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第11話 仄見える光

 ヨハンナや医師たちの、瀉血《しゃけつ》という暴挙を伴わない必死の治療――命がけの偽装工作と献身によって、ゾフィーは辛うじてその若い命を取り留めた。

 危機を脱し、少女の頬に微かな赤みが戻った時、病室を支配していた張り詰めた緊張は、安堵へと変わる。

 ゾフィーの生還を知らされた女帝エリザヴェータと皇太子ピョートルは、一様に深く胸を撫でおろした。

 女帝は即座に、この未曾有の危機の中で奮闘したサンチェスら医師団、そして不眠不休で看病にあたった侍女たちへ、その功を労う惜しみない恩賞を与えた。

 それは宮廷の主たる者の度量を示すと同時に、花嫁の危機を救った者たちへの、偽りのない安堵の表明でもあった。

 さらに女帝は、大病を患い、以前にも増して痛々しいほどやせ衰えてしまったゾフィーの姿に、宮廷の御用職人たちを急ぎ召集する。

 そしてその体に合わせて、改宗の儀にまとう純白の清廉なローブを急ぎ新調させた。

 世俗の虚飾を捨て、神の前に立つためのその白い衣装は、病み上がりの彼女の儚さと、内に秘めた覚悟をかえって美しく際立たせることとなる。

 職人たちの手によって仕立てられた極上の一着は、死の淵から生還した少女への労いであると同時に、やがて世界を揺るがす「ロシア皇太子妃」としての新たな産声を告げるための、輝かしい鎧でもあった。

 ようやく体力が回復し、新調されたローブに身を包んだゾフィーに対し、中断されていた皇太子妃教育が再開された。

 だが、その講義の空気は以前とは一変していた。

 少女を胸膜炎という死の淵へ追いやる発端を作ってしまった修道士シモン・トドールスキーは、己の過ちを深く恥じ、大いに反省していたのである。

 神に仕える身でありながら、宮廷の無言の圧力に呑まれ、一人のうら若き姫君の限界を見誤ってしまった――その悔恨は、彼を突き動かした。

 トドールスキーはかつての峻厳な態度を改め、ゾフィーの体調を最優先にした、ゆとりある教育方針へと舵を切った。

 長大なロシア語の告白文をただ闇雲に詰め込させるのではなく、その旋律が持つ意味を紐解き、彼女の心が追いつくのを待つ。

 不器用な彼女を置いてきぼりにしない、穏やかで慈愛に満ちたその指導は、病み上がりのゾフィーの張り詰めていた心を、少しずつ解きほぐしていった。


 一七四四年六月二十八日。

 陽光が降り注ぐ古都モスクワのクレムリンにおいて、荘厳かつ幻惑的な熱気に満ちたウスペンスキー大聖堂を舞台に、ゾフィーの正教改宗の儀が厳かに執り行われた。

 堂内には、重厚な法衣をまとった正教の聖職者たちはもとより、ロシアが誇る名門の門閥貴族、そして若き異国の姫君の一挙手一投足を見極めんと鋭い視線を送る諸国の外交使節団が、隙間なく席を並べていた。

 その誰もが、先だって大病を患ったばかりの少女が、正教最大の試練を乗り越えられるのか、半信半疑の目を向けていた。

 しかし、堂内に最初の旋律が響いた瞬間、彼らの予測は鮮やかに裏切られる。

 揺らめく無数の蝋燭の光の中、純白のローブに身を包んだゾフィーは、トドールスキーとともに心血を注いで磨き上げてきた長大な「信仰告白」を、かつて皇太子ピョートルがしてみせたように、一言の淀みもなく朗々と詠唱してみせたのである。

 音痴とまで言われた不器用な少女の口から、異国の言葉が美しい宗教歌となって滑らかに流れ出していく。

 それは死の淵から彼女を救い出した母ヨハンナの執念と、トドールスキーの慈愛に満ちた導きが起こした、奇跡の歌声であった。

 張り詰めていた大聖堂の空気は、やがて潮が引くように深い静寂へと変わり、次いで一様なる驚きと、激しい感動の渦へと包まれていった。

 あまりの見事さに、最前列でそれを見つめる参列者の中には、胸を打たれて涙を流す者さえいたという。


 信仰告白は一言の淀みもなく、何一つ滞りなく執り行われた。

 大聖堂を包んだ深い感動の余韻が冷めやらぬ中、少女ゾフィーは、その生涯において最も決定的な転換点――名を改める儀式へと臨んだ。

 異国の神にすべてを捧げ、ロシアの人間として新しく生まれ変わる証として、女帝エリザヴェータから新たな名が授けられる。

 ゾフィー・フォン・アンハルト=ツェルプストというドイツの古き名は剥ぎ取られ、堂内に新たな名が厳かに響き渡った。

「エカチェリーナ・アレクセーエヴナ」

 それは、女帝自身の亡き最愛の姉(ピョートルの母)であり、かつてロシアを統治した初代女帝の名でもある「エカチェリーナ」の名。

 そして、女帝エリザヴェータと同じ父親(ピョートル大帝)を持つかのような、最上級の敬意と政治的意味を内包した「アレクセーエヴナ」という父称であった。

 この瞬間、不器用で華奢だった十四歳の少女は歴史の表舞台から姿を消し、のちに大国ロシアを文字通り揺るがすことになる、若き大公妃エカチェリーナが誕生したのである。

 最前列でその姿を見つめる母ヨハンナの胸には、娘がロシアの最高権力へと一歩近づいたことへの激しい歓喜と、同時に「我が娘ゾフィー」が手の届かない異国の偶像へとなっていくことへの、母親としての微かな寂しさが去来していた。


 儀式の翌日、正式に「エカチェリーナ・アレクセーエヴナ」の名を授かり、皇太子ピョートルとの公式な婚約が発表される。

 宮殿が祝祭の歓喜に沸き立つ中、新しき大公妃となった彼女は、喧騒を離れた小部屋で一人、心地よい疲労感に身を委ねていた。

 そこへ入ってきたのは、誰あろう皇太子ピョートルである。

 エカチェリーナは、完璧な宮廷作法をもって優雅に一礼した。

「見事な詠唱だったよ、エカチェリーナ。あの信仰告白の旋律が、大聖堂のすべての人々の心に響き渡っていたのが見て取れた。私は君を妃として迎えられることを誇りに思っているんだ」

「殿下……。勿体なきお言葉でございます。ですが、私のロシア語はつたなく、お恥ずかしい限りです」

 エカチェリーナが伏し目がちに答えると、ピョートルは静かに微笑んだ。

「訛りなど、些細な問題に過ぎないよ。フランス語やドイツ語をはじめとした数多の言葉が、この宮廷内では飛び交っているだろう。あのトドールスキー師の教導の下で、これほど短期間で完璧な暗唱を成し遂げる人間は、滅多にお目にかからないと思うんだ。問題は話の内容さ。自信をもって話せばいいと思うよ」

 ピョートルは不器用な世辞を添えて彼女を称えた。

 互いにまだ十代でありながら、高度なエリート教育を受け、大国の運命を背負わされた少年と少女。宮廷の政治闘争が二人を引き裂く前の、ほんの一刹那――そこには、確かに知性と洗練、そして互いの能力への深い敬意で結ばれた、二人だけの寄り添うような心の交流《シンパシー》が存在していた。

婚儀を控える二人に暗い影が忍び寄る。

第12話 死への誘い

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