第8話 小さな兵隊たち
案内されたツェルプスト母娘の私室は、モスクワの宮廷がいかに二人を国賓として破格の待遇で迎えているかを無言で物語っていた。
部屋を暖める丸みを帯びたペチカからは、白樺の薪がはぜる心地よい音が響き、冷え切った身体にじわりと熱を戻していく。
「ああ、生き返るようだわ……」
ゾフィーは旅の埃にまみれた重い外套や窮屈なコルセットを脱ぎ捨て、柔らかなウールで仕立てられた、ゆったりとした薄緑色の室内用ガウンへと着替えた。
髪もピンを外し、肩の上へ艶やかな栗色の波をそのまま滑り落ちるに任せている。
緊張と極寒の長旅からようやく解放されたゾフィーの顔には、少女らしい無防備な赤みが戻っていた。
しかし、母ヨハンナだけは、カウチにしなだれかかりながらも、心ここにあらずといった様子で天井の一点を見つめていた。
耳の奥で、先ほどの女帝エリザヴェータの低く威厳に満ちた声と、懐の2万ターラーの為替のすれる音が、不気味に共鳴し合っている。
そのとき、控えめながら硬いノックの音が部屋に響いた。
入ってきたのは、仕立ての良い衣服に身を包んだ、物腰の柔らかい初老の男だった。
皇太子ピョートルに仕える部屋付きの侍従である。
男は優雅に一礼すると、周囲を気にするように声を潜め、流暢なフランス語で告げた。
「ツェルプスト公妃殿下、ならびにゾフィー姫君。皇太子殿下がお待ちかねでございます。長旅の疲れもございましょうが、もしよろしければ、これより殿下の私室へお越しいただきたいと……。女帝陛下や他の廷臣たちに邪魔をされぬよう、非公式の場としてご招待せよとの仰せにございます」
「まあ、殿下が……!」
ゾフィーはパッと顔を輝かせた。
あの、おとぎ話の主役のように美しい、すらりとした婚約者が自分を呼んでいるのだ。
ヨハンナもまた、政治的打算からこの誘いを歓迎した。
まずは皇太子の心を掴むことこそが、ロシア宮廷における唯一の足がかりとなる。
「すぐに支度をいたします。ゾフィー、さあ、一番上等な絹のドレスを。それから、宝飾品も……」
ヨハンナが慌ててクローゼットへ歩み寄ろうとしたその時、侍従は静かに、しかしはっきりと手をかざしてそれを制した。
「恐れながら、公妃殿下。殿下は、重々しい宮廷の礼装を何よりもお嫌いになります。豪華な装いは、むしろ殿下のお気に召さないでしょう。非公式の面会でございますから、姫君は……そう、今お召しのその愛らしいお姿のままで、十分でございます」
「えっ? このような、くだけたお姿のままでございますか?」
ヨハンナは眉をひそめた。
貴族の、それも皇太子への拝謁に、着飾りもせず赴くなど、ヨーロッパの宮廷マナーでは考えられない無礼にあたる。
だが、侍従はただ穏やかに微笑むだけだった。
郷に入っては郷に従え、ということか。
ゾフィーはむしろ、あの窮屈なドレスをまた着なくて済むことに安堵し、「お母様、行きましょう」と母の袖を引いた。
侍従に先導され、広大な宮殿の回廊を進む。
ここで、女帝エリザヴェータがお気に入りの滞在先として建てさせた、ヤウザ川沿いに佇む木造の「アンネンホフ宮殿」の構造について紐解かねばならない。
この壮麗なバロック様式の木造宮殿は、現代のような部屋の外側に設置される独立した廊下がなく、各部屋を一直線に突きとおす扉によって繋がれている。
これは当時のヨーロッパ宮廷建築の伝統的な部屋配置である「アンフィラード構造」そのものであった。
2階は、金箔が施された見事な木彫装飾や鏡が壁一面を埋め尽くす大広間、そして女帝が国賓を迎えるための壮麗な謁見の間や、宗教的な儀式も行われる丸天井の礼拝堂へと続いている。
一方、宮殿の2階の奥まった一画や、冬の寒さを避けるための1階の私的空間は、皇族たちの生活の場であり、庭園に面した窓に沿って部屋が一直線に並んでいた。
その一連の続き部屋の端には、将来の皇位継承者である皇太子やその家族のためのプライベートな客室や寝室が確保され、そこからさらに、女帝が日常の政務を行い、大臣たちと密談を交わすための執務室へと繋がっている。
そしてスィートの中央付近には、最高級のシルクのテキスタイルで装飾された寝室や、私的なゲストを迎えるための小応接間が配置されていた。
ここには、白やピンク、淡い緑を基調とした壁紙や繊細なロココ調の調度品が整えられ、皇族が家族だけで親密に食事をとるためのダイニングルームも用意されていた。
きらびやかな部屋から使用人や内廷の侍従たちの部屋を抜け、奥まった部屋に案内されたゾフィーたちが行き着いたのは、扉が開け放たれた部屋であった。
「皇太子殿下、ツェルプストの姫君をお連れいたしました」
「おお、入ってくれ!」
部屋の奥から、弾んだ若い声が響いた。
一歩中へ入ったゾフィーは、そこが想像していたよりもはるかに「シンプル」であることに驚いた。
金箔の額縁や絢爛なタペストリーは影を潜め、代わりに目につくのは、磨き上げられた木製の机や、整然と並べられた書棚。
どこか男の子の書斎のような、飾り気のない、しかし整った空間だった。
その部屋の奥に、にこやかな、実に人懐っこい笑顔を浮かべた皇太子ピョートルが立っていた。
先ほどの公式の拝謁で見せた、近衛兵としての張り詰めたような緊張感は消え失せ、今の彼は制服の襟元を少し緩め、まるで年の近い従兄のような気安さを漂わせている。
「よく来てくれた。格式張った挨拶は抜きにしよう。さあ、そこへ掛けて」
ドイツ語で語り掛けたピョートルは、部屋の中央に置かれた小さな丸テーブルを囲む椅子を自ら引いてみせた。
母娘は礼儀正しくカーテシーを捧げた後、勧められるままに椅子に腰掛けた。
「リガからの道中は、さぞ寒かっただろう? ドイツの冬とは比べものにならないからね」
ピョートルはテーブルの上の温かい紅茶を勧めながら、人懐っこい笑みを浮かべた。
「僕が初めてこの国に連れてこられた時なんて、もっと酷かったんだ。馬車が雪に埋もれて動かなくなってね。僕を監視していたブリュンマーという男は、寒さに震える僕を放っておいて、自分だけ暖炉の前に陣取って極上のワインを飲んでいたんだ。僕は凍りついた窓ガラスを指でこすって、外の狼の群れを眺めるしかなかった。ひどい話だろう?」
ピョートルはそれを、まるで愉快な冒険譚であるかのように面白おかしく語ってみせた。
その語り口の軽妙さに、ゾフィーは思わずクスリと笑ってしまい、緊張がすうっと解けていくのを感じた。
ヨハンナは娘を促す。
「ゾフィー、あなたも殿下に、私たちの道中の旅の話をお聞かせしなさいな」
「ええ。私たちの旅も、それはもう大騒ぎでしたわ、殿下。途中の宿で、お母様が『トコジラミがいるに違いないわ!』とおっしゃって、部屋の家具をすべて外へ運び出させようとしたのです。結局、ただのパンの屑だったのですけれど……」
ゾフィーが身振り手振りを交えて語ると、ピョートルは「ハハハ!」と声を上げて笑った。
「それは傑作だ! 僕の宮廷にも、パン屑を虫と見間違うような大袈裟な連中がたくさんいるよ。君は面白いね、ゾフィー」
二人の間に、年の近い若者同士にしか通じない、温かく、弾むような空気が流れ始める。
その会話の最中、ゾフィーの視線が、部屋の壁際に置かれた頑丈なガラス張りの戸棚へと吸い寄せられた。
その棚の中には、埃一つなく磨かれたガラスの向こうに、驚くほど精緻に作られた、カラフルな人形たちが整然と並べられていた。
「……まあ。あそこに飾られているのは、何かしら? とても美しいお人形」
ゾフィーが尋ねると、ピョートルの瞳が、まるで宝物を見つけた子供のように、いっそう眩しく輝いた。
彼は待ってましたとばかりに椅子から立ち上がった。
「よくぞ聞いてくれた! これはね、ただの人形じゃないんだ。僕の、世界で一番大切なコレクションさ。おいで、近くで見せてあげるよ」
ピョートルはゾフィーの手を優しく引き、戸棚の前へと連れて行った。
ガラスの向こうには、赤、青、白の軍服を着た小さな兵隊たちが、完璧な横隊陣形を組んで並んでいる。
「これはね、僕が集めた、兵棋演習に使う駒なんだ。こっちの青い制服を着ているのはプロイセンの歩兵連隊。この、胸に輝く鉄の甲冑を着けているのが、僕が誇る胸甲騎兵連隊。そして、この銃を構えているのが、プレオブラジェンスキー近衛連隊だ。どれも職人に作らせた、一点ものの貴重なコレクションなんだよ」
ピョートルは興奮した面持ちで、一つ一つの駒の種類や、その歴史、さらには陣形の意味について、熱を帯びた声で解説し始めた。
その熱量は、宮廷の陰謀や政治の駆け引きとは無縁の、純粋無垢な少年の趣味そのものであった。
「どうだい、素晴らしいだろう? 触ってみたいかい?」
「ええ、よろしいのですか?」
「もちろんさ。君は僕の婚約者なんだから。ほら、持ってみて」
ピョートルは戸棚を開け、最も精巧に作られた、プロイセン近衛兵の駒を一つ手に取り、ゾフィーの手のひらの上へと手渡した。
「あっ」
小さな木製や粘土製の人形だと思い込んでいたゾフィーは、手のひらに載せられた瞬間の、予想を遥かに超える「重み」に思わず手を滑らせかけた。
それは、純粋な金属——ずっしりとした「錫」で鋳造された、本物の軍事用ミニチュアだったのだ。 重力に引かれ、傾く金属の兵隊。 ゾフィーの指先から、きらびやかな駒が滑り落ちそうになる。
「ゾフィー!!」
傍で、それを見ていた母ヨハンナは、心臓が口から飛び出そうになり、思わず金切り声を上げそうになった。
(プロイセン王から贈られたか、あるいは大王を象徴する、あの高価な極上の駒を、ロシア皇太子の目の前で叩き割るなど……!!)
もしそんなことになれば、ただでさえ危ういツェルプスト家の立場は一瞬で吹き飛び、プロイセンとの関係も修復不可能になる。
ヨハンナは寿命が十年は縮むほどの絶望的な恐怖に全身の血が凍りついた。
だが、ゾフィーは持ち前の反射神経で、すんでのところで駒を両手で包み込むようにして受け止めた。
「……ふう,危なかった」
ゾフィーは冷や汗を拭い、照れくさそうに微笑んだ。
「驚きました。こんなに小さいのに、まるで鉄砲の弾のように重いのですもの」
その様子を見て、ピョートルは怒るどころか、実におかしそうに声を上げて笑った。
「あはは! そうだろう? 本物の兵隊も、これくらい重くなければ戦場を生き抜けないからね。君が落とさなくて良かったよ」
ピョートルはゾフィーの両手をそっと包み、駒を優しく戸棚へと戻した。
その手の温もりと、少年の邪気のない笑顔に、ゾフィーの胸は小さく跳ねた。
しかし、背後で激しい動悸に襲われ、自らの胸を押さえている母ヨハンナの姿には、目の前の若い二人の誰も気づいていなかった。
黄金の宮廷の裏側で、不気味なほど純粋な少年と、その光に魅せられていく少女。
それは、これから始まる二人に過酷な運命が待っているとは、神ならぬヨハンナには思いもよらぬことであった。
激務に追われるヨハンナに一人の男が近づく。
第9話「黒い部屋」
☆ネタバレコーナー
後にエカチェリーナの回顧録に子供の人形遊びとして揶揄される美しい芸術品ともいえる兵棋演習用の駒ですが、別室には兵種に応じた駒が何百体もコレクションされていたそうです。こんな貴重な駒で夜中にベッドの上で遊んでいたというエカチェリーナの捏造能力には呆れるばかりです。




