第10話 忍び寄る病魔
母ヨハンナが娘の未来のために外で血の滲むような交渉を重ねているその時、ゾフィー・フォン・アンハルト・ツェルプストもまた、女帝エリザヴェータから課せられた過酷な試練の渦中で、一人もがいていた。
女帝が用意した教師陣は、当代一流の最高峰であった。
皇太子の信仰教育を担う聡明な修道士シモン・トドールスキーと、フランスの洗練をもたらす高名なバレエマスター、ジャン・バティスト・ランデ。
そして、科学アカデミーの碩学たるロシア語教師ワシーリー・アダドゥーロフ。
それはロシア皇太子妃となる者に求められる、絶対的な義務としての教育の始まりであった。
しかし、宮廷が期待した「完璧な妃」の偶像は、厳しい現実の前に揺らぎ始める。
ゾフィーの天性の音楽的才能のなさは致命的で、天才ランデがどれほど根気強くステップを教え込もうとも、彼女の身体は優雅なリズムを刻むことをひたすらに拒み、ついに名匠ですら、その不器用さに内心で匙を投げてしまった。
さらに、彼女にとって未知の言語であるロシア語は、彼女の前に巨大な壁として立ちはだかった。
独特の発音と巻き舌に彼女の舌は追いつかず、この異国の言葉は終生、彼女の口から抜け落ちない頑固なドイツ語訛りとして残ることになる。
また、後年の彼女の書簡を悩ませる幼児のようなスペルミスの端緒は、すでにこの時に現れていた。
だが、これらは後に待ち受ける「最大の試練」の序曲に過ぎなかった。
正教への改宗。
それは、ゾフィーが真にロシアの人間となるための不可欠な通過儀礼であり、その儀式の頂点に君臨するのが、大衆の前での「信仰告白」の詠唱であった。
手渡された羊皮紙に並ぶ、果てしない長文のロシア語。
それを見た瞬間、張り詰めていた十四歳の少女の心は折れ、トドールスキーの前で涙を流した。
「――私には無理です、このようなもの、とても……」
トドールスキーは静かに、しかし拒絶を許さぬ重みをもって諭した。
「これは、あなたの夫となるピョートル殿下も通られた道にございます。殿下は、一言の淀みもなく、見事にこれを唱え上げられました。若き姫君であれば、必ずや成し遂げられましょう」
その言葉は、のちに作られた「暗愚な夫」のイメージとは裏腹に、正教の儀礼を完璧にこなした若き皇太子の厳然たる事実を告げていた。
母にこれ以上の心配をかけたくない、そして何よりロシアに受け入れられたいと願うゾフィーに対し、トドールスキーは付きっきりでの猛特訓を開始する。
この信仰告白とは、単なる文章の朗読ではなかった。
それは約十五分間にも及ぶ、ゆったりとした独特の旋律と音階を持つ、一種の宗教的歌唱である。
改宗者は、堂内に響く音楽のリズムと、脇に控える司祭たちの祈りに支えられながら、意味も分からぬままその神聖な言葉の波を口ずさまねばならない。
それは例えるなら、楽譜も読めずドイツ語の知識もない市井の人々が、年末の合唱団で第九の『歓喜の歌』を流暢な発音で完璧に歌うがごときである。
まだ十四歳という記憶力の盛んな年代であれば、数ヶ月の猛訓練で未知の楽曲を暗記することは、決して不可能な技ではないはずだった。
しかし、音楽的才能に恵まれず、語学の壁に苦しむ不器用なゾフィーにとって、それは己の限界を超えるほどの難題であった。
「お母様は私のためにあんなに頑張ってくださっている。ピョートル殿下にできて、自分にできないはずがない」
母の深い愛に応えたい一心と、失敗すればすべてが水泡に帰すという恐怖から、ゾフィーは狂気とも言える努力に身を投じる。
夜半、宮殿のすべての灯火が消え、暖炉の薪が灰となって室内の気温が急速に落ち込んでいく中、彼女は一人ベッドの上に起き上がり、凍える手で告白文を握りしめていた。
娘の体を気遣ってヨハンナが掛けてくれた厚手の毛布にくるまりながら、冷え切った空気の中で、白い息とともに、意味の通じないロシア語の旋律を幾度も、幾度も呟き続ける。
寝室の床から這い上がるロシアの容赦ない冬の冷気は、確実に少女の身体を蝕んでいった。
そしてある朝、ゾフィーは激しい熱と咳の中に崩れ落ちる。
それは、のちに彼女を死の淵まで追いつめ、母ヨハンナを狂乱のほどの狼狽と悲しみに突き落とすことになる、恐るべき胸膜炎の始まりであった。
この危機に際し、女帝の動きは迅速であった。
エリザヴェータは即座に宮廷の最高医務責任者であるヘルマン・カウ=ブールハーフェを筆頭に、選び抜かれた御医たちをゾフィーの寝室へと派遣した。
室内が悲痛な空気と熱気に包まれる中、医師たちの意見は真っ二つに割れる。
容体があまりに重篤であるため、当時の万能薬とされた「瀉血」を行うべきか否か、誰もが責任を恐れて躊躇したのである。
動転した母ヨハンナもまた、娘の細い腕から血を抜くという恐ろしい治療法に狂乱し、医師たちを激しく拒絶した。
その膠着状態を破ったのが、名医アントニオ・サンチェスであった。
彼は女帝の厳命と自身の知識を背に、ヨハンナを厳しく退け、ゾフィーの腕にメスを当てた。
それは実に、エカチェリーナの回顧録に記された十六回にも及ぶ過酷な瀉血の始まりであった。
当時、一回の瀉血で失われる血液は、三百から四百ミリリットル。
それを十六回も繰り返すということは、総量にして五リットルを優に超える血を抜き取ることを意味していた。
一般の成人女性であっても、体内の血液総量はおよそ四リットルに過ぎない。
ましてや、未だ十四歳の華奢な少女の身体に流れる血など、それより遥かに少ないはずであった。
巨躯を誇る剛健な近衛兵であればいざ知らず、病魔に喘ぎ、衰弱しきった少女からこれほどの血を搾り取るという行為は、医学の大義名分を借りた、ショック死を招きかねない暴挙に等しかった。
「これ以上は、この姫君の命を奪う人殺しの所業だ!」
激しく反対を続ける最高医務責任者ヘルマン・カウ=ブールハーフェ、そして半狂乱となって立ち塞がる母ヨハンナ。
一歩も引かぬ二人の前に、サンチェスは苦渋に満ちた表情を浮かべながらも、現実的な提案を囁いた。
女帝エリザヴェータからの厳命に背くことは、このロシアの宮廷においては即座に破滅を意味する。
どれほど危険であろうとも、治療を止めるという選択肢は最初から存在しないのだ。
ならば、命令に従ったという「事実」を偽装するほかに道はない。
サンチェスは、カウ=ブールハーフェとヨハンナに鋭い視線を送り、声を潜めた。
そして彼はゾフィーの細い腕に、刃先でほんの僅かな傷をつけ、そこからじんわりと滲み出る血液を大袈裟に拭い取ると、これを「無事に瀉血を執り行った証拠」とすることにしたのである。
表面上は女帝の命令通りに過酷な治療が続けられているように見せかけながら、裏では少女の命の灯火を守る――。
ロシア宮廷の厳罰を恐れぬ医師たちの決死の機転と、娘の命を救いたい母親の沈黙によって、この前代未聞の偽装工作は、薄暗い病室の中で静かに、しかし完璧に遂行されたのだった。
女帝エリザヴェータは、目に見えて動揺する皇太子ピョートルを伴い、幾度となく意識不明に陥っているゾフィーの病床を見舞った。
女帝の鋭い視線が注がれるその度に、サンチェスをはじめとする医師らは、少女の細い腕にこれでもかと大袈裟な包帯を巻きつけ、血の一滴すら抜いていないという瀉血の欺瞞を、完璧に隠し通してみせた。
張り詰めた偽装の空間の中で、医師たちと母ヨハンナは、女帝を欺く共犯者として冷や汗を流し続けていたのである。
――しかし後年、この生死の境で起きた出来事は、勝者の歴史によって奇妙な歪みを加えられることになる。
彼女は、意識混濁のなかでルター派の牧師を呼ぼうとする母親を退け、「ロシア正教の神父を」と毅然と言い放ったという。
若き日の彼女が、すでに魂のレベルでロシアの母となる宿命を受け入れていたことを示す、完璧な「神話」の誕生である。
だが、この感動的なエピソードを歴史の光にかざしたとき、そこには奇妙な歪みが浮かび上がる。
昏睡状態にあったはずの患者が、にわかに覚醒して宮廷の権力構造を配慮した政治的セリフを理路整然と口にするなど、およそ人間の肉体の営みとしては不自然極まりない。
なぜ、このような無理のある物語が紡がれたのか。
その答えは、彼女がこの『回顧録』を執筆した「目的」にある。
純粋なドイツ人でありながら、クーデターという強硬手段で夫から帝位を奪い取ったエカチェリーナにとって、自らの統治の正当化は生涯の課題であった。
「私はロシアに来た最初の瞬間から、己を捨ててロシアに殉じる覚悟だった」
――老練な政治家となった彼女は、後年になって、自身の過去を都合よく、そして劇的に書き換えたのである。
おそらく実際の現場では、周囲のロシア人側近たちが政治的判断から正教の聖職者を呼び、彼女はただ若さと幸運によって病を生き延びたに過ぎないのだろう。
これほどあからさまな自己演出でありながら、なぜ後世の歴史家たちは長きにわたり、この物語を「一級の真実」として盲信してしまったのか。
そこには、もう一人の仕掛け人がいた。
エカチェリーナの死後、国家最高機密としてロシア宮廷の奥深くに封印されていたこの『回顧録』の写本を入手し、一八五九年にロンドンで極秘に出版した人物。
それこそが、ロマノフ朝の専制を激しく糾弾していた亡命革命家、アレクサンドル・ヘルツェンであった。
「反体制の英雄が、皇帝一族の闇を暴いた禁断の書」
このセンセーショナルな舞台装置が、西欧の知識人たちの目を曇らせた。
帝政ロシアを貶めたいヘルツェンにとって、エカチェリーナが己を正当化するために誇張した「宮廷の愚行」や「凄惨な描写」は、そのまま専制政治の異常性を告発する格好の武器となったのである。
ロシア政府が慌てて国内で発禁処分にしたことも、逆説的に「これこそ隠された真実だ」という神話を補強することになった。
独裁者が遺した周到な自己弁護の嘘が、百年の時を経て反体制の闘士の手により「真実の告発」へとロンダリングされる。
エカチェリーナ2世が仕掛けたプロパガンダの罠は、彼女の想像を超えた形で世界の歴史記述を欺き続けることに成功したのである。
さらにプロイセンを出立する際、叔父から贈られた金糸の編み込まれた美しい青い布地を、高熱に苦しむ自分から、母ヨハンナが力ずくで強奪しようとした、というエピソードがある。
我が子の命よりも私欲を優先する、冷酷な母親――。
だが、奇妙なことに、当時ゾフィーの枕元に付きっきりであった侍女や女たちの証言や記録からは、そのような諍いの形跡は、全く見つかっていない。
果たして事実はどうであったのか。
今となっては、誰の目にも触れることができない、闇に伏せられた沈黙の歴史である。
無事信仰告白を終え、「エカチェリーナ」名を変えたゾフィー。二人の心が交叉するひとときが、そこには存在した。
第11話「仄見える光」
☆ネタバレコーナー
瀉血は、事実何度か行われたようです。
このエピソードにおいてもエカチェリーナの医学知識が極めてお粗末であったのかを窺い知ることが出来ます。
自分が生き残るためとはいえ、回顧録で実の母親をあしざまに扱うエカチェリーナの人間性は、果たして如何なものなのでしょうか。




