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第2話 師匠との修行

あの日から、僕の毎日は岩との戦いになった。


朝起きたら裏山に行って、木の剣で岩を叩く。お母さんが「ごはんよー!」と呼ぶ声が聞こえたら走って帰って、おにぎりを頬張って、またすぐ裏山に戻る。日が傾いて夕飯の匂いが風に乗ってくるまで振り続けて、食べ終わったらまた山に登って、暗くて岩が見えなくなるまで振る。


毎日、毎日、その繰り返しだった。


ヴォルフの映像は何度も繰り返し見た。


『ギュッと力を込めるだろ? そしてジワーッと溜めて、バシュッ! だ!』


最初の頃は本当に意味が分からなかった。「ギュッ」ってどのくらいのギュッなんだ。「ジワー」は何秒のジワーなんだ。そもそも「バシュッ」って何。


でも、不思議なことに——毎日毎日やっていると、なんとなく体が分かり始める瞬間がある。


ああ、このギュッは「腹の底を締める」感覚のことだ。ジワーは「足の裏から力が這い上がってくるのを待つ」ことだ。バシュッは——まだ分からない。でもいつか分かる気がする。


木の剣は何本も折れた。お母さんが「また?」と笑いながら、新しい木の枝を削ってくれた。僕も自分で削った。裏山の木はだいぶ減った気がする。


季節が変わって、また変わって。


僕の背が少しだけ伸びて、手のひらに豆ができて潰れて、また豆ができて潰れて、いつの間にかそこが硬い皮膚になった頃。


——修行を始めて、三年が経っていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

八歳の僕は、その日もいつもと同じように裏山にいた。


夕暮れの光が岩を赤く染めている。もう何千回、何万回振ったか分からない。数えるのは最初の三ヶ月でやめた。数えたところで岩は切れないからだ。


構える。息を吸う。足の裏を大地に押し付ける。


——ギュッ。


お腹の底に熱い塊ができる。この感覚はもう迷わない。三年かけて、体が覚えた。


——ジワー。


足元から、背骨を伝って、肩に、腕に、指先に。力が水みたいに流れていく。焦らない。待つ。


力が指先まで行き渡る。全身がひとつになった感覚。ここだ。


——バシュッ!


木の剣を振り下ろした瞬間、手応えが変わった。


これまでは、岩に弾かれて手が痺れるか、木の剣が折れるかのどちらかだった。でも今日は違った。剣が岩に触れた瞬間、まるで「刃が通った」かのような——抵抗のない感触が一瞬だけ手のひらを走り抜けた。


ガコンッ、と岩がずれた。


「……え」


目の前の岩が、まるで豆腐でも切ったかのように、綺麗な断面を見せて真っ二つに滑り落ちた。木の剣は折れていない。ただ、真っ直ぐに振り抜いただけだ。


でも——切れた。岩に、刃が、通った。


木の剣で。


「——切れたあああああっ!!!」


僕は木の剣を空に突き上げて叫んだ。声が裏山にこだまして、向こうの森の鳥が一斉に飛び立った。


「お母さーーーん!! 切れたよ!! 岩切れたよーーーっ!!」


全速力で山を駆け下りた。転びかけた。でも止まれなかった。

家の前でお母さんが洗濯物を取り込んでいた。僕の叫び声を聞いて、すでにこちらを向いている。


「岩が! 岩が切れた!!」


「えっ、本当に!?」


お母さんの目が大きく見開かれた。洗濯物を入れていたかごを放り出して、僕の手を取って裏山に走り出す。お母さんも走るのが速い。たぶん僕の足の速さはこの人譲りだ。


岩の前に着いて、ずれ落ちた上半分を見たお母さんは、両手で口を押さえた。


「カイ……すごいじゃない! 本当に切れてる! 木の剣で!」


「うん! ヴォルフの言った通りにしたら、今日だけなんか違くて——」


「三年よ? 三年も毎日毎日頑張って……お母さん、本当に嬉しい!」


お母さんが僕をぎゅうっと抱きしめた。洗剤のいい匂いがした。


嬉しかった。この三年間、学校では「まだ岩切れないの」とか「あのCD胡散臭くない?」とか言われていた。でもお母さんだけは一度も僕の修行を馬鹿にしなかった。「今日はどうだった?」って毎日聞いてくれたし、木の剣が折れたら一緒に削ってくれた。


だから余計に嬉しかった。


「よーし、今日はお祝いね! カイの好きなもの作ってあげる!」


「やった! おにぎり! おっきいの!」


「お祝いなのにおにぎり!? もっとこう、あるでしょ!」


「おにぎりがいい! お母さんのおにぎりが世界で一番うまいんだから!」


お母さんが笑って、また僕を抱きしめた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その夜、CDの映像を再生した。


『——お、岩切ったか』


映像の中のヴォルフは、少し驚いたような、けれど嬉しそうな顔をしていた。パッケージの時と同じ、人懐っこい笑顔。この人、本当に岩を一刀両断できる剣士なのかと疑いたくなるくらい気さくな雰囲気だ。


『正直に言うぞ。ここまで来る奴は千人に一人もいない。よくやったな。——だけど、ここからが本番だ』


画面が切り替わる。


場所が変わっていた。さっきまでの森ではなく、川辺だ。幅の広い川が音を立てて流れている。ヴォルフはその川岸に立ち、剣を抜いた。


『第二の修行。水面に——「線」を刻め』


「……線?」


『岩は止まってる。構えて、溜めて、振ればいい。時間はいくらでもある。だけどな、水は止まらない。お前が振った瞬間にも流れ続けてる。——じゃあ水は切れないのか? そうじゃない』


ヴォルフが川面を指差した。


『よく見ろ。流れてる水にもな、「芯」がある。水流がぶつかって、ぎゅっと力が集まる一点。そこは一瞬だけ動きが鈍る。その一点を——剣筋一本分の長さでいい。正確に捉えて斬れ。そうすりゃ、水面に線が残る』


「水面に線が残る……?」


そんなことあり得るのか。水はすぐに流れて戻るはずだ。線なんて——。


『信じらんねぇって顔してるだろうな。まあ見てろ』


ヴォルフが構えた。さっきと同じ、力みのない自然体。川面を見つめる目だけが鋭くなった。


一閃。


剣が横に薙がれた——瞬間。


川の水面に、一本の白い線が走った。


川幅の端から端まで。数十メートルはある川の全幅を、一本の線が貫いていた。まるで水面にガラスの傷をつけたように、流れているはずの水が、その線に沿ってだけ一瞬止まった。線は二秒ほど残って、すぐに水が流れ込んで消えた。


「…………うそだろ」


『これが完成形だ。けどお前にいきなりこれをやれとは言わない。まずは剣筋の長さ——腕を振った分だけでいい。水面に一本の線を刻め。ポイントはな——力じゃない。「精度」だ』


ヴォルフが人差し指を立てた。


『岩を切る時はさ、力を全身でバーンッとぶつけただろ? 水はそれだと駄目だ。力が散る。水ってのは衝撃を受け流すのが得意だからな。必要なのは、力を一点に——キュッと絞ることだ。針の先くらいに細く、糸の先くらいに鋭く。剣筋のブレをゼロにしろ。ゼロだ。コンマ一ミリでもずれたら、力が水に散って、ただバシャッてなるだけだ。分かるか?』


「キュッと……」


『もうちょい具体的に言うとな。振る時にヒュルッとこう、軌道を——いや、ヒュルッていうかスゥーッていうか……真っ直ぐにギーーーッと……いやギーーーッは違うな、もっとこう、シャーッ——』


「全然具体的になってないんだけど!」


僕は思わず画面にツッコんだ。この人、説明が上手いような下手なような……いや、下手だ。確実に下手だ。


でも、心臓はどくどくと高鳴っていた。水面に線を刻む。力ではなく、精度。今までの修行とは全く違う方向性だ。


「……よし。やるか」


水の修行は、岩とは全く別物だった。


裏山の向こうにある小川に通い始めた。朝から晩まで、岩の修行と同じ生活リズムで——ただ場所が裏山の頂上から小川のほとりに変わっただけだ。


ヴォルフの言う通り、力任せに振ると水がバシャッと弾けるだけで何も起こらない。何度やっても、ただ水飛沫が顔にかかるだけだ。最初の半年は毎日びしょ濡れで帰って、お母さんに「今日もびしょびしょねぇ」と笑われる日々だった。


問題は「精度」だ。剣筋をブレなく真っ直ぐに振ること。言葉にすると簡単だが、木の剣を完全にまっすぐ振るというのは、想像を絶するほど難しかった。ほんの僅かでも手首がぶれると、力が散ってしまう。一ミリのズレが、水面では何も起こらないか、ただの水飛沫かの分かれ目になる。


何百回と振った。何千回と振った。


少しずつ分かってきたのは、「水の芯」のことだった。ヴォルフが言っていた「水流がぶつかって力が集まる一点」。小川をじっと見つめていると、流れの中にわずかに水面が盛り上がる場所がある。二つの流れがぶつかって、行き場を失った水が一瞬だけ滞る場所。それが「芯」だ。


そこを——正確に捉える。


九歳を過ぎた頃から、たまに手応えを感じるようになった。水飛沫が飛ばない振りができた時、ほんの一瞬だけ水面がスッと静まるのが見える。


そして修行開始から一年半。合わせて四年半が経った日。


僕は小川のほとりに立って、構えた。


水面を見る。流れの中に、あの小さな盛り上がりが見えた。二つの流れがぶつかる、芯。


息を絞る。力を——針の先ほどに、細く。


振った。


バシャッという音は、しなかった。


代わりに、水面に一本の白い筋が浮かんだ。剣を振った軌道に沿って——ほんの四、五十センチだけ。ヴォルフの川幅全体とは比べものにならない、短い短い線。でも確かに、流れているはずの水面に、一瞬だけ——線が刻まれた。


すぐに水が流れ込んで線は消えた。一秒も持たなかったと思う。


でも、見えた。


「——刻めた……水に、線が……!」


声が震えた。岩を切った時とは違う種類の達成感だった。力で捻じ伏せたのではなく、精度で「通した」感覚。


「お母さーーーん!!」


またびしょ濡れのまま走って帰った。お母さんは玄関先で僕の顔を見て、何も言わないうちに「できたのね」と言い当てた。その日の夕食はいつも以上に豪華だった。

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