撤退
東方正帝アレクシオスは去ったが、混沌はむしろ深まるばかり。この場を誰が取り仕切るべきかすらわからず、名目上は巨大な権力を持つ元老院議員は大して役に立たず、まるで主賓がいないパーティ会場のような有様である。
そんな中、一人の貴族――ラエティア大公が声を上げた。ラエティア大公はフランク公に次いで北方帝領第三の諸侯である。
「その影武者、いかに処分するのかな? この場で殺してしまった方がよいのではないか?」
――あえて混乱を広げようとしているのか? 相変わらずクソみたいな発想の一族だな。
ヴィルヘルミナが魔王であった時、土壇場で彼女を裏切った大貴族の一つがラエティア公である。
「そうだ! 皇帝を僭称する大罪人など殺してしまえ!」
「その下賤の者を殺せ!」
ラエティア大公に扇動された一部の貴族が自らの兵を差し向けた。大公自身は特に兵を動かさないのも姑息である。皇太子フリードリヒは静観しており、皇弟リヒャルトは止めに入ったが、諸侯は言うことを聞く気もなさそうである。
――さすがに私の出番かな。
ヴィルヘルミナは影武者の前に立った。そして両手の爪を思いっきり伸ばし、左右から迫る数十の兵に向けた。
「この男を殺そうというのなら、私が相手だ。私と戦う気があるのなら、掛かってくるといい」
ヴィルヘルミナは不気味な笑顔を浮かべながら兵らを脅す。
「これについては、私も同意見です」
グレーテルも魔法で槍を作り出した。ヴィルヘルミナとグレーテルは示し合わせることもなく背中合わせになって、敵を牽制する。
「たった二人……!」
「やめとけ! 殺されるぞ!」
勇ましくヴィルヘルミナに斬りかかろうとする者もいたが、周囲の同僚にことごとく止められた。ウティウムを一晩で落とした化け物たちを前にして、殺し合いが始まることはなかった。
「大体、罪があるというなら皇帝家の方だろう。積極的に君達を騙してたのは皇帝家なんだし」
「……ヴィルヘルミナ様?」
グレーテルが反論しようとするが、皇弟リヒャルトが先に言葉を発した。
「左様。罪があるのは我らの方じゃ。その者に罪はない。殺すなら儂を殺せ」
――影武者を守るか。随分と真っ当な人間だ。
皇弟リヒャルトの地位は宙に浮いているものの、さすがに彼に手を出そうとする者はいなかった。畢竟、事態は急速に沈静化に向かった。
「それで、彼のことはどう扱うつもりなんだい?」
ヴィルヘルミナはリヒャルトに問う。
「当家に大いなる貢献をしてくれたのじゃ。褒美を与えるに決まっておろう」
「俺は褒美なんていらないが」
「黙って受け取れ。後は自由に生きるといい」
「……わかった」
影武者はリヒャルトの手勢に護衛されながらパンテオンを後にした。彼の仕事は完全に終わったのである。
しかし、これから一体どうするべきか。戴冠する者がいないのでは戴冠式を続行することはできない。
「こ、この場はひとまず、解散としよう!」
ヴィアドルス宮中伯が意を決して提案した。
「解散して、その後はどうするというのですか?」
ポメレニア辺境伯が問う。
「ま、まずは、有力諸侯を集めて方針を決めるべきであろう」
「宮中伯殿下が仕切ってくださるのですか?」
「あ、ああ、そのつもりだが」
「それならばありがたい。宮中伯殿下であれば、文句のある諸侯はいないでしょう」
辺境伯の即興の芝居であったが、案外効果があった。宮中伯というのは皇帝家が地方に派遣した監視役であって、名目上の地位は単なる諸侯より一段高い。宮中伯で存続しているのはこのヴィアドルス宮中伯だけである。それに加え、面倒なことはしたくない諸侯が大半であった。
戴冠式は取り止め、解散となった。翌日、ヴィアドルス宮中伯は選抜した大貴族を招集して会議を開いた。
○
「――で、どうだった?」
会議から戻ってきたポメレニア辺境伯にヴィルヘルミナは尋ねる。
「至って平凡な結論しか出ませんでした。決まったことと言えば、レムリアから直ちに引き上げることと、ウィンドボナに全ての諸侯を集めて、改めて会議を行うことだけです」
と、辺境伯はすっかり疲れ果てた様子で溜息を吐いた。
「疲れてるのかい?」
「ええ、まあ。それ以外に選択肢がないことを名目的に確認しただけですから。リヒャルト殿下に帝位を授けるべきという者もいましたが、数が少なすぎて意見が通ることはありませんでした」
議論に疲れたというより、退屈に長時間付き合わされて疲れたのであった。
「無事に帰れるのでしょうか……」
ヴェロニカが不安そうに言う。
「ランゴバルド王国が裏切りでもしない限りは、問題ないだろう」
「北方帝領の諸侯の大部分がレムリアにいるわけだけど」
「そこを狙ってくる、かもしれないですね……」
もしもここで北方帝領の軍勢を壊滅させられれば、北方帝領はいよいよ大混乱に陥るだろう。西方帝領の諸国にとってはさぞ魅力的な展開であるに違いない。




