第13話 離れゆく心と破滅への序曲
華々しい婚礼の儀と、息をのむほどに豪華な祝宴の夜が更けたとき、二人だけの静寂が訪れた。
帝国の未来を担うべく結ばれた若い夫婦は、初めての夜を迎えていた。
普段は開け放たれている重厚な寝室の扉は、この時ばかりは固く閉じられ、壁一枚を隔てた隣室では、侍女たちが息を潜めて事の顛末を窺っていた。
広い寝台の上で、エカチェリーナはその白い肢体を横たえ、新夫の訪れを待っていた。
やがて寝台の暖気のなかへ、ピョートルがその身を滑り込ませてくる。
それは彼にとっても、勇気を必要とする行為であった。
かつて彼を襲った天然痘の猛威は、その若き肉体に痛々しい傷痕を深く刻みつけていたからである。
しかし、待っていた新婦が彼を振り返ることはなかった。
彼の妻は背中を向けたまま、微動だにしなかった。
夫の傷付いた体を直視することを、彼女の拒絶の意志が阻んでいたのである。
そこにあったのは、まだ幼さの残る少女が抱く、抗いがたい生理的な嫌悪感であった。
もしや、あの恐ろしい天然痘を夫からうつされるのではないか――。
彼女の不十分な医学知識では計り知れない病への恐怖が、その心を支配していたのだ。
今なお生々しい傷痕をその体に刻みつけている男に、触れられることも、その身を委ねることもできない。
かつて多くの命を奪い、生き残った者の容姿を変え果てさせた「悪魔の病」の残影が、少女のなかに決定的な生理的拒絶を生んでいたのである。
新婦の冷ややかな背中を前にして、ピョートルの心は激しく揺れ動いた。
自分へのあからさまな態度に対する戸惑いと、若い女性の前に初めて晒す自らの醜い傷痕への、深いコンプレックス。
このような空気のなかで、彼が夫としての義務を果たせる状態になり得るはずもなかった。
誰もが祝福した世紀の婚姻の裏で、新婚の褥は氷のように冷え切っていた。
ピョートルもまた、彼女に背を向けるようにして横たわる。
同じ寝台の上にありながら、二人の間には決して埋まることのない深淵が横たわっていた。
ただ互いに背を向け合ったまま、暗闇のなかで孤独な夜が過ぎていくのを待つことしか、この哀れな若者たちにはできなかったのである。
***
10日間にも及んだ婚礼の祝祭が終わり、サンクトペテルブルクの冬宮にようやく静寂が戻った頃のことである。
ヨハンナは女帝エリザヴェータからの突然の呼び出しを受け、宮殿の最奥にある女帝の執務室へと足を運んだ。
華やかな謁見の間とは異なり、そこは重厚な調度品と行き届いた暖炉の熱気が、かえって逃げ場のない圧迫感を生み出している空間だった。
部屋に足を踏み入れたヨハンナの身体が、一瞬で凍りついた。
正面には、怒りで顔を紅潮させた女帝エリザヴェータが、まるで雷雲を背負うかのように毅然と立ち塞がっていた。
その傍らには、いつもの冷ややかな薄笑いを完全に消し去り、冷酷な表情を浮かべた宰相アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミンが控えている。
二人の間にある大きな机の上には、異様なほどの存在感を放つ書類の山が積み上げられていた。
「──アンハルト=ツェルプスト公妃ヨハンナ。汝が我がロシアで何をしでかしてくれたか、これを見ても白を切るつもりか!」
女帝の怒声が、部屋の天井を揺るがした。
ベストゥージェフが、机の上の書類から数枚の紙を掴み、ヨハンナの足元へ叩きつけるように投げ出す。
それは、ヨハンナがプロイセンに郵送した手紙の写しであった。
「これは……何かの間違いでございます、陛下! 私はただ……」
ヨハンナの声は震えていた。
しかし、ベストゥージェフの容赦のない追及が、彼女の言葉を遮った。
「言い逃れは通用しませんな、公妃殿下。あなたがプロイセンに送った書簡は、我が国の『黒い部屋』の手によって、最初からすべて解読されていたのですぞ。あなたが我が国の機密を漏洩し、この私を失脚させるためにプロイセンの資金をばら撒いていたことも、および、女帝陛下の私生活を不敬極まる言葉で侮辱していたことも、すべて白日の下に晒されております」
女帝エリザヴェータの目は、怒りと裏切られたことへの屈辱で燃え上がっていた。
「我が国を侮辱するのも大概にせよ! 汝の姑息な陰謀など、ベストゥージェフの掌の上で泳がされていたに過ぎんのだ! もはや一刻たりとも、汝のような裏切り者をこのロシアの土に留めておくわけにはいかぬ!」
女帝の烈火のごとき叱責が、ヨハンナの鼓膜を突き破らんばかりに響き渡り、ベストゥージェフが、口端を歪ませて彼女の退路を完全に断つ。
「既にマルデフェルトらの書簡と暗号書も没収しておりますぞ」
ヨハンナは、絶望の淵を彷徨った。
なぜ、これほどの機密が漏れていたのか。
実は、プロイセン公使マルデフェルトが絶大な信頼を寄せていた「フランス大使経由の外交クーリエ」は、すでに国境の町リガで、秘密警察の手によって完全に差し押さえられていたのである。
そこには、大国同士の焦りと油断が交錯する舞台裏があった。
ことの始まりは、プロイセン公使の交代劇である。
フリードリヒ大帝は、ヨハンナを切り捨て、ロシア宮廷工作に進展が見られないマルデフェルトに見切りをつけて、次代の公使フィンケンシュタイン伯爵への交代を命じていた。
この交代に伴い、プロイセン本国とサンクトペテルブルクの間で、「新しく改定された、より複雑な最新の暗号書」を物理的に輸送する必要に迫られたのである。
ベストゥージェフの監視を警戒したマルデフェルトは、当時、女帝のお気に入りとして絶対的な特権を誇っていたフランス大使ラ・シェタルディーを頼る。
誰も手を出すことができないはずの「フランスの外交クーリエ」という移動式金庫に、最新の暗号書と、これまでの生々しい工作資金の記録を便乗させたのである。
しかし、プロイセン側はロシアの諜報能力を完全に侮っていた。
ロシア外務省には数学者ゴールドバッハをはじめとする天才暗号解読官が揃っており、ヨハンナたちの使っていた暗号は、とうの昔に裏で完全に解読されていたのだ。
彼らが「新しい暗号書をフランスの鞄で送る」という計画を立てたことすら、ベストゥージェフは事前にすべて把握していたのである。
「大国フランスの聖域クーリエに手を出すはずがない」という傲慢な油断こそが、ベストゥージェフの仕掛けた最大の罠であった。
国際法を平然と踏みにじったロシアの秘密警察により、彼らの命綱であった最新の暗号書は、一網打尽に奪い去られた。
近衛兵たちを引き連れたベストゥージェフの容赦のない眼差しが、絶望に凍りつくヨハンナを射抜いた。
ただ娘のためにとの思いで手を染めていた宮廷内での工作活動が、最初から、ベストゥージェフという恐るべき怪物の手中で踊らされていただけだったのだ。
「即刻、汝の客室へ戻り、出国の準備をせよ。二度と我が前にその不浄な顔を見せるな!」
女帝の最後通牒が下り、ヨハンナは力なく崩れ落ちそうになる身体を、近衛兵たちに抱えられるようにして連れ出された。
華やかな婚礼の夜が明けたばかりのロシア宮廷の奈落で、ヨハンナは何が起きたのかすら満足に理解できぬまま、ただ茫然と、母子の破滅とプロイセンの陰謀の完全な崩壊を受け入れるほかなかったのである。
☆ネタバレコーナー
ロシアの防諜や諜報活動の伝統は、今なお色濃く受け継がれています。
某国の現大統領もKGBの職員であったことが知られています。




