第6話 フリードリヒの密命
プロイセン王国の首都ベルリンは、シュテッティンとはすべてが異なっていた。整然と区画された街路には堅牢な石造りの建物が並び、行き交う人々や近衛兵の足音に至るまで、軍隊のような鉄の規律が満ち満ちている。
この大国の重厚な熱気こそが、当代きっての英傑フリードリヒ二世が統べる宮廷の姿であった。
一族の私的な旅行というカモフラージュのもと、宮殿へと迎え入れられたツェルプスト公国の一行は、すぐさま王との謁見に臨んだ。
玉座の間で彼らを待つフリードリヒ二世は、まだ三十代前半の若き覇王である。
その鋭い眼光は、宮廷の華やかな装飾の奥にある国際政治の天秤を常に凝視しているかのようだった。
王の視線が、旅の緊張で硬くなっている十四歳のゾフィーへと注がれる。
母ヨハンナの苛烈なまでのしつけと、カルデルによる徹底した教育の成果を試される瞬間であった。
ゾフィーは教わった通りに見事な礼を捧げ、大王の前に畏まった。
フリードリヒ二世の相好が、わずかに和らいだ。
ゾフィーの淀みのない言葉遣いと、洗練された礼儀に対してである。
後に王が周囲へ「あの娘は大変な利発児だ。将来、大物になるだろう」と漏らすこととなる言葉が、この時に生まれた。
王はゾフィーを未来のロシア皇太子妃にふわさしい器であると認め、満足げに激励の言葉をかけた。
ロシア皇太子ペーターの親族でもある王からの言葉に、ゾフィーは少年の肖像画を思い、まだ見ぬ大国への期待をさらに膨らませるのだった。
しかし、謁見が終わり、ゾフィーと父クリスティアン・アウグストが退室を促された後、事態は一変する。
王は、母ヨハンナだけをその場に残すよう命じたのである。
重々しい扉が閉まり、二人きりになった部屋で、フリードリヒ二世の優美な君主としての仮面は剥ぎ取られた。
ヨハンナに向けられたのは、一国の運命を冷酷に値踏みする戦略家の眼差しであった。
王の合図とともに、漆塗りの小箱に収められたプロイセンの金貨と為替札がヨハンナの前に示された。
女帝エリザヴェータから送られた準備金とは全く異なる、プロイセンの国家機密費から捻出された秘密資金である。
訝しむヨハンナにフリードリヒは言い放つ。
「私がただ、慈悲深くもこの縁談を執り成してやったとでも思っているのかね、マダム」
「陛下、それは……どういう意味でございましょうか」
「我がプロイセンが注ぐ多大なる恩寵に対し、相応の『対価』を支払っていただかねばならん」
「……陛下。なんなりと、このヨハンナにお命じくださいませ」
フリードリヒは、満足げに唇の両端を釣り上げた。
「任務は、ロシア宮廷の深奥に入り込み、ロシア帝国宰相アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミンの動向を監視し、奴を失脚へ追い込む足がかりを築くことだ。かの大国を、我がプロイセンの軛くびきに繋ぎ止めよ。見事やり遂げた暁には、ツェルプスト公国への恩賞は望むままであろう。――それは当面の軍資金だ。二万ターラーに及ぶこの秘密資金を受け取られよ」
それは、公式な書面には決して残せない、口頭での密命である。
手渡された莫大な工作資金は、宮廷の重臣たちを抱き込み、情報を買うための生々しい対価に他ならない。
失敗すれば、間諜としてロシアで処刑されるか、あるいはすべてを失って追放されるか。
娘の輝かしい前途の裏側に、あまりにも巨大で危険な政治の爆薬が仕かれた瞬間だった。
「御意にございます、陛下。我が身に代えましても、必ずや」
ヨハンナは深く頭を下げ、王の命令をその胸に深く刻み込んだ。
その後、別室に移されたヨハンナは、フリードリヒの廷臣から今後の工作活動に関する具体的な指示を受け、連絡の伝達ルートや、それに使用するための複雑な暗号書を手渡された。
しかし、外交の駆け引きは知っていても、国家間の命がけの隠密工作に関して、ヨハンナは全くの素人に過ぎなかった。
対する廷臣らも、あまりにも短い滞在期間ゆえに彼女へ十分な訓練の時間を与えることができず、詰め込みきれない知識と使い方もわからぬ暗号書をただ押し付ける形となった。
父娘の下へ戻ったヨハンナは、何も知らずに新しい世界への希望に目を輝かせているゾフィーの元へと歩み寄った。
母はプロイセンの間諜という暗い仮面を完全に覆い隠し、再び厳格な母親の顔に戻って、娘の手を強く握り締める。
こうして、莫大な期待と、それ以上に杜撰で危険な陰謀を背負った母娘は、ベルリンを後にし、果てしなき雪原の広がるロシア帝国へと向けて、本当の旅路へと踏み出していくのだった。
当初、父クリスティアン・アウグストは、せめてロシアとの国境まで妻と娘を見送る覚悟であった。
これから未知の大国へと赴く我が子の無事を、一刻でも長く見守りたかったのである。
しかし、一国の領主がその明確な目的を秘したまま、軍事的な緊張感の漂う国境付近に姿を現すことは、近隣諸国にあらぬ疑いを抱かせる危険があった。
プロイセンの廷臣からもその軽率さを強く指摘され、父親は涙を呑んで、ベルリンの地で愛する娘と妻に別れを告げるしかなかった。
「ゾフィー、神の御加護がお前と共にあるように」
父の悲痛な抱擁を背中に受けながら、ゾフィーは自分が引き返せない運命の線を超えたことを知った。
父と別れた母子を乗せた馬車は、ひたすらに東へとひた走った。
ドイツの冬とは比べものにならない、地平線の彼方まで続く果てしない雪原。 しかし、旅の過酷さとは裏腹に、国境へ近づくにつれて、一行を迎える空気は確実に熱を帯びていった。
雪道を抜け、かつて婚約者となるペーターらもロシア入国の際に訪れた、国境の要塞都市リガへ足を踏み入れた時のことである。
一行を待っていたのは、厳寒を吹き飛ばすような民衆の大歓迎であった。
沿道を埋め尽くしたリガの人々は、未来の皇太子妃候補となる北ドイツの美しい姫君を一目見ようと、歓声を上げ、色鮮やかな旗を振った。
地響きのような祝砲が轟き、教会の鐘が鳴り響く。 シュテッティンの古びた要塞で隙間風に震えていたゾフィーにとって、それは生まれて初めて浴びる、地平線を揺るがすほどの「帝国の富と権力」の洗礼であった。
馬車の窓からその光景を見つめるゾフィーの胸は、激しく高鳴っていた。
(これが、私の生きる世界になるのだわ……!)
しかし、熱狂する民衆の向こう側で、母ヨハンナは毛皮の奥に隠したプロイセンの工作資金と暗号書の重みを反芻し、ただ恐怖に身を震わせていた。
ベルリンでフリードリヒ二世から突きつけられた、失敗の許されない過酷な密命。
まともな訓練も受けぬまま押し付けられた暗号書。
見渡す限り広がる、ドイツとはスケールの違う見知らぬ大国の不気味な雪原。
(もし失敗すれば、この子は一体どうなってしまうの――)
歓声が大きくなればなるほど、ヨハンナは底知れぬ孤独と不安に胸を押しつぶされそうになり、ただ必死に娘の手を握り返すことしかできなかった。
大歓迎の余韻を残したまま、馬車は帝国のさらなる深奥――帝都ペテルブルグ、そしてその先にあるモスクワの宮廷へと向けて、雪煙を上げて進んでいくのだった。
母娘は新都ペテルブルグを経由し、モスクワの門をくぐる。そこでは天をも揺るがすほどの大歓迎を受けるが母ヨハンナの心が晴れることはなかった。
第7話「帝国の眩暈」
☆ネタバレコーナー
素人に危うい間諜任務を任せるフリードリヒの脳味噌の構造は如何なるものであったのでしょう。
謎ですね。




