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第7話 帝国の眩暈

第3章 黄金の帝国の光と闇


 一七四四年、凍てつくロシアの原野を、橇《そり》を履いた巨大な長距離馬車が疾走していた。

 要塞都市リガでの熱狂的な歓迎の余韻も冷めやらぬまま、ゾフィーと母ヨハンナの一行は、さらにその深奥、ロマノフ朝の若き都サンクトペテルブルグへと急いでいた。

 窓の外は、どこまでも続く白銀の静寂。

 しかし馬車の中は、高鳴るゾフィーの鼓動と、絶えず指先を震わせているヨハンナの焦燥で、奇妙な熱気に満ちていた。

 そして、ついにその日が訪れる。

 ペテルブルグへの到着は、まさに「光と音の暴力」であった。

 リガでの歓迎すら霞むほどの大群衆が沿道を埋め尽くし、耳を劈くような礼砲が、何発、何十発と天を揺るがした。

 轟音のたびに馬車の窓がガタガタと震え、冬宮ウィンター・パレスの巨大な門がゆっくりと左右に開かれていく。

 一歩、宮殿の内部へ足を踏み入れた瞬間、ゾフィーは息を吸うことすら忘れた。

 「……お母様、見て。まぶしすぎて、目が潰れてしまいそう」

 ゾフィーは子供のように声を弾ませ、頬を紅潮させた。

 そこは、かつてヨハンナが自慢げに語っていた洗練極まるパリのヴェルサイユ宮廷にすら、決して引けを取らない——いや、成金の如き圧倒的な財力でそれを凌駕する、黄金の迷宮であった。

 見渡す限り、壁という壁には精緻な彫刻と金箔が惜しげもなく張り巡らされている。

 鏡の回廊を思わせる広大な部屋の数々は、奥へ奥へと突き抜ける巨大な扉によって、無限に連なっているかのように見えた。

 部屋に飾られた大理石の彫像、金糸を織り込んだタペストリー、きらびやかなクリスタルのシャンデリア。

 その調度品の一つ一つが、ドイツの小国であれば「御者付きの六頭立ての豪華な馬車」が優に買えるほどの、気の遠くなるような価値を放っている。

「これほどの、これほどの富が……すべて私の目の前にあるなんて!」

 はしゃぐゾフィーの肩を、ヨハンナは痛いほどの力で掴み、鋭く睨みつけた。

「静かになさい、ゾフィー。はしたない。田舎者のように口を開けてうろたえるのはおやめ。私たちは見世物としてここへ来たのではありません。プロイセンの、そしてツェルプストの誇りを忘れるなと言ったでしょう」

 厳しい声で娘を制したヨハンナだったが、その実、彼女の胸中を占めていたのは、娘以上の激しい動揺と恐怖であった。

(たったの二万ターラー……)

 ヨハンナは毛皮のコートの裏に忍ばせた、フリードリヒ大王から渡された為替札の重みを思った。

 ベルリンでは途方もない大金に思えた二万ターラー。

 しかし、この信じがたい黄金の宮殿を前にした今、その額があまりにも矮小なものに思えてならなかった。

(この、富が湯水のように湧き出る魔窟のような宮廷で……あんなはした金で、一体誰を抱き込めるというの? 誰から情報を買い、あの百戦錬磨の重臣ベストゥージェフを失脚させられるというの?)

 ヨハンナの背中に冷たい汗が流れた。

 外交の表舞台は知っていても、国家の命運を賭けた裏の工作など、自分は一度もやったことがないのだ。

 突きつけられた現実のあまりの巨大さに、ヨハンナはただ己の無力さを突きつけられ、深い不安の淵へと突き落とされていた。

 それから数週間、二人は旅の過酷な疲れを癒す名目で、ペテルブルグの豪華な客間に留まることを許された。

 だが、そこは安息の地ではなかった。

 旧都モスクワで彼女たちの到着を今や遅しと待つ、ロシア帝国の最高権力者・女帝エリザヴェータ、そして未来の夫となる皇太子との謁見に備え、マナー、ロシア語、そして宮廷の人間関係の暗記という、一瞬の油断も許されない猛特訓の日々が始まったのである。


 やがて、真冬のさらなる強行軍が始まった。

 ペテルブルグから旧都モスクワへの旅路は、文字通り命がけの難所であった。

 吹き荒ぶ吹雪の中、寒さで凍りつく馬車を走らせ、ようやく一行がモスクワの地に降り立った。

 ロシアの心臓、クレムリン宮殿。

 馬車の扉が開いた瞬間、ゾフィーの目に飛び込んできたのは、見上げるような長身を誇り、完璧に整った美貌を持つ近衛兵たちがずらりと整列する光景だった。

(ああ、なんて美しい世界かしら……!)

 ドイツの北端、シュテッティンのうらぶれた要塞で風の音を聞いて育ったゾフィーにとって、この瞬間、彼女は文字通り「世界の主役」になったのだ。

 居並ぶ着飾った宮廷の老若男女、名だたる大貴族たちが、まだ少女の自分に対して深々と頭を下げている。

 まるで全人類が自分を歓迎し、ひざまずいているかのような全能感が、少女の胸を極限まで満たした。

 ゾフィーの瞳は爛々と輝き、興奮のあまり足取りが軽くなる。

 ヨハンナは、今にも小躍りしそうな娘の様子に生きた心地がしなかった。

 ここで何か一つでも、礼儀作法を欠くような粗相を仕出かせば、この話は破談の憂き目を見かねない。

「ゾフィー、落ち着きなさい。しっかりお歩き」

 ヨハンナは焦りを押し隠し、はしゃぐ娘の手を、引きちぎらんばかりの強さで握りしめた。

 しかし、その必死な様子を見た周囲の貴族たちは、寒さに震える我が子をいたわる「愛情深き母娘の、微笑ましい姿」として受け止め、好意的な囁きを交わし合う。

 その誤解すら、ヨハンナにとっては針のむしろであった。


 宮殿の重厚な門をくぐり、天井の高い回廊をいくつも抜ける。

 その最奥にある謁見室の巨大な二重扉が、巨躯の近衛兵たちの手によって、重々しい音を立てて左右へ押し開かれた。

 その瞬間、部屋の空気が一変した。

 謁見室の奥、ギリシャの神殿に立つ神々のように直立する近衛兵たちに囲まれ、二つの影がそびえ立っていた。

 中央に君臨するのは、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナ。

 かつて血を血で洗うクーデターを制し、ロマノフの頂点に立った、絶対的支配者。

 ゾフィーはこれまでに幾度も、母から見せられた女帝の肖像画を目にしていた。

 しかし、目の前にいる本物の女帝は、そのいかなる絵画をも遥かに凌駕する「巨像」であった。

 豪華なドレスをまとい、大粒の宝石をちりばめた王冠を戴いた彼女の肉体は、ただ大きいというだけでなく、人を平伏させるに十分な、底知れぬ威厳と冷酷な政治の覇気を放っていた。

 巨大な壁が、そのまま意思を持って立ち上がったかのような圧倒的な存在感だった。

 そして、その女帝のやや後方に控えていたのが、皇太子ピョートルであった。

 ゾフィーは、思わず息を呑んだ。

 彼の姿は、あらかじめ見せられていた肖像画とは、決定的に異なっていた。

 ピョートルは、ロシア伝統のきらびやかな近衛制服を誇らしげに身にまとっていた。

 彼は、名門プレオブラジェンスキー連隊の少尉であり、同時にキラシルスキー連隊の大尉に任命されていたのだ。

 近衛における階級は、通常の野戦軍よりも一、二階級上位とされる、若きエリートの証明である。

 のちに、伯母から与えられたオラニエンバウム宮殿に移り住むまでの間、この少年は自らのアイデンティティを示すこの制服を深く愛し、寝る時以外は決して脱ごうとしなかったという。

 手足がすらりと長く、長身の彼の立ち姿は、軍人としての規律と若々しい品格に満ちているように見えた。

 ゾフィーの目には、彼がまるでおとぎ話から抜け出してきた高貴な主役のように映り、その麗しい姿に一瞬で心を奪われてしまった。

 本来であれば、王族を凝視する娘をすぐさま窘めなければならないヨハンナだったが、この時ばかりは、女帝エリザヴェータが放つ凄まじい威圧感の前に、指一本動かすことができず、ただ全身を硬直させていた。

「ツェルプスト公妃ヨハンナ、ならびにゾフィー・アウグスタ・フレデリカ姫」

 廷臣の朗々とした先触れの声が響き、ヨハンナはようやく我に返った。

 教え込まれた通りの優雅な動きで、しかし心臓の鼓動が耳元で鳴り響くのを感じながら、母娘は女帝の前に進み出て、深く、深く膝を折って拝礼した。

(ここで無礼とみなされれば、私たちは即座に地下牢へ送られ、首をはねられるのではないか……いや、すでにあのベルリンでの陰謀が女帝の耳に入ってたのだとしたら……)

 心臓が張り裂けそうな恐怖の中で、ヨハンナはただ頭を垂れ、床のモザイクを見つめていた。

 だがその時、重い衣擦れの音が響き、女帝エリザヴェータが自ら玉座の階段を降り、二人のもとへと歩み寄ってきた。

 ヨハンナの脳裏を絶望がよぎる。

 しかし、女帝の動きは優しかった。

 女帝は「よくぞ、遠路はるばる参った」と、長旅の過酷さをねぎらう温かい言葉をかけ、うつむくゾフィーの体に、そっと、愛しむように手を触れた。

 女帝は、確認したかったのだ。

 かつてプロイセンの手によって、自分が引き取り、教育を任せた甥のピョートルが、冷酷な廷臣ブリュンマーらによって心身ともに虐待され、歪んでしまった悲劇。

 女帝は、目の前にいるこの北ドイツの小さな姫君もまた、同じように親の過酷なエゴや虐待によって、心が壊れてはいないかと、密かに心配していたのである。

 だが、ゾフィーの肌には健康的な張りと若さがあり、何よりもその瞳には、旅の疲れにやつれながらも、未来への希望に満ちた強い輝きがあった。

 女帝の赤い唇が、満足げに孤を描いた。

(……この娘で、間違いない。私の選択は正しかった)

 女帝が、星の数ほどあるヨーロッパの王女、あるいは国内の名門貴族の中から、あえてこの無名に近いツェルプストの娘を選んだ理由は、極めて冷徹な政治的計算に基づいていた。

 ロシア国内の有力な大貴族や、背後に強力な母国を持つ他国の王女を皇太子妃にすれば、必ずロマノフの血統を利用しようとする公私の干渉を招く。

 何よりも純粋なロマノフの血統を守り、自身の手でコントロールできる、後ろ盾のない小貴族の娘こそが、エリザヴェータにとっての絶対条件だったのだ。

 そしてもう一つ、女帝の胸の奥深くには、私的な感傷もあった。

 ゾフィーは、かつて女帝が深く愛し、結婚直前に病で失った最愛の婚約者、リューベック司教カール・アウグストの姪にあたる。

 失われた愛の面影を、彼女はこの無垢な少女に重ね合わせていたのだった。


 女帝は厳かに宣言し、ゾフィーの胸元に、輝くロシアの勲章を自らの手で授与した。

 それは、居並ぶ諸国の外交官たちに対して、「この少女こそが、正統なるロマノフ家の皇太子妃である」と公式に宣誓した瞬間であった。

「そなたたちにふさわしい、最高の部屋を用意させてある。まずは旅の埃を落とし、ゆっくりと休むが良い」

 女帝はそう優しく告げると、傍らのピョートルを伴って、静かに謁見室を後にしていった。

 儀式の間、ピョートルは、自分の婚約者となるゾフィーと、その母親、そして随行するツェルプストの者たちの姿を、じっと目で追い続けていた。

 時折、彼は所在なさげに高い天井を見上げ、深く、重い吐息を漏らした。

 彼の中にあったのは、狂おしいほどの「羨望」であった。

 自分がロシアに連れてこられた時、傍らには誰もいなかった。

 たった一人、冷酷で暴力的な家庭教師ブリュンマーに脅され、怯えながら暮らしてきた。

 だが、あのゾフィーという少女はどうだ。

 彼女の隣には、我が子を必死に守る実の母親がいる。

 その後ろに控える随行員たちを見ても、ブリュンマーのような冷酷な陰険さは微塵もなく、皆、主君を慕う忠実で温かい目をしている。

 そして何より、ゾフィー自身。

 光を吸い込むような、健康的で白い肌。

 ふさふさとした艶のある栗色の髪。

 そして何よりも、世界を恐れていない、あの若々しく力強い瞳。

 彼女は、ピョートルがこの過酷な人生の中で奪われ、決して手に入れることができなかった「すべての温もりと光」を持ち合わせていたのだ。

 遠ざかるピョートルの背中を見送りながら、ゾフィーは、胸の内で確信していた。

(私の未来は、ここにある。このまばゆい光のなかで、私は生き、そして輝くのだわ)

 目の前に広がる、夢にまで見たきらびやかな生活と、若く美しい婚約者。

 少女の胸には、無限の希望が満ちあふれていた。

 しかしその傍らで、母ヨハンナは、絶望的な孤独の中にいた。

(一体、どうすればいいの……)

 手渡された暗号書。

 少なすぎる工作資金。

 そして、あの巨大な怪物のような女帝エリザヴェータ。

 あのような覇王を相手に、素人の自分が「プロイセンの間諜」として立ち回るなど、不可能な自殺行為に思えてならなかった。

 沸き立つような歓声と黄金の宮殿の中で、希望を抱く娘と、破滅の予感に震える母。

 二人の運命は、モスクワの冷たい雪を溶かすほどの激しいコントラストを描きながら、ロマノフ王朝の巨大な歯車に巻き込まれていくのだった。

女帝との謁見を終えて、ほっとするのも束の間、ピョートルの侍従が彼女らの部屋を訪れる。

第8話「小さな兵隊たち」


☆ネタバレコーナー

2万ターラーというのは、買収工作に用意されたといわれる全資金でした。現在(2020年代)の価値に換算すると「約5億〜15億円(現代の米ドルで数百万〜1,000万ドル相当)」の購買力があったと考えられます。

話として少し盛ってみました。

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