第9話 黒い部屋
モスクワへの到着を果たした翌日より、アンハルト=ツェルプスト公妃ヨハンナは、息つく暇もない激務に追われることとなった。
次期皇太子妃の生母という至高の地位に近づき、その知遇を得んとする名門門閥貴族らの参内が相次ぎ、宮殿の接見の間は連日、押し寄せる人波で埋め尽くされたためである。
しかしながら、この狂騒において最も凄まじい執念を見せたのは、本国政府から一刻も早い情勢報告と工作を厳命されていた諸国の外交使節団であった。
各国の公使や書記官たちは、夜明け前のファセッツ宮殿(多面体宮殿)の前に長蛇の列をなし、少しでも早い接見順を勝ち取ろうと血眼になった。
その執拗な序列争いは、莫大な賄賂の応酬にとどまらず、時には外交官としての体面を投げ打った腕力沙汰へと発展し、宮殿近衛兵によって強制排除される者すら出す始末であった。
この混沌たる宮廷闘争の最前列を占めていたのが、プロイセン王国公使アクセル・フォン・マルデフェルトである。
当時、若き君主フリードリヒ2世の指導下で急速に台頭しつつあったプロイセンの国力を背景に、彼は惜しみない金品の供与をもって最優先の接見権を掌握していた。
マルデフェルトもまた、主君より極秘の王命を帯びていたのである。
当時、ロシア帝国の外交を主導していた副宰相アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミンは、徹頭徹尾「反プロイセン・親オーストリア」の立場を堅持していた。
彼はフリードリヒ2世の拡張野心をロシア最大の脅威と見なしており、ロシア廷内からプロイセン派を一掃しようと動いていた。
これに対し、フリードリヒ2世はヨハンナをロシア宮廷へと送り込み、内部からのベストゥージェフ失脚を画策する。
ヨハンナが携えていた密命の本質は、フリードリヒ2世からの巨額の工作資金の分配と、宮廷内の反ベストゥージェフ派である副大臣ヴォロンツォフ、エリザヴェータ女帝の寵臣ラズモフスキー、さらには女帝の主治医にしてフランスの工作員であったレストックらとの電撃的な連携であった。
マルデフェルト公使が金権政治の極みをもって勝ち取ったこの数分間の単独謁見こそ、その後のロシア外交を揺るがす導火線となった。
公使は人目を忍び、主君より託されたモスクワ廷内における「反ベストゥージェフ派」の最新の有力者名簿をヨハンナの手へと渡すことに成功した。
同時に、彼女へ外交戦の中心人物たる自覚を促し、プロイセン公使以外の者を決して信用せぬこと、そして宮廷工作の報告や活動資金の受け渡しは自身と直接行うことを確認したのである。
これによってプロイセンの手先たるヨハンナを最高権力層へと直接媒介し、ロシアの外交方針をプロイセン優位へと転換させるための、緊迫した暗闘の幕が切って落とされた。
直ちに、ヨハンナは手渡されたリストを基に、廷臣たちやその協力者の名前と顔を一致させる作業から着手した。
それは故郷の宮廷で外交手腕を発揮してきた彼女にとってさほど困難な作業ではなかったが、その成果を報告する「手段」に頭を悩ませることとなる。
彼女の報告をフリードリヒ2世に届けるには、マルデフェルトを通じた外交使送便(通称「外交クーリエ」)で行う手はずになっていたが、公使が彼女のもとを訪れる機会は、決して多くはなかったからである。
彼女は周囲で起きるあらゆる事象を生真面目に書き連ねていったが、肝心の報告書は手元に溜まってゆく一方であった。
困り果てたヨハンナは、ついに一般の郵便にその報告を託すという暴挙に出る。
だが決して油断していたわけではなかった。
彼女は素人なりに、事前に渡されていた暗号書の一部を活用して文面を作成した。
書かれている内容は、彼女が見聞きした宮廷の取るに足らない日常の雑記にすぎず、万一何者かに検閲されたとしても、いくらでも言い逃れができる代物であった。
投函から数日が経過しても何事もなく過ぎ去ったことで、彼女は秘密が完全に保たれたと盲信してしまう。
以降、日記さながらの雑多な報告を平然と手紙に綴るようになるが、その断片的な日常の記録こそが、老練なアナリストの手にかかれば一国の情勢を暴露する一級の機密情報に化けるという事実にまで、彼女の知慮が至ることはなかった。
ゾフィーは、母が毎日のように黙々と手紙を認める姿を目撃していた。
時にはその文面をすぐ傍らで目にする機会すらあったが、当時の彼女がそこに不審な点を見出すことは微塵もなかった。
母が綴る文字は、ただの異国の日常の出来事にしか見えなかったからである。
その一見して無害な手紙の数々が、やがて自分たちの運命を破滅の淵へと追い詰める決定的な証拠になろうとは、若きゾフィーもまた、知る由もなかった。
だが、この手紙の往来は、ロシア宮廷が誇る防諜網、通称「黒い部屋」にすべて筒抜けであった。
彼らの監視網は、一般の郵便物はもとより、一部の諸国が放つ外交クーリエの懐にまでその暗手を伸ばしていたのである。
防諜のプロたちにとって、ヨハンナが完璧だと信じ込んでいた偽装など、子供騙しの悪あがきにすぎなかった。
彼らは歓喜の笑みを浮かべながら、彼女が必死に隠蔽したつもりの手紙を秘密裏に押収しては精巧に複写し、瞬く間にその不完全な暗号を解読していった。
哀れな公妃が自ら罠に飛び込んでいく様を、彼らはただ闇の中から冷ややかに見下ろしていたのである。
彼らは、泳がせているヨハンナを直ちに逮捕するというような愚挙には出なかった。
「黒い部屋」、そしてその後ろに控える宰相ベストゥージェフの真の狙いは、単なる異国の公妃の排除ではない。
彼女を陰で操り、ロシア宮廷を転覆させんとするプロイセン公使マルデフェルトをはじめとする、巨悪の「尻尾」を完全に掴み、一網打尽に引きずり出すことにあったからである。
獲物がさらに深く泥沼へ足を踏み入れるのを、網を仕掛けた猟師たちは息を潜めて待ち構えていたのであった。
一向にヨハンナからの情勢報告が上がってこないことを、マルデフェルトは不審に思い始めていた。
追加の工作資金を手渡す際、彼女を問い質した公使に対し、ヨハンナは「報告ならとうに送っている」と言い張った。
腑に落ちないマルデフェルトが、その詳細を厳しく追及すると、彼女は、自分が見聞きした宮廷の日常を日記のように書き連ねて郵送したのだと、悪びれもせずに反論した。
この告白に、マルデフェルトはそれ以上の強い言葉で彼女を糾弾することができなかった。
というのも、彼自身もまた、国家の根幹に関わらないような些末な日常の雑記については、慣例的に一般郵便を利用していたからである。
プロイセン側もまた、ロシアの防諜網を侮っていたのだ。
結局、マルデフェルトは「今後は、いかに子細な事柄であっても必ず自分を通すように」と釘を刺すに留め、この不可解な事の顛末を、本国の主君フリードリヒ2世へと報告せざるを得なかった。
マルデフェルトからの暗澹たる報告を受け取ったプロイセン王フリードリヒ2世は、激しい衝撃に突き動かされた。
彼はすぐさま、これまでロシアから届いたヨハンナからの書簡をすべて手元に集めさせ、その消印を狂ったように調べ直した。
そして、公使の報告通り、それらがすべて厳重な外交使送便ではなく、無防備極まる一般郵便で送られていたという驚愕の事実を、己の目で確認したのである。
フリードリヒは、自嘲気味にこう呟いたという。
「聡明と聞いていたのだがな……いささか過大評価であったか」
しかし、稀代の天才君主は、そこから何の手も打たなかった。
否、打つことができなかったのだ。
すでにロシアの「黒い部屋」にすべてを掌握されている以上、これ以上あの愚鈍な公妃に関わり続けることは、プロイセン王国、そしてフリードリヒ自身の破滅を意味していた。
ここに及び、フリードリヒ2世は冷徹な決断を下す。
ヨハンナを「死に駒」として切り捨てることに決めたのだ。
以降、プロイセン側から彼女への連絡は、完全に、そして永久に途絶えることとなったのである。
結婚式に向けて妃教育に苦闘するゾフィーに恐ろしい病魔が忍び寄る。
第10話「忍び寄る病魔」
☆ネタバレコーナー
外交官たちの腕力沙汰とマルデフェルトが列の先頭であったというのは完全にフィクションです。




