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幕間2 勇者への疑念

最近、リーナの様子がおかしい。


おかしいと言っても、悪い方向ではない。むしろ逆だ。明るくなった。ここ最近ずっと張りつめていた表情が緩んで、自室から楽しそうな声が漏れ聞こえてくる夜すらある。


八十層を突破してから、リーナの顔はずっと曇っていた。国中の期待が一気に膨れ上がって、「次は90層だ」「100層はいつだ」という声がどこからともなく降ってきた。


リーナは新しく階層を突破するごとに大きくなる期待に勇者らしい背中で答えていた。けど私にはわかった。十二歳の頃から隣にいた幼馴染の目が、少しずつ光を失っていくのを、私はずっと見ていた。


それが最近、変わった。


きっかけは分からない。ただ、ある夜を境に、リーナが自室で過ごす時間が増えた。それ自体は珍しくないけれど、問題はその時の様子だ。扉の向こうから、小さく笑う声が聞こえる。


時には「違うそっちじゃない!」とか「だからグッとしてからスパンだって!」とか、意味不明な叫びが飛んでくる。

それが少し気になった。

なので朝食の席でパーティーメンバーたちに相談してみた。


「ねえ、グレイ。最近リーナが夜中にずっと部屋にこもってるの気づいてる?」


「ん? ああ、そういや昨日も遅くまで起きてたみたいだな。今日も朝食の時間に起きてこなかったしな。」


グレイは大剣を磨きながら、特に気にした様子もなく答えた。


「でもよ、前までずっと暗い顔してただろ? それが最近楽しそうにしてんだから、いいことじゃねえか」


「僕もそう思います」


ルシェンが穏やかに茶を啜りながら頷いた。


「リーナさんが自分から笑うようになったのは、ここしばらくなかったことですから。何かいいものを見つけたのかもしれませんね。そっとしておくのがよろしいかと」


二人の言うことはもっともだった。リーナが明るくなったのは喜ばしいことだし、プライバシーに踏み込むのはよくない。


——わかってる。わかっているのだけれど!!


私はリーナの幼馴染だ。十二歳からずっと隣にいて、誰よりもあの子のことを見てきた。だからこそ、変化の理由が分からないのが気持ち悪かった。いい変化であっても、原因を知らないまま放置できない性分なのだ。


それに、あの叫び声。「グッとしてからスパン」って何。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


三日間、我慢した。三日が限界だった。

その夜、リーナの部屋の前に立った。扉の向こうから、また声が聞こえる。


「違う違う! そこでピュッと来たらシャッでしょ! なんでそこでボーッとしてるの!」


誰かと話している。いや、誰かに向かって叫んでいる。怒っているような、もどかしいような、でもどこか楽しそうな声。

扉をノックした。


「リーナ、ちょっといい?」


中の声がぴたりと止んだ。


「——ちょっと待って!」


慌てた声。何かをバタバタと片付けるような音が聞こえる。

普段のリーナなら「入って」の一言だ。こんなに慌てることはない。ますます気になる。


「待てない。入るよ」


「だから待ってって——」


遠慮なく扉を開けた。幼馴染の特権だ。

部屋の中にいたリーナは、受信用の魔導具の前に座り込んでいた。壁には映像が投影されている。薄暗いダンジョンの通路と、その中を進む一人の少年の後ろ姿。


配信だ。


リーナが、他人の配信を見ている。

これは意外だった。リーナはいつも「見られる側」で、自分から他人の配信を見ることなんて一度もなかった。少なくとも、私が知る限りでは。


「あんたが配信を見てるなんて」


「……だめ、かな」


リーナの声が小さくなった。まるで悪いことをしているのを見つかった子供みたいな顔をしている。世界最強の勇者が、この顔。


画面に目をやった。映っているのは、何の変哲もない少年だ。鉄の剣と革鎧。装備からしてルーキーだろう。ダンジョンの低層を一人で進んでいる。画面の隅に小さく表示されている情報が見えた。


「カイ……第4層?」


「見ないで!」


リーナが魔導具の前に立ちはだかって、両手を広げた。必死に画面を隠そうとしている。


「いいから出て! お願い!」


ここまで拒絶されると、さすがに押し通すわけにもいかない。私はおとなしく部屋を出た。

扉が閉まった後、廊下に立ったまま少し考えた。


カイ。第4層のルーキー。視聴者数はチラッと見えた限り、1。あの1は、リーナだ。

リーナが毎晩あんなに楽しそうにしていた理由は、あの少年の配信だったのか。


そして、あの叫び声——「グッとしてからスパン」「ピュッと来たらシャッ」——あれは、リーナがあの子にアドバイスを送っていた時の声だったのだ。声に出しながらコメントしてたわね。


けど理解できなかった。


なぜならリーナの超感覚アドバイスを理解できる人はあの人を除いていないのだから。

私はそれをよく知っている。リーナが一閃流を継承してから、何人もの剣士がリーナに教えを請うた。リーナはその度に、自分の感覚をそのまま言葉にして伝えようとした。でもその言葉は全て擬音で、誰一人として理解できなかった。


リーナはいつしか誰かに教えることを諦めていた。けれど今、あの少年——カイに、アドバイスを送っている。

もしかして理解して受け入れている?まさかありえない。


だけどものすごく気になってしまった。

リーナの部屋にもう一度押し入ろうとしたが、さすがにやめておいた


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


それから数日が経った。


リーナの夜の配信視聴は続いていた。毎晩毎晩、同じ時間に部屋にこもって、あの擬音混じりの叫び声が廊下に漏れてくる。そして翌朝のリーナは、以前よりもずっと穏やかな顔をしている。


私は何も聞かなかった。聞かない代わりに、観察だけは続けていた。

そしてある日、ギルドからの呼び出しがあった。


「第八十層のボスについて、勇者視点での詳細な報告をお願いしたい」


ギルドの要請だった。八十層突破は歴史的快挙だったから、攻略データの整理に勇者本人の証言が必要だという。リーナは渋々ながら承諾して、夕方からギルドに向かった。

今夜は帰りが遅くなる。


つまり——リーナがいつも配信を見ている時間に、あの子の配信は無人になる。


好奇心に負けた。

自室に戻って、受信用の魔導具を起動した。プライベートアカウントでログインする。登録名は「カゲ」。リーナの「ひかりん」と同様、トップランカーに支給されるプライベートアカウントだ。普段はほとんど使わない。


配信一覧を開いて、「カイ」と検索した。

あった。ライブ配信中。階層表示は第8層。視聴者数は0。


リーナがまだ来ていない。

配信をタップした。


壁に映し出されたのは、薄暗いダンジョンの通路を進む少年の姿だった。数日前にリーナの部屋でチラッと見た時より、明らかに装備が良くなっている。強化鉄の長剣、短剣、強化革鎧。数日でここまで揃えたのか。


しばらく黙って見ていた。


カイが通路を進んでいく。足音が聞こえた先にゴブリンが三体。第8層の、鉄剣持ちの上位ゴブリンだ。

三体が一斉にカイに向かった。


カイが動いた。

その瞬間、私の目が変わった。


一体目のゴブリンが斬りかかってくる。カイは半歩下がって攻撃をやり過ごし、振り終わりの隙に踏み込んで長剣を叩き込む。淀みのない、無駄のない動き。


——知っている。この動きを。


剣筋は甘い。リーナに比べれば、まだまだ荒削りだ。でも、敵の攻撃に対する反応の仕方——攻撃の予備動作を見切るタイミング、半歩下がる間合いの取り方、振り終わりの隙を突く踏み込みの角度——その全てが、私の知っている誰かにそっくりだった。


リーナだ。


リーナが冒険者になりたての頃、まだ今ほど強くなかった頃の——あの動きに、似ている。

残り二体が左右に散った。カイは正面を向いたまま、左右の気配を感じ取っているようだった。片方が先に仕掛け、もう片方が半拍遅れて動く。その僅かなずれを利用して、カイは先に動いた方を一拍で仕留め、振り向きざまにもう一体を斬った。


複数の敵の攻撃タイミングのずれを読み取って、各個撃破する。

これも——リーナがよくやる動きだ。


ただの偶然だろうか。いや、一つ二つの類似なら偶然で片づけられる。でもここまで動きの癖が似ているのは、偶然では説明がつかない。

リーナがこの子にアドバイスを送っていることは知っている。あの超感覚派の——擬音だらけのアドバイスを。


もしこの子がリーナの擬音を理解して、それを自分の動きに反映しているのだとしたら——えっうそでしょ!?

気がつくと、コメント欄に指を伸ばしていた。


カゲ:こんばんは


打ってから、少しだけ後悔した。覗き見だけのつもりだったのに。でも、もう遅い。

画面の中の少年が、驚いたような顔をしてこちらに——カメラの方に目を向けた。


「え……あ、こんばんは」


声が裏返っていた。素直な反応だった。

軽く会話を交わした。こんな時間に一人で潜っている理由を聞くと、歯切れ悪く「事情がある」と答えた。いつも一人かと聞くと、ひかりんという人にアドバイスをもらっていると笑顔で話してくれた。


ひかりん。


リーナのプライベートアカウントだ。やはり、この子がリーナがずっと見ていた配信者で間違いない。

そしてこの子は、リーナのアドバイスのおかげでここまで来られたと言った。笑顔で。心の底からそう思っているような、まっすぐな顔で。


本当に通じているのか?


確かめたくなった。リーナの擬音を理解できる人間がいるのか。それとも、アドバイス——大量の擬音は理解できていないまま、この子自身の才能でここまで来たのか。どちらなのかを知りたい。


そこに、ゴブリンメイジが現れた。

好都合だった。


私はこの子に指示を出すことにした。テストだ。私ではリーナのような感覚でアドバイスができない。私は常に論理で動きを組み立てているからだ。だから確信を得られるわけではないが。逆に、私の指示にもついてこられるなら——この子の理解力は、もっと根本的なところにある。


短剣への持ち替え。壁際への誘導。射線の遮断。前衛の各個撃破。メイジへの接近。

私が組み立てた戦術を、コメントで一気に流した。


普通なら要点だけ伝えるところを、わざと一手一手細かく指示した。どこまでついてこられるか見たかったから。

その結果は——完璧だった。


いや、完璧以上だった。

指示通りに壁際に寄って射線を切り、前衛を一体倒して陣形を崩し、隙間を抜けてメイジに詰めた。ここまでは指示の範囲内だ。


問題はその先だった。


メイジの杖が白く光っていた。詠唱が完了しかけている。私の指示は「メイジは近づかれると詠唱が間に合わない」という前提で組んでいた。でも実際には、メイジは射線を切られている間も詠唱を止めていなかった。想定が崩れた。


普通なら、ここで足が止まる。指示と現実が食い違った瞬間、次の行動を判断できなくなる。特に「指示通りに動く」モードに入っている時はなおさらだ。


なのにカイは止まらなかった。

詠唱完了を目の前にして——逃げなかった。さらに距離を詰めた。至近距離なら火球は自爆になる。だからメイジは撃てない。その判断を、あの一瞬で。


そしてそのままメイジを仕留めた。

画面の前で、私は声を失っていた。


理解力が高い、というだけでは説明がつかない。

私が出した指示は十行近くあった。あれだけの情報量を戦闘中に読んで、正確に実行しただけでも異常だ。


さらにそこから、指示の「意図」——射線を切る、陣形を崩す、死角を突く——という共通原理を抽出して、指示にない場面に自分で適用した。


それに、詠唱されかけている魔法に真正面から進む度胸。普通ならよけてしまっても仕方がない。

リーナの擬音が通じているかどうか、という最初の疑問はもう忘れていた。それよりもっと大きな疑問が浮かんでいた。


この子は、一体何者なんだ。

戦闘後、一つ質問をした。剣の基礎はどこで習ったのかと。


そしたら「CDの映像で学んだ」と返ってきた。それも十年間。

CDで剣を学ぶこと自体は珍しくない。剣術の基礎を収めた教材や、魔法の入門講座を記録したものは市場にいくらでも出回っている。


でも——十年間。五歳から十五歳まで、一枚のCDだけを頼りに修行を続けた。そしてその結果が、リーナに似た動き。リーナの擬音を理解できる感覚。型に入った時だけ見せる、あの鋭さ。


一つだけ、心当たりがあった。

この世にたった一つだけ、それら全部の辻褄が合ってしまうCDが世界に一つだけ存在する。


「そのCDって——」


階下で、扉が開く音がした。

リーナだ。ギルドから帰ってきた。


まずい。


私がカイの配信を見ていたことがリーナに知られたら、あの子は間違いなく怒る。自分だけの秘密の場所に、幼馴染が土足で踏み込んだと感じるだろう。


配信を切った。魔導具の光が消える。部屋が暗くなった。

階段を上がってくる足音が聞こえる。リーナの足音は軽い。でも今日は少し急いでいる。早く自分の部屋に戻って、カイの配信を見たいのだろう。


足音が私の部屋の前を通り過ぎた。リーナの部屋の扉が開いて、閉まった。

しばらくして、隣の部屋から声が漏れ聞こえてきた。


「ごめんね遅くなった! 今日もう始めてたんだ!」


——あの子、もうカイの配信に入ったのか。切り替えが早い。


リーナが執着するのも分かる気がする。あの子には何かがある。リーナの動きに似ているのが偶然なのか、それとも理由があるのか。それはまだ分からない。

だけどあの子には注目してしまう何かがあった。


「リーナが注目するのも、分かる気がするな」


誰にも聞こえない声で呟いて、灯りを消した。


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翌朝。


パーティーの四人で食卓を囲んでいた。

グレイが豪快にパンをちぎり、ルシェンが静かにスープを啜り、私はいつも通り紅茶を飲んでいる。


リーナは——私の対面に座って、一言も喋らなかった。

視線すら合わせない。パンを千切る手つきが妙に力強い。明らかに不機嫌だった。


「リーナ、今日の予定なんだけど——」


「うん、わかってる。……ごちそうさま」


そう言って、リーナは席を立って自室に戻っていった。

食卓に沈黙が落ちた。

グレイが不思議そうな顔で私を見た。


「おい、ユイ。リーナのやつすげえ怒ってたけど、お前なんかしたのか?」


「人生で一番怖い朝食でした……ご飯の味がしなかった……」


ルシェンがスプーンを置きながら小さく呟いた。普段は何事にも動じないこの人の声が、僅かに震えている。

……うん。これは当分機嫌が直らないやつだ。


「……ちょっと、やりすぎちゃったかも」

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