第14話 立ち込める暗雲
女帝の執務室から破邪の雷鳴のごとく響き渡った怒声と、直後に近衛兵の武張った手によって引き立てられていくヨハンナの凄惨な落ちぶれよう――。
それらを目撃した者たちの潜んだ囁き声は、密告と陰謀が渦巻く宮廷の回廊を、瞬く間に駆け巡った。
異変を聞きつけたヨハンナの侍女たちが、悲鳴を殺しながらピョートルとエカチェリーナの居室へ駆け込み、取り乱した様子で事の次第を捲し立てた。
あまりの衝撃に顔面を蒼白にさせ、狼狽の極みにある妻をどうにか宥めると、ピョートルは「私が叔母上に事の真相を確かめてくる」と言い残し、弾かれたように部屋を飛び出した。
天賦の才と苛烈な情念を併せ持つ彼には、時に激しい感情の濁流を制御できなくなるという危うさがあった。
彼が女帝の執務室の重厚な扉を荒々しく押し開くと、そこにはロシアを統べる女帝エリザヴェータと、氷のごとき眼光を湛えた宰相ベストゥージェフが、今後の処置について密談を交わしている最中であった。
「ベストゥージェフ! 一体どういうことだ!」
血相を変えて問い詰めるピョートルに対し、宰相は慇懃無礼に深く頭を垂れる。
「……恐らくは、殿下のお耳に届いた通りの惨状にございます」
「では……妻も関わっているとでもいうのか!」
食ってかかるピョートルに対し、宰相はただ静かに、しかし威圧感を込めて首を振った。
「今のところ、妃殿下が関与されたという証拠は見つかっておりませぬ」
「当然だ! 妻はずっと私の傍らにいた。断じて無関係だ!」
色をなして叫ぶピョートルを、ベストゥージェフは蛇のごとく冷ややかな目で見つめ返した。
「左様にございますとしても、この権謀術数渦巻く宮廷内において、疑惑の念を抱く者がどれほど居るか計り知れません。故に、有象無象の邪推の目から妃殿下をお守りするため、そして何より殿下ご自身のご威信のため……当面はご寝所を別にされ、私が厳選いたしました者を身辺にお付けするのが最善かと存じます」
困惑したピョートルが縋るように女帝の顔色を窺うと、エリザヴェータは深淵から響くような重々しい声で口を開いた。
「その件については、たった今裁決を下したところである。さらに余計な疑念が広がるのを防ぐため、シュテッティンから伴ってきた侍女らも、順次本国へ強制送還といたす」
「ですが、叔母上――!」
「落ち着くがよい、ピョートル。ヨハンナに対する最終的な処分は、追って沙汰を下す。お前は部屋へ戻るがよい」
なおも食い下がろうと唇を戦がせるピョートルを、女帝は絶対者の鋭い眼光で完膚なきまでに制した。
「……今はただ、打ちひしがれた妻を慰めてやるのが、夫たるお前の務めであろう」
エリザヴェータの強い視線に追いたてられるようにして執務室を辞するほか、ピョートルに抗う術はなかった。
執務室をあとにしたピョートルの足取りは鉛のように重く、激情の嵐が去った後には、底冷えする焦燥と深淵のような困惑だけが残されていた。
閉め切られていた重い扉を開けて自室へ戻ると、そこでは血の気を失ったエカチェリーナが、身を縮めるようにして夫の帰りを待っていた。
「……叔母様は、女帝陛下は何とおっしゃったのですか?」
縋りつくように駆け寄る彼女の前に立ち、ピョートルは苦々しく視線を落とした。
事態の苛烈さを前に、言葉を濁す余裕すら今の彼には残されていなかった。
「……君自身にも、疑いの目が向けられている。宮廷の者たちの毒ある邪推から庇うためという名目で……当面、我々は部屋を別にするよう命じられた」
その言葉が落ちた瞬間、エカチェリーナの瞳から光が消え、絶望の色が駆け巡る。彼女はピョートルの衣の袖にしがみつき、激しくかぶりを振った。
「そんな……私は何も知りません! 母が何をしていたのかなど、私にはまったく……信じてください!」
真っ青な頬に大粒の涙を溢れさせ、悲痛な声で縋りつく幼き妻。その震える小さな肩を、ピョートルは強く抱き寄せた。
「分かっている、分かっているとも。君が無関係であることなど、私が一番よく知っている」
彼は妻の背中を優しく撫でながら、自らに言い聞かせるように静かに言葉を重ねた。
「心配することはない。離れて暮らすのはほんの瞬く間のことだ。長くはさせない……私が必ず、すべてを元通りにしてみせる。だから、どうか私を信じて耐えてくれ」
胸元で声を押し殺して泣きじゃくるエカチェリーナの頭に頬を寄せ、ピョートルは身を焦がすような決意を込めて呟いた。
「君の母上……ヨハンナ殿についても、私にできる限りの手を尽くすつもりだ。絶対に、君をこの宮廷に一人きりにはさせない」
そう誓いを立てたピョートルは、ヨハンナの助命を求め、すぐさまベストゥージェフの執務室に足を運び、懸命の説得を試みた。
しかし、ベストゥージェフは冷笑すら孕んだ目つきで、その言葉を遮った。
「殿下。本来であれば、女帝陛下の絶対なる権威を冒瀆した不忠の者に科される罰など、斬首、良くとも極寒のシベリア流刑と決まっております。それを陛下の深きご恩情により、国外退去という極めて寛大なるご沙汰を下されたのです。これほどの慈悲を賜りながら、殿下はなお異を唱えられるとおっしゃるのですか?」
宰相の付け入る隙のない正論に、ピョートルは言葉を失い、ただ唇を噛み締めるしかなかった。
後日、女帝エリザヴェータの威光のもと、ヨハンナに対して正式に国外追放の勅令が下された。
しかしヨハンナにはスパイ容疑や陰謀関与への口止め、そして外交的配慮や面目を保たせるための体面的な措置として多くの高価な贈り物や金品を与えられていた。
そしてエリザヴェータは、この陰謀の首謀者に特上の土産物を用意していた。
道中のリガにおいて、彼女の秘書がヨハンナにフリードリヒ2世宛の「公使マルデフェルトの召還要求」を手渡したのである。
宮廷を揺るがした陰謀の芽は摘み取られたが、その波紋が静まることはなかった。
エカチェリーナは、近衛の目がくまなく行き届き、監視の容易な離れの一室へと半ば隔離されるように移された。
これまで彼女の身の回りを世話させ、心を許し合っていたシュテッティン以来の侍女たちは、ひとり、またひとりと無慈悲に遠ざけられていく。
代わりにエカチェリーナの周囲を覆ったのは、女帝エリザヴェータの威光と意思を忠実に体現する、鋭い眼光を湛えた新たな侍女たちであった。
その頂点たる首席侍女に抜擢されたのが、マリア・シモノヴナ・チョグラコーヴァ――旧姓ゲンドリコヴァ伯爵令嬢である。
先代エカチェリーナ1世の血を引く彼女は、女帝にとっては絶対の信を置く従姉妹であり、なかんずく厳格な道徳観と苛烈なまでの忠誠心を備えた女性であった。
マリアに課せられた真の使命は、若き皇太子妃の完全なる「隔離」に他ならない。
異国の影や不穏な陰謀が再び芽吹くのを未然に摘み取るべく、書簡の往来は隅々まで検閲され、事前の許可なき外出や他者との密会は一切厳禁とされた。
一問一答の言葉の端々に至るまで、エカチェリーナの日常は、鉄の戒律と密やかな監視の目によって網の目のように縛り上げられていったのだった。
☆ネタバレコーナー
史実ではヨハンナの拘束は密かに行われたようです。
宮廷内の醜聞を世間に晒すわけにはいきませんからね。
それでは話として盛り上がりに欠けるので、超大盛にしてみました。




