第12話 死への誘い
正教への改宗の儀を厳かに終え、宮廷全体が翌年の婚儀の準備に忙殺されていた一七四四年十二月、不穏な影が忍び寄る。
結婚を間近に控え、16歳となった皇太子ピョートルを、ロマノフ王朝を絶滅させかねない最悪の宿敵が襲う。
当時、宮廷一行は本拠地である新首都サンクトペテルブルクへの還幸のため、過酷な冬の街道を進み、中継都市ノヴゴロドへと向かっていた。
凍てつく寒さの中での長距離移動は、若き皇太子の肉体を激しく痛めつけた。
教育係ブリュンマーによる執拗な虐待とネグレクトにより、ピョートルの体は慢性的な虚弱体質という深い爪痕を負っていたのだ。
移動の最中、限界を迎えたピョートルは、麻疹に罹患した。
一時は奇跡的に回復し、ようやくノヴゴロドの街に辿り着いたのも束の間、今度はより致命的な「天然痘」を発症し、またたく間に重体に陥ってしまった。
ロシアの未来を背負う唯一の後継者の危機に、エリザヴェータ女帝は激しく動揺した。
彼女が即位する前の一七三〇年、最愛の甥であった元皇帝ピョートル2世が、わずか14歳で天然痘により急死するという悲劇を経験していたからである。
そればかりか、女帝が命がけのクーデターで手に入れた帝位を守るため、ドイツから呼び寄せた「ロマノフ家最後の男系の血を引く唯一の希望」であった彼を失えば、帝位が再び他家に奪われ、ロマノフ王朝が崩壊することを意味するのだ。
エリザヴェータは、過去に感染した経験はなく、天然痘の恐怖を極度に恐れていた。
普段の彼女は、宮廷内で天然痘の患者が出ればその同居人を4週間も立ち入り禁止にするほど、徹底した隔離策をとる潔癖ぶりであった。
しかしこの時ばかりは、自らの罹患リスクを一切顧みず、ノヴゴロドの病床へと駆けつけ、付きっきりの状態で、執念とも言える手厚い看護を続けた。
一方、まだ天然痘への免疫がなかったエカチェリーナとその母親ヨハンナは、感染拡大を防ぐため、エリザヴェータによってノヴゴロドへの立ち入りを厳しく禁じられた。
二人は宮廷の華やぎから遠く離れ、そのまま雪深いモスクワへと引き返すしかなかった。
彼女らは最悪の報せが届かぬよう、ただ息を潜め、若き婚約者の生還を神に祈る日々が始まったのである。
エリザヴェータ女帝は、かつてエカチェリーナの胸膜炎を救ったロシア宮廷の侍医アントニオ・ヌネス・リベイロ・サンチェスや、医学局長ヘルマン・カウ=ブールハーフェらを中心とする宮廷医師団、そして元主治医であり最高の政治的側近でもある枢密顧問官ジャン=アルマン・ド・レストックをノヴゴロドへ呼び寄せた。
2ヶ月近くに及ぶ医師団の文字通りの懸命な治療の末、ピョートルはようやく一命を取り留める。
そして一七四五年二月、ようやく新都の宮廷へ戻ることができたが、過酷な天然痘の後遺症は重く、彼の全身には無数の凄惨な傷跡が残り、すっかり痩せ細って、その容姿はかつてとは激変してしまっていた。
ピョートルの容体が落ち着いた頃、エカチェリーナは母親のヨハンナを伴って彼のもとを見舞った。
しかし、治療のために美しかった頭髪をすべて剃り落とされ、変わり果てた婚約者の姿を目の当たりにした二人は、あまりのショックに言葉を失ってしまう。
「あの凛々しかった婚約者は、一体どこへ行ってしまったのか……」
エカチェリーナは、目の前の過酷な現実と行く末への不安から、深い悲嘆の日々を送る。
当然、ピョートル自身も、鏡に映る傷だらけの自らの肉体に激しい動揺を隠せなかった。
しかし己の変貌に落胆する若き皇太子に対し、治療を主導したサンチェス医師は、諭すように穏やか口調でこう語りかけた。
「殿下は、あの恐ろしい病と戦い、堂々と生き抜かれたのです。この身体の傷は、死神が支配する戦場で、殿下が勝利した勇者の証にございます。一体何を恥じることがありましょうか。これからは、この病から完全に解き放たれた明るい未来が、殿下の行く道を照らすことでしょう」
この言葉は、若きピョートルの心に深く刻まれた。
のちにピョートルの良き理解者であり師でもあったシュテーリンは、自身の回顧録の中で、この再会期におけるピョートルの様子をこう書き残している。
「容姿の激変を周囲が憐れむ中、意外にも彼の表情や振る舞いは、明るく見えた」と。
一七四五年八月二十一日の朝、新首都サンクトペテルブルクは、かつてない熱気に包まれていた。
天然痘の危機を乗り越えた皇太子ピョートルと、改名を経たエカチェリーナの婚儀(婚配式)が、ついに執り行われる日の到来であった。
エリザヴェータ女帝は、この結婚式を単なる内輪の儀式とは考えていなかった。
これは欧州の列強に対し「ロマノフ王朝は健在であり、正統な後継者がここにいる」と知らしめるため、国庫を傾けんばかりの巨費を投じた、最大級の政治的デモンストレーションなのだ。
街道には豪奢な装飾が施され、百頭以上の名馬が引く壮麗な馬車が行き交い、祝砲の轟音が街を震わせる。
聖母マリア受難大聖堂の祭壇の前に立った二人の姿は、宮廷の光と影をそのまま体現しているようであった。
16歳になったエカチェリーナは、銀の糸で精緻な刺繍が施された、重厚でまばゆいウェディングドレスに身を包んでいた。
彼女は一見、気高く完璧な「未来の皇太子妃」として振る舞っていたが、その胸中は複雑であった。
隣に立つ婚約者の変貌から、どうしても目を背けたいという生理的な拒絶感が、彼女の仮面の裏に張り付いていた。
対する17歳のピョートルは、いまだ治療のために剃り落とされた髪が伸びきらず、顔や首筋には天然痘が残した無数の傷が生々しく刻まれていた。
周囲の貴族や外国の使節たちは、その変わり果てた姿に憐れみと嘲りの視線を向け、ひそひそと囁き合っていた。
しかし、ピョートルは萎縮していなかった。
彼の耳には、あのノヴゴロドの病床でサンチェス医師が遺した言葉が、確かに響いていたのだ。
彼は格式高い礼服の胸を張り、毅然とした態度で祭壇を見据えた。
容姿の醜さを恥じることなく、むしろ一命を取り留め、この巨大な帝国の継承者としてここに立っているという事実に、彼は内なる誇りを見出していたのである。
彼は、自分を憐れむ周囲の視線を跳ね返すかのように、堂々と儀式を遂行していった。
正教の厳格な伝統に則り、司祭の手によって、二人の右手の薬指に永遠の愛を象徴する指輪が厳かに嵌め合わされる。
そして、この婚配式において最も神聖な瞬間が訪れた。
大主教の手によって、二人の頭上に黄金の栄冠(王冠)が恭しく戴載されたのである。
この戴冠の礼儀こそが、神の前で二人が完全に一体となり、未来のロシアの王と王妃となることを祝福する最高の儀式であった。
降り注ぐ祝祭の拍手と歓声の中で、二人は手を携えて歩み出す。
しかし、それは決して愛に満ちた結びつきとはならなかった。
己の生存を証明するために前を向くピョートルと、過酷な現実を前に心を閉ざしていくエカチェリーナ。
ロシア帝国の未来を背負うこととなった若き二人の果てしないすれ違いと宮廷闘争という名の、過酷な宿命の幕が、この華々しい戴冠の陰で開かれたのである。
☆ネタバレコーナー
サンチェス医師からの励ましのくだりついては、フィクションです。
今はほぼ撲滅された天然痘ですが、当時は致死率が3割を超える恐ろしい病でした。
宮廷内や街中で天然痘の痕跡が残った人々を見かけるのは珍しくはなかったそうです。




