幕間1 英雄幻想
ダンジョン史上初——勇者パーティー「ルミナス・ブレイド」、第80層突破。
その報せは、王都グランヴェルを駆け巡った。
号外の紙面はその一報で埋め尽くされ、酒場では乾杯の声が夜通し響き、広場では配信の映像を食い入るように見つめる人だかりができた。
千年以上前に姿を現したダンジョン。古くから数え切れない冒険者たちが挑み、幾多の犠牲を払いながら深層を目指してきた。その歴史に、また新たな一ページが刻まれたのだ。
快挙を成し遂げたのは、現代唯一のSSランクパーティー「ルミナス・ブレイド」。
そのリーダーは、「閃光」の二つ名を持つ剣士——リーナ。
かつてこの世界で最強と謳われた剣聖ヴォルフ。弟子を志願する者が後を絶たなかったその男が、生涯でただ一人だけ正式な継承者と認めた人物。
ヴォルフが創始した剣術流派「一閃流」の全課程を納め、その技の全てを受け継いだ唯一の剣士。
別名——現代最強の勇者。
その勇者は今、自室のベッドに顔から突っ伏していた。
「お疲れ、リーナ。今日は大変だったからゆっくり休みな」
パーティーの仲間であるユイが、部屋の扉越しにそう声をかけてくれた。リーナは顔を枕に埋めたまま、片手だけ上げて応えた。
扉の向こうで足音が遠ざかっていく。静かになった部屋に、自分の呼吸だけが残った。
「……疲れたなぁ」
誰にも聞かれていないことを確認して、小さく呟いた。
疲れていた。体だけじゃない。心が、ずっと重かった。
80層突破という歴史的快挙で王国中が沸いている。。明日からは取材が殺到するだろうし、ギルドからの要請も山のように来る。
国民の期待はさらに膨れ上がり、「次は90層だ」「100層到達は近い」と騒ぎ立てるに違いない。
千年前からダンジョンの最深部には「厄災」が眠ると言い伝えられてきた。
それを打ち払うのが勇者の使命だと、みんなが言う。国が言う。民が言う。あなたならできると。あなたにしかできないと。
「私はただ、剣を握っていたかっただけなのに……」
枕に顔を押し付けて、目を閉じた。
瞼の裏に浮かんだのは、師匠の背中だった。
ヴォルフ師匠。あの人のもとで剣を学んでいた頃は、何も考えなくてよかった。
ただ振れと言われたから振った。ギュッとしてバシュッだと言われたから、ギュッとしてバシュッとやった。
最初は意味が分からなかった。でも体を動かし続けるうちに、師匠の言葉が体の中で意味を持ち始めた。あの頃は、剣を振ること自体が楽しかった。
全課程をクリアした日、師匠は笑っていた。
『お前は俺の自慢の弟子だ。一閃流は、お前に託す』
そう言って、師匠は旅に出た。「ちょっと旅行してくる」と、まるで散歩にでも行くような口ぶりで。
それきり、師匠は表舞台から姿を消した。
残されたのは、一閃流の全てを継承した十五歳の少女と、「最強の剣士の後継者」という途方もない肩書きだった。
それから二年。勇者と呼ばれるようになった。パーティーを組み、ダンジョンの最前線を切り開いてきた。層を一つ突破するたびに歓声が上がり、期待が積み重なり、「英雄」という言葉が重石のように肩にのしかかっていった。
英雄幻想。
みんなが私に見ているのは、本当の私じゃない。「閃光の勇者リーナ」という物語の主人公を見ている。強くて、勇敢で、揺るがない英雄の姿を。
でも本当の私は、こうやってベッドに突っ伏して、疲れたと呟いている、ただの十七歳だ。
「……寝よ」
目を閉じた。
でも、その日はなんだか眠れなかった。
体は疲れ切っているのに、頭が冴えてしまっている。
寝返りを打って、天井を見上げた。何度も見た天井。何も変わらない天井。
ふと、部屋の隅に置いてある受信用の魔導具が目に入った。
配信を見るための装置だ。球形の魔導具を台座にはめ込むと、壁に映像が投影される仕組みになっている。普段はまったく使わない。私はいつも「見られる側」であって、他人の配信を見ることはほとんどなかった。
でも、今夜はなんとなく——本当になんとなく、気が向いた。
眠れないなら、何か見ていた方がマシかもしれない。
ベッドから起き上がって、魔導具の台座に手を伸ばした。起動すると、壁にぼんやりと配信の一覧が映し出された。
トップランカーをはじめとする最前線の冒険者には、公式の配信アカウントとは別に、プライベート用のアカウントが支給されている。常に衆目に晒される立場への配慮だ。私も普段の公式アカウントとは別に、プライベートアカウントを持っている。
登録名は「ひかりん」。
ユイに「何その名前」と笑われたけど、気に入っているから変えていない。
プライベートアカウントでログインして、配信一覧を眺めた。深夜だから、ほとんどの配信は終了している。人気配信者のアーカイブがいくつか並んでいるだけで、リアルタイムの配信はほぼない。
——と、一つだけ、ライブ配信の表示が光っていた。
「こんな夜中にダンジョンにいる子がいる……誰だろう」
配信者名は「カイ」。視聴者数は0。階層表示は第1層。
第1層。初心者中の初心者だ。しかもこんな深夜に、一人で。視聴者ゼロ。
なんとなく気になって、配信をタップした。
壁に映し出されたのは、薄暗いダンジョンの通路と、その真ん中に立っている少年の姿だった。
年は私より少し下くらいだろうか。鉄の剣を持って、革鎧を着て、一人で第1層を進んでいる。表情はカメラ越しにもはっきり見えた。緊張と、それからどこかわくわくしたような目。
「一人で潜ってるこの子。危ないな……」
見ていると、通路の先にスライムが現れた。少年が剣を構えて踏み込む。
——空振り。
思いきり振った剣が地面を叩いて、スライムには一ミリも当たっていない。直後にスライムの体当たりを横腹にもらって、少年がよろめく。
「あー……」
思わず声が出た。全然当たっていない。何度振っても当たらない。スライムはぷるぷる動いているだけなのに、少年の剣は全てその横を素通りしていく。
見ているうちに、ふっと笑いがこぼれた。
懐かしい。
私も同じだった。師匠から一閃流の型を叩き込まれて、「よし、お前はもう十分だ。一人でダンジョンに行ってこい」と送り出された日。
自信満々で第1層に踏み込んで、最初のスライムに一発も当てられなかった。型は完璧に入る。でも、動く相手に合わせる経験がまるでなかった。
あの時の私と、画面の中のこの少年が重なった。
少年は何度も何度も剣を振って、何度も何度もスライムに弾かれて、最後にはやけくそみたいな大振りでようやくスライムを倒した。壁にもたれかかって、荒い息をついている。ボロボロの姿。
「……頑張ったね、この子」
画面の中の少年が、ぼんやりと配信画面を眺めているのが見えた。何かに気づいたような顔をしている。
——あ。
私が見始めたから、視聴者数が0から1に変わったんだ。
少年が画面を見つめている。「見られてるのかな」というような、不思議そうな顔。
どうしよう。何か打った方がいいのかな。でも何を打てばいいのか分からない。コメントなんて打ったことがない。私はいつも打たれる側で——。
指が勝手に動いていた。
ひかりん:こ、こ、こんばんわ!!!!
打ってから気づいた。びっくりマーク四つ。「こ」が三回。なんだこれは。緊張しすぎて指が震えたせいだ。
画面の中の少年が、一瞬きょとんとした後、口を開いた。
『こ、こんばんは!』
声が裏返っていた。
……ふふ。
そこから会話が始まった。少年——カイは、素直で、少しおっちょこちょいで、でも目がきらきらしていた。昼間に何かあって夜に来たらしい。一人で来ているのは危ないと伝えたら、「今すごく実感してます」と苦笑いしていた。
再びスライムが現れて、カイが戦い始めた。また当たらない。でも、さっきよりは少しだけ動きが良くなっている気がする。スライムの体当たりを避けようとしている。避けきれずに食らっているけど、さっきみたいに棒立ちじゃない。
見ていて思った。
この子、私と型が似ている。
剣の振り方に、素人にはない芯がある。力任せに振っているように見えて、振りかぶる瞬間の体の使い方がきちんとしている。基礎がある。しっかりとした基礎が。でも、動く相手への対応だけが致命的に欠けている。
まるで——型だけを何年も練習してきたような。
私と、同じだ。
カイがまたやけくその大振りでスライムを倒した。壁にもたれて「悔しいな」と呟いている。
私の胸の中で、何かが動いた。
アドバイスしてみようかな。
そう思った瞬間、古い記憶がよぎった。
一閃流を継承してから、私に教えを請う者は何人もいた。みんな「勇者に直接指導してもらえる」と目を輝かせてやってきた。私は師匠にそうしてもらったように、自分の感覚をそのまま伝えようとした。
「ここでシャッて踏み込んで、相手がグッて来たらフワッて避けて、そこからスパーンって——」
全員、同じ顔をした。困惑。そして、申し訳なさそうな笑顔。
「すみません、ちょっと分からなくて……」
誰一人として、私の言葉を理解できなかった。
師匠から受け継いだ感覚は、私の中では鮮明に生きている。でもそれを言葉にすると、擬音になる。師匠がそうだったように、私もそうだった。そしてその擬音は、誰にも届かなかった。
一人去り、二人去り、やがて私に教えを請う者はいなくなった。
「最強」は、「孤独」と同じ意味だった。
……でも。
画面の中のカイを見つめた。ボロボロで、息を切らして、それでも目の光が消えていない少年。
この子なら——と思ったわけじゃない。期待なんてしていない。また「分かりません」と言われるだけかもしれない。でも、言わずにはいられなかった。
ひかりん:あのさ
指が止まった。
ひかりん:その
また止まった。言い出しにくい。「分かりません」と言われるのが怖い。でも。
ひかりん:アドバイスとかしてもいいですか
打ち終わってから、心臓がうるさいことに気づいた。
画面の中のカイが、目を見開いた。
『本当ですか!? ありがたいです! お願いします!』
……え。
即答だった。迷いなく、目を輝かせて、全力で喜んでいる。
この子ならもしかして……と、淡い期待を抱いてしまった。
胸の奥がじんわりと温かくなった。その感覚に戸惑いながら、私はコメントを打ち始めた。
スライムの動きについて。体がピュッと縮む瞬間。そこからシャッと避けて、シュッと踏み込んで、スパンッと斬る。私にしか分からない、私の最大限のアドバイス。
全部打ち終わって、画面を見た。
カイが固まっていた。
やっぱり。分からなかったか。
そうだよね。誰だって分からない。私の言葉は、誰にも——。
『よし——やってみます!』
カイが立ち上がった。
壁から背中を離して、通路の奥に向かって歩き出した。
……え? やってみる? 本当に?
画面を食い入るように見つめた。カイがスライムと対峙している。剣を構えて、動かない。待っている。スライムの体が縮んだ瞬間——カイが横に跳んだ。
避けた。
タイミングが——合っている。
ピュッの瞬間にシャッと動いた。私が言った通りに。
そしてスライムが着地した瞬間、カイが踏み込んだ。シュッ。剣を振った。スパンッ。
——当たった。
かすっただけだった。完璧じゃなかった。でも、当たった。私の言葉が。擬音が。初めて、誰かに届いた。
ひかりん:すごい
指が震えた。
ひかりん:すごいすごい!!!!
ひかりん:今の、ちゃんとできてた!!!!
止まらなかった。思ったことが全部指から溢れ出していく。落ち着こうとしたけど無理だった。
画面の中のカイが照れくさそうに「言われた通りにやってみました」と言っている。
言われた通りにやった。それだけ。でも、「それだけ」ができる人間が今まで一人もいなかったのだ。私の感覚を聞いて、体で理解して、その場で実行した。初めてだった。世界で初めて、私の言葉が誰かに届いた。
それから一時間。
私は一度もベッドに戻らなかった。
画面の前に座り込んで、カイの配信を見続けた。スライムが来るたびにアドバイスを打ち、カイがそれを実行するのを見て、また次のアドバイスを打つ。カイの動きはみるみるうちに良くなっていった。
最初はかすっていただけの攻撃が、正面から捉えるようになり、二匹同時でも対処できるようになり、途中からは私がコメントを打つ前に体が動いていた。
一時間前にスライム一匹に負けていた少年が、今は三匹を相手にしている。
信じられない吸収速度だった。
やがてカイが「帰り方が分からない」と言い出した時は、思わず画面に向かって「嘘でしょ」と声が出た。帰還石の存在を教えて、使い方を伝えて。
ひかりん:また配信、見に来てもいい?
打ってから、少し怖くなった。迷惑かもしれない。深夜にいきなり現れて、感覚だらけのアドバイスを押し付けて。
『もちろんです! むしろお願いします!』
……この子は、本当に。
帰還石の光がカイの体を包んで、配信が切れた。壁に投影されていた映像が消えて、部屋が暗くなった。
魔導具の灯りだけが、ぼんやりと部屋を照らしている。
ふと気づくと、窓の外が明るくなっていた。カーテンの隙間から朝日が差し込んで、部屋の床に細い光の線を引いている。
もう朝だ。一晩中起きていた。
「あの子、すごかったな」
声に出したら、口元が自然と緩んだ。
私の擬音を、理解した。一回のアドバイスで七割再現した。あんな人間、師匠以来、見たことがない。
それに——楽しかった。
誰かに自分の感覚を伝えて、それが伝わって、相手が成長していく。その過程を見ているのが、こんなに楽しいことだとは知らなかった。80層を突破した時より、ずっと胸が弾んでいる。
「また見に行こう」
ベッドに倒れ込んだ。さっきまで眠れなかったのが嘘のように、まぶたが重くなっていく。
国民の期待も、英雄幻想も、明日の予定も、今だけは遠くに感じた。
頭の中にあるのは、薄暗いダンジョンの中で「よし、やってみます!」と目を輝かせた少年の姿だけだった。
リーナは穏やかな笑顔のまま、眠りに落ちた。




