第16話 深紅と轟雷
「来い!」
僕が叫んだ瞬間、狼が動いた。
一瞬で間合いを詰めてくる。前足の爪が右から薙ぎ払われた。
さっきまでなら、避けるのがやっとだった。
だけど今は違う。
爪の軌道が、見える。力がどこに向かっているのかがわかる。水の中で学んだあの感覚。流れに逆らわず、力の方向を読む。
長剣で受け流し、隙に踏み込んで斬った。白い光を纏った刃が、雷を押し返して狼の脇腹に食い込む。
狼が低く唸った。この戦いで初めての苦痛の声だった。
そこからは、僕が攻める番だった。
水の修行で学んだ受け流しで攻撃を捌く。力に逆らわず、方向を変えて、流す。狼の爪がどれだけ速くても、力の流れさえ読めれば対処できた。
風の修行で研ぎ澄ました感覚が、狼の体の弱い場所を教えてくれる。雷の纏いが薄い箇所、毛並みの隙間、関節の継ぎ目。あの修行で風に叩かれながら探り当てる訓練を繰り返した感覚が、今そのまま使えている。
見えた急所に、岩の修行で鍛えた一点集中の突きを叩き込む。砕くべき一点を見極めろ。師匠の言葉通りに、そこだけに全てを集めて貫く。
十年間の修行が、一つの戦い方として噛み合っていた。
狼の白い毛並みに青い稲妻のような線が増えていく。斬るたびに狼の動きが鋭くなった。痛みで弱るのではなく、怒りで加速していく。
それでも僕は食らいついた。
受け流して、見極めて、貫く。その繰り返しだった。体が勝手に動いている。考えるより先に、十年間で叩き込まれた型が反応する。
狼が距離を取って、雷を撃ってきた。青白い光の塊が僕に向かって飛んでくる。
僕は剣を構えて、雷に向かって踏み込んだ。白い光を纏った刃で、真正面から斬り裂いた。雷が割れて、僕の横を通り抜けていく。
滝を斬った時と同じだ。目の前の障害を、一刀で両断する。
雷を割った先に、狼の顔があった。驚いたように金色の瞳が見開かれている。全力の一撃を叩き込んだ。狼が咄嗟に前足で受け、衝撃で互いに弾き飛ばされた。
地面を滑りながら体勢を立て直す。狼も同じだけ押し戻されていた。
互いに傷だらけだ。互いに息が荒い。だけど、押されてはいない。
互角以上に戦えている。
狼の金色の瞳から、余裕が消えていた。代わりにあったのは、全力で戦う者の目だった。目の前の相手を認めた、獣の目。
そこからの攻防は、さらに苛烈さを増した。
狼の攻撃が速くなった。一撃一撃に込められる雷が濃くなった。本気を出してきている。
僕も全力で応えた。受け流しの精度を上げ、隙を見つけるたびに斬り込んだ。白い光を纏った剣が、狼の雷と何度もぶつかり合った。
斬り込めば雷で返される。突進してくれば受け流して反撃する。互いに傷が増え、互いに消耗していく。どちらも引かない。どちらも崩れない。
だけど、体をまとう白い光が少しずつ薄くなっているのがわかった。全力で戦い続けて、もう残りが少ない。
狼も同じだったのだろう。
不意に攻撃の手を止めて、大きく後ろに跳んだ。距離を取って、こちらを睨んでいる。
全身の雷がこれまでで一番強く輝いていた。体の周囲に雷の膜のようなものが形成されていく。残りの全てを凝縮している。
これが互いの最後の一撃になる。
僕も長剣を構えた。この一撃に、全てを懸ける。
体の奥底に残っている力を全部、剣に込める。精一杯。出し惜しみなんてしない。持っているもの全部だ。
込める。もっと。もっと深く。
長剣の刃が白く光り始めた。さっきまでよりも強い光。力を注ぎ込むほどに、光が膨れ上がっていく。
もっとだ。まだ足りない。あの狼の雷を超えるには、まだ——
さらに込めた。体の芯から、最後の一滴まで搾り出すように。
刃の光が一段と強くなった。白い輝きが剣全体を包み込んでいる。
——パキッ。
小さな音がした。
刃に、亀裂が走っていた。
まさか。
込めるのを止める間もなかった。亀裂が刃の根元から先端に向かって一瞬で広がり、次の瞬間——剣が、砕けた。
破片が宙に散って、白い光が霧のように消えていく。手元には柄と、僅かに残った刃の根元だけ。
僕の力に、この剣が耐えきれなかった。
短剣も前の戦いで壊れた。もう戦える武器がない。
そんなことはつゆ知らず、目の前では狼の雷が臨界に達しようとしている。
どうすれば——
その時だった。
右側から風を切る音がして、何かが僕の足元にザクッと突き刺さった。
それは剣だった。
漆黒の刀身。飾りも装飾も何もない。ただ黒い。
だけどその黒さは、まるですべての光を吸い込んでいるかのように深かった。
誰が投げた。なぜここに。この剣は一体なんだ。
わからない。でも考えている時間はなかった。
僕は、地面に刺さった漆黒の剣を引き抜いた。
握った瞬間、全身に衝撃が走った。
体の中に残っていた力を、この剣に込める。さっきまで白かった光が、この剣を通じて変わっていく。
漆黒の刃の上を、深紅の光が走り、刀身に刻まれた赤い文字が脈打つように明滅している。
さっきの白い光とは、何もかもが違った。体の中を巡る力が、この剣を通ることで別のものに変わっている。
この剣が、僕の力に応えている。
全身に深紅の光が巡った。残っている全ての力が、この剣を通して燃え上がっている。
全てをこの一撃に叩き込む。
「これで——最後だ!」
狼が跳んだ。全身の雷を凝縮させた、最大最後の突進。
白く青い光が空間を焼きながら、一直線にこちらへ向かってくる。
僕は漆黒の剣を振りかぶり、狼に向かって走った。
そして——ぶつかった。
深紅の光と白く青い雷が激突した瞬間、二つの力がせめぎ合い、弾け、混ざり合い、そして爆ぜた。
世界が、光に包まれた。
音も色も感覚も全てが消し飛んで、ただ光だけが空間を呑み込んだ。
どれくらいの時間が経ったのかわからない。
光が収まった時——
僕は立っていた。
漆黒の剣を振り抜いた姿勢のまま、両足で地面を踏みしめていた。体中が震えている。視界がぼやけている。意識が遠い。
目の前を見た。
狼の姿は、なかった。
青白い雷も、金色の瞳も、白い毛並みも。何も残っていなかった。ただ、戦いの爪痕が刻まれた跡が地面に広がっているだけだった。
「やっ……た……」
かすれた声が漏れた。
やった。勝った。
その実感が体に届く前に、視界が暗くなった。
膝の力が抜けた。
漆黒の剣を握ったまま、僕は膝から崩れ落ちた。
冷たい地面の感触が頬に触れた。
意識が、遠くなっていく。
最後に見えたのは、握りしめた漆黒の刃に残る、微かな赤い文字の光だった。




