。
王都グランヴェルまでは、ここから歩いて一週間。長い道のりだけど、九年の修行に比べたら大したことない。
青い空の下、田舎の一本道をまっすぐに歩く。背中にお母さんの視線を感じながら、僕は一度だけ振り返って大きく手を振った。
お母さんも手を振り返してくれた。
——よし。
僕の冒険が、ようやく始まる。




