霧になる魔法の真価
「ゲルトルート、ノエルの倫理観がこんなに終わってるのは、厳しい教育を受けたせいなのかな?」
「うむ。それほど鮮明には見えぬが、それ以前はまともな人間だったようだ」
「なるほどねぇ……」
――つまり私のせいじゃないか。最初からそんな弊害があったとは。
少なくとも魔王領の初期において、ヴィルヘルミナは非常に善政を敷いたはずである。人間の歴史書にも、魔王の統治は徐々に暴政に変化していったと記録されている。それでもなお、社会を急速に変化させた以上、こうした歪みが生じることは避け得なかった。
「こいつは殺すべきだ。貴様もそう思うだろう?」
「でも、彼女は別に殺人を楽しんでるってわけじゃないんだろう?」
「そうではあるが、しかし、人を殺すことに対して全く罪悪感を持っておらぬ」
「ちゃんと血をあげれば、わざわざ人を殺すことはないんじゃないかな?」
ノエルは歪んでいるが、彼女の殺人はあくまで血が欲しかったからに過ぎない。面倒臭がり屋であるからには、何もせず血を与えてくれる相手と敵対するとは考えにくい。
「こいつの気が変わるやもしれぬ。そしてその時、こいつは誰を殺すことも躊躇せぬ。話が通じぬ分、ヘルムートよりタチが悪い」
「そうかい? さすがにそうは思わないけど」
「あいつは自分に利があるとなれば交渉にも応じるだろうが、こいつは気まぐれに人を殺しかねん」
「まあ、それには同感なところもあるけど……」
確かに、生かしておくべき存在ではないのかもしれない。しかしノエルがこうなっている原因の一端がヴィルヘルミナにある以上、ヴィルヘルミナは直ちに排除するとは言えなかった。その優柔不断な態度にゲルトルートは我慢ならなくなったようだ。
「貴様にやる気がないのなら、私がやるまで。殺させてもらうぞ」
「あ、ちょっと……」
石の寝台に横たわるノエルに、ゲルトルートはサーベルを構えてズカズカと近づく。そして彼女の心臓に向けて、そのサーベルを振り落とした。
「ッ……。やはりな」
その剣先は刺さらなかった。いや、そこには何もなかったのである。ただ丈夫な岩石だけがあり、サーベルは硬い音を立てて弾き返された。ノエルは一瞬にして霧になったのである。
「私は死にたくはないんだ。やめてくれよ」
ゲルトルートの背後にノエルが欠伸をしながら立っていた。擬似的に瞬間移動のような真似もできるらしい。ヴィルヘルミナはゲルトルートの後ろから少し離れて観察していたが、ノエルの能力に大きな脅威を感じていた。
「霧が見えなかった。ヘルムートたちは赤黒い霧が見えたが、君は完全に透明だ」
「見えたら逃げられないでしょ?」
「確かに。それはそうだ」
血族の始祖たる彼女は、やはり格別の力を持っている。彼女が霧になっている間、それを視認することは不可能なのだ。
「だからどうした!」
ゲルトルートは振り向きざまに背後のノエルにナイルを投げつけたが、命中する寸前にまたしても消えてしまった。次に現れた彼女は、挑発するようにゲルトルートの目の前のベッドに横たわっている。
「ゲルトルート、普通に攻撃しても無駄だ」
「クッ……。面倒な奴め」
「私を殺したいの?」
「もちろんだ。お前は死ぬべきなのだ」
「そう。なら、殺してもいいよね」
「消えた……!」
ノエルが姿を消した。ヴィルヘルミナもゲルトルートも強い吸血鬼の気配は感じるが、どこにいるか正確な位置までは掴めない。ゲルトルートはサーベルを構えて四方を警戒し、敵の位置を探っていたが、それは一瞬のことであった。
「ゲルトルート!」
「ッ……!?」
ゲルトルートの胸元から長い爪が生えていた。背後に立つゲルトルートの爪が、ゲルトルートの心臓を貫いたのである。
「このッ……!」
ゲルトルートは即座に自分の腹をサーベルで突き刺した。自分ごとノエルを貫いたのである。ノエルはゲルトルートから飛び退き、その傷をすぐさま癒した。
――傷を治す必要はあるってことか?
「あれ。心臓を確実に刺したはずなのに」
「生憎だな。心臓を刺された程度で私は死なん。そいつもだが」
「面倒臭いね」
「こっちの台詞だ!」
ゲルトルートに睨みつけられながら、ノエルは自分の爪に付着したゲルトルートの血を舐め取った。
「何をしている」
「ふーん。あなたは始祖を食べたんだ。記憶を読む力は、食べた相手由来だね」
「それがどうした?」
「面白いだけ。そっちのあなたも気になるな」
ノエルの目に光が宿った。ゲルトルートやヴィルヘルミナの過去は、ノエルにとって興味を引くものだったらしい。
「いやいや、ちょっと?」
「血をもらう」
ノエルは再び姿を隠した。
「ぐッ……」
次に現れた時には、背後から爪でヴィルヘルミナの首を貫いていた。ヴィルヘルミナは全く反応できなかった。
しかし、心臓を狙わなかったということは、彼女なりに殺す気はないという意思表示であろう。ヴィルヘルミナは特に反撃することはなかった。首の損傷などすぐに回復する。
「で、私の血の感想は?」
「あなたも始祖を食べたの? でも、血の種類が一つしかない。自分の血族の始祖を食べたんだね」
「へえ……。わずかな血でそこまでわかるとは、やはり血族の始祖を侮るべきではないね」
ヴィルヘルミナは始祖に近い力を持っているとは言え、本物の始祖ではない。その実物を目の前にして、冷や汗をかいていた。




