表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/19

第3話 弟子という言葉

その夜、CDの第三の修行が解放された。


今度の映像は、山の上だった。見晴らしのいい草原が広がっている。風が強い日らしく、ヴォルフの服がはためいている。足元の草が、風に押されて一方向にべったりと倒れていた。


『第三の修行。風の——「芯」を斬れ』


「……芯?」


『岩は見える。水も見える。だけど風は見えない。見えないものを斬る。——それが第三の修行だ』


ヴォルフが草原を歩きながら語る。足元の草が風に煽られて、ざわざわと波打っている。


『風にもな、芯がある。全体としてぶわーっと吹いてるように感じるだろうけど、実は中に「一番圧が強い筋」ってのがある。風の背骨、みたいなもんだ。そこを正確に斬ると——風が裂ける。斬った先の空間から、風が消える』


ヴォルフが構えた。風が吹いている。草が揺れている。それでもヴォルフの体だけが、根を張ったように微動だにしない。


一閃。


音はほとんどしなかった。ヴォルフの剣が横に薙がれた——その先。


草原の向こう、遥か遠くまで——草が止まった。


風は吹いている。ヴォルフの横でも、背後でも、草はざわざわと揺れ続けている。なのに、剣が振られたその先だけ、遥か向こうの丘の麓まで——草が微動だにしなくなった。風が確かに吹いているのに、その一帯だけ凪の空間ができている。まるで見えない壁で風を遮ったかのように。


数秒後、その空間がじわりと狭まって、風が戻った。草がまた揺れ始めた。


「…………」


声が出なかった。


岩を両断した時も、川幅の水面に線を刻んだ時も驚いた。でもこれは次元が違う。目に見えないものを斬って、その結果が「草が止まる」という形で示される。信じられないのに、映像の中の景色がそれを証明していた。


『——と、これが完成形だけどな。お前にいきなりここまでやれとは言わない』


ヴォルフが剣を下ろして、こちらに向き直った。


『まずは三メートルでいい。三メートル先の草が一瞬でも動かなくなったら合格だ』


「三メートル……」


向こうの丘まで風を断ち切った映像を見た後では、三メートルが妙に短く感じる。でもきっと、その三メートルがとてつもなく遠いのだろう。岩の修行も、水の修行もそうだった。


『コツを教えるぞ。風は見えないだろ? だから目に頼るな。目を閉じろ。全身の肌で感じるんだ。風がどっちから吹いてるか。どれくらいの強さか。その中で——一番圧が強い筋がどこを通ってるか。それを感じ取れ』


「……うん」


『で、その芯を捉えたらな——水の時と同じだ。力じゃなくて精度。芯の位置にピンポイントで剣筋を通す。ただし水と違うのは、風の芯は目を開けても見えないってこった。感覚だけが頼りだ。スゥーッと息を消して、肌がピリッてなった方向に——シュパンッ! とやる。間違ってもブオンッはダメだぞ。ブオンッは力みの音だ。シュパンッだ。シュッでもないし、パンッでもない。シュパンッ。この複合音が——』


「シュパンとブオンの違いだけは今のところ一個も分からないよ!!」


僕は画面に向かって叫んだ。もう慣れてきたとはいえ、この人の説明は毎回こうだ。大事なところは全部擬音で片付ける。


でも、わかっている。岩の時も水の時も、最初は意味不明だった擬音が、体を動かし続けるうちにちゃんと意味に変わった。今回もきっと、そうなる。


「——よし。やるぞ」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

風の修行は、今までで一番苦しかった。


だって、見えないだもん。


岩は殴れば手応えがある。水は飛沫で結果が分かる。でも風は、切れたのか切れていないのか、自分では判断しにくい。目印は足元の草だけ。草が止まれば成功。止まらなければ失敗。だけど風がたまたま弱まっただけなのか、自分が斬ったから止まったのか、その区別がつかない。


裏山のてっぺんは、風がよく通る。毎日そこに立って、目を閉じて、木の剣を振った。朝から晩まで。風が吹けば振る。風が止んだら待つ。風が吹いたらまた振る。ただその繰り返しだった。


近所のおじさんが通りすがりに「お前、毎日山のてっぺんで何してんだ」と聞いてきたので、「風を切る修行です」と答えたら、ものすごく心配した目で見られた。


最初の一年は、何をしているのか自分でもよく分からなかった。ヴォルフの言う「風の芯」が全く感じ取れない。目を閉じても、ただ風が吹いているとしか分からない。どこに芯があるのか、そもそも本当に芯なんてあるのか。


だけど変化は、いつも突然やってくる。


十一歳のある日。目を閉じて立っていた時、ふと——風の「形」を感じた。


見えたわけじゃない。目は閉じている。でも、全身の肌がそれを教えてくれた。右の頬を撫でる風と、左肩を押す風は別の流れだ。腕の産毛が立つ方向、首筋を抜ける冷たさの角度、前髪が押される力の強さ。それら全部が、バラバラの情報じゃなくて、一枚の「地図」のように体の中で繋がった。


そしてその地図の中に——一本の、他より強い線があった。


右斜め前方。肩の高さ。他の風より少しだけ圧が高くて、少しだけ冷たい。


これが——芯。


目を閉じたまま、構えた。


芯の位置に剣筋を合わせる。息を止める。力を消す。水の修行で学んだ「精度」を、目に見えない相手に向かって放つ。


——振った。


手応えは——なかった。手応えがないのは今までと同じだ。


でも。


目を開けた瞬間、足元の草を見た。


風は吹いている。左右の草は相変わらずざわざわと揺れている。なのに——自分の足元から、剣を振った先へ向かって。三メートルほどの一直線上にある草が、全て止まっていた。


風に押されて傾いていたはずの草が、すっと真っ直ぐに立っている。まるでそこだけ風という概念ごと消え去ったかのように、僕の足元から三メートル先まで、草が微動だにしない。


二秒ほどで、じわりと風が戻って、草がまた揺れ始めた。

膝が震えた。


ヴォルフの映像では、遥か向こうの丘の麓まで風を断ち切っていた。僕のはたった三メートル、二秒だけ。比べものにならない。


でも——風を、斬った。


「——斬れた。風、斬れたぁぁぁあああっ!!」


三度目の全力疾走で山を駆け下りた。


家に飛び込んだ僕を見たお母さんは、何も聞かなくても「やったのね」と笑った。この人は本当に、全部お見通しだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第三の修行をクリアした後も、CDにはまだ続きがあった。


第四、第五、第六——修行は続いた。内容はどんどん複雑になっていったし、ヴォルフの擬音は更に磨きがかかっていった。正直、第六の修行で言われた「ヒュルルンッからのドパァンッ」は今でも言葉としての意味は全く分からなかったけど、体は知っていた。というか、体に聞くしかなかった。


季節が何度も何度も巡った。木の剣は何百本と折れた。裏山の岩は練習台として何度も両断され、砕けた破片がもう小山のようになっている。


そして——修行を始めてから十年目。十五歳の春。


ヴォルフの声が、いつもと少し違って聞こえた。ふざけた感じがない。静かで、まっすぐだ。


『これがお前に与える、最終課題だ。』


『ここまで来たお前は、もう立派な剣士だ。だけど最後に一つだけ確かめさせてくれ。全ての修行で学んだことを——一つの「型」にまとめろ。これまでの修行で得たすべての感覚すべてを一振りに込めて、お前だけの一撃を放ってみせろ。それができたなら——次に進め。最後のメッセージを用意してある』


最終課題には、細かい合格条件の説明がなかった。ただ「まとめろ」とだけ。


僕は裏山に立った。目の前には、日々の練習として十年間ずっと付き合ってきた——何度砕いてもお母さんが「次の岩見つけてきたわよ」と調達してきてくれた——大きな岩がある。


木の剣を構えた。


目を閉じる。


足の裏から大地を感じる。岩を切った日の、あの最初の手応え。——第一の修行、「力」。


力を針の先まで絞り込む。水面に線を刻んだ日の、一ミリのブレも許さない集中。——第二の修行、「精度」。


風が頬を撫でる。草を揺らす。遠くの木の葉を鳴らす。その全ての流れが、体の内側に地図のように広がる。——第三の修行、「感覚」。


そしてそれだけじゃない。これまでの全て。言葉にならない全ての修行が——十年間の全てが——僕の体の中で一つになっていくのを感じた。


ヴォルフの擬音が、最初から最後まで全部つながった。ギュッ。ジワー。バシュッ。キュッ。スゥー。シュパンッ。全部が、一つの動作のための部品だったのだ。


——振った。


音はしなかった。

風も止まった気がした。


目を開けると、岩があった場所にあの大きくそびえたつ岩はなかった。あったのは、真っ二つに割れた岩と——その奥の地面に走る、一筋の切り傷だった。


木の剣は——折れていなかった。


「…………」


しばらく動けなかった。


その夜。家に帰って、CDの最後の映像に切り替えた。手が少しだけ震えていた。十年間ずっと一緒だったこの映像も、これで最後だ。


壁にヴォルフの姿が映し出される。


『——お。ここまで来たか』


ヴォルフは笑っていた。今までで一番穏やかな笑顔だった。いつもの軽い調子ではなく、一人の剣士として、まっすぐに語りかけている。


『正直な、途中で進めるの止めちまった奴も結構いると思う。嘘ついてこの映像まで飛ばした奴もいるかもな。でもお前がちゃんとやったかどうかは——お前自身が一番分かってるはずだ』


「……うん」


思わず返事をしていた。映像相手に返事するのも、十年間でずいぶん慣れてしまった。


『最後まで諦めずについてきてくれた。お前は——俺の型の基本修行の、全課程を修了した。胸張れ』


ヴォルフが一度言葉を切った。映像の中の男は、少しだけ目を細めて、照れくさそうに頭をかいた。


『いやー、正直ここまで来る奴がいるとは思ってなかった。嬉しいもんだな』


そしてまっすぐにこちらを見た。


『お前は紛れもなく——俺の弟子だ』


「——っ」


涙が出た。


ずるい。映像なのに。もうとっくに録り終わった、いつ撮ったかも分からない映像なのに。画面の向こうのこの人は、僕の顔なんか見えていないのに。


でも、嬉しかった。十年間、ずっと一人で修行してきた。映像の向こうの人に「弟子」と呼ばれることが、こんなに嬉しいと思わなかった。


木の剣を握る手で涙を拭いた。


ヴォルフは笑っていた。穏やかで、けれどどこか誇らしげな笑顔だった。


『だからな——ここからは、俺が直々にお前を——』


ブツッ。


映像が乱れた。


「え?」


台座の魔道具から煙が出ていた。小さな火花がパチパチと散って、投影されていたヴォルフの映像がぐにゃりと歪む。


バンッ!


破裂音とともに台座が弾けた。古い魔道具だ。もう十年近く酷使し続けてきたのだから、限界が来てもおかしくはない。煙がもうもうと立ち上り、部屋中に焦げ臭い匂いが広がった。


「きゃあっ! カイ、大丈夫!?」


隣の部屋からお母さんが飛んできた。僕は煙を手で払いながら台座を覗き込む。魔道具は完全にダメになっていた。中の回路が溶けているのが見える。そしてCDも——台座にはめ込まれたまま、ヒビが走って割れていた。


「あ……」


割れたCDの破片を拾い上げた。光に透かすと、かすかに映像の残滓のようなものが見える気がする。ヴォルフは最後に何を言おうとしていたんだろう。「俺が直々にお前を」——なんだったんだ。


「CD、割れちゃったね……」


お母さんが申し訳なさそうに言った。


「古い台座、ごめんね。ガタが来てたの気づいてたのに、買い替えてあげられなくて……」


「ううん。いいよ、お母さん」


僕はCDの破片をそっとテーブルに置いた。九年間、毎日毎日見続けた映像だ。壊れたのは寂しい。最後の言葉は気になる。でも——。


「弟子って、言ってもらえた。それだけで十分だよ」


言ったら、なんだか実感が湧いてきた。十年。五歳から十五歳まで。生まれてからの記憶のほとんどを、僕はこのCDに費やしてきた。そしてそれが、今日、終わった。


お母さんが、また僕を抱きしめた。十年前よりずっと背が伸びて、お母さんの肩くらいまで届くようになった僕の頭を、優しく撫でてくれた。


「カイ。お母さんね、あなたのこと本当にすごいと思う。十年間、一日も休まなかったもの」


「……うん」


「だから——」


お母さんが僕の肩を掴んで、真っ直ぐ目を見た。


「行ってきなさい。王都へ」


僕の目が丸くなった。


「お母さんが止めるとでも思った? あなたが五歳の時から夢見ていたこと、お母さんは全部知ってるわよ。冒険者になるんでしょう? だったら行きなさい。この村にいたって、ダンジョンはないもの」


「……いいの?」


「何言ってるの。今まで十年も修行したのは、何のためよ」


お母さんは笑った。少しだけ寂しそうで、でもとても誇らしそうな顔だった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


それから二日後。十五歳の僕は、旅支度を整えて家の前に立っていた。


背中には小さなリュック。腰には——いつもの木の剣。鉄の剣は五歳の初日に折ったまま、新しいものは買えなかった。でもいい。今さら材質なんて関係ない。


「はい、これ」


お母さんが、布に包まれた丸いものを差し出した。


おにぎりだった。大きい。僕の顔くらいある。


「おっきい!」


「道中お腹空くでしょ。三つ作ったからね、ちゃんと食べるのよ」


「ありがとう、お母さん」


リュックにおにぎりをしまって、僕はお母さんに向き直った。


何か気の利いたことを言いたかったけど、何も思いつかなかった。だから正直に言った。


「行ってきます」


お母さんは目に涙を溜めていた。でも笑顔だった。


「行ってらっしゃい。世界一の冒険者になりなさい」


僕は頷いて、振り返って、歩き出した。


王都グランヴェルまでは、ここから歩いて一週間。長い道のりだけど、九年の修行に比べたら大したことない。


青い空の下、田舎の一本道をまっすぐに歩く。背中にお母さんの視線を感じながら、僕は一度だけ振り返って大きく手を振った。


お母さんも手を振り返してくれた。


——よし。


僕の冒険が、ようやく始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ