第5話 シュテッティンの田舎姫
第2章 少女ゾフィー・ツェルプスト
北ドイツ・ポメラニア地方の冬は、灰色の湿った冷気に閉ざされていた。
アンハルト=ツェルプスト公国の拠点であるシュテッティンの城は、名ばかりの宮廷であり、その実態は大国に挟まれた辺境の古びた要塞に過ぎなかった。
10歳の頃からこの城で育った少女ゾフィーの視界にあるのは、およそ洗練とは程遠い、逼迫した日常であった。
凍てつく部屋を吹き抜ける隙間風。
部屋の窓を飾るのは、陽光に透ければ一目でそれと分かる、くたびれて何度も縫い直されたカーテンである。
冬の配給用の薪の量をめぐって家令と言い争う使用人たちの声が、薄い壁越しに響いてくる。
この貧相な小国の現実にあって、ただ一人、貴族としての矜持を失わず、猛烈に闘っている者がいた。
ゾフィーの母、ヨハンナ・エリザベートである。
彼女は北ドイツの名門ホルシュタイン=ゴットルプ家の血を引く誇り高き女性であった。
うだつの上がらない小国の老将軍に嫁ぐこととなり、財政は常に火の車であったが、ヨハンナは決して運命に屈しなかった。
彼女は人脈をフルに活用して宮廷外交に奔走し、時には自ら泥をかぶる覚悟で多額の借金を重ねては、城の体裁を維持し続けた。
次々と子を失ったヨハンナが人生のすべてを賭けて投資したのが、一人生き残った長女ゾフィーへの教育であった。
「私たちのような持たざる小国の姫が、大国に引けを取らぬ結婚を掴むには、完璧な知性と教養という武器を持つほかないのです。それが成されなければ、修道院への道しか残されていません」
それがヨハンナの口癖であった。
逼迫した家計の中から、フランス人の優秀な家庭教師マドモアゼル・カルデルを雇い、一流の作法と語学を仕込む。
しかし、ゾフィーは生まれつき我が強く、家庭教師たちが揃って手を焼くほどの、激しい気性とお転婆な我儘さを持った少女であった。
自分の思い通りにならなければ口を尖らせる娘に対し、ヨハンナのしつけは苛烈なまでに厳格を極めた。
甘えを一切許さぬ母の叱責と、根気強い教師たちの指導によって、その剥き出しの自我はようやく、人前で恥ずかしくない程度の洗練された振る舞いへと矯正されていった。
ゾフィーにとって日々のレッスンや厳しい作法は、母に叱られないために必死にこなす窮屈な義務に過ぎなかったのだ。
一七四四年の初頭、ヨハンナの執念とも言える外交努力が、ついに最高の結実を迎える。
プロイセン王、フリードリヒ二世を通じてロシア帝国女帝、エリザヴェータ・ペトロヴナからの公式な招待状が届いたのである。
それは、皇太子ピョートル・フェョードロヴィチの未来の妃候補として、ゾフィーとその母親をモスクワの宮廷へと召喚する内容であった。
なんとそれには、小国の国家予算にも匹敵する一万ルーブルという巨額の準備金の証文が添えられていたのだ。
思わぬ巨大な好機を前にして、ヨハンナの張り詰めていた顔に、ついに歓喜の光が宿った。
彼女は直ちに、その金を財政難に喘ぐ城の借金の返済と、娘に着せる何着もの新しいドレスの仕立て代に使った。
これでもう、お下がりの仕立て直しではない、堂々たる装いで大国の宮廷へ乗り込める。
ヨハンナは我を忘れて慌ただしく身支度の指図を始めた。
急変する事態の中、十四歳になったばかりのゾフィーは、送られてきた婚約者となる少年の肖像画を仰ぎ見て、その精悍な姿に胸を躍らせた。
まだ見ぬ大国への憧れと、この退屈で窮屈な北ドイツの小国からようやく連れ出してもらえるという、少女らしい純粋な興奮。
彼女は母の慌ただしい背中を追いかけるように、期待に胸を膨らませて部屋を飛び出していった。
シュテッティンの城に届いたロシアからの福音は、同時に徹底した「秘密」を要求していた。
正式な婚約が調う前に、この巨大な外交劇がロシア宮廷への影響力拡大を目論む門閥貴族や他国――特にロシアと対立するオーストリアやフランスの耳に入れば、いかなる妨害工作が仕掛けられるか分からない。
それが政治の冷徹なルールであった。
一七四四年一月、ツェルプスト公国の宮廷は、不自然なほどの静寂に包まれていた。
真新しいドレスや旅装を詰め込んだ数台の馬車が、城の裏口に音もなく用意される。
同行を許されたのは、口の堅い一握りの信頼できる使用人たちだけであった。
凍てつく空気の中、馬車へ乗り込もうとするゾフィーの袖を、そっと引く手があった。
振り返ると、そこにはフランス人家庭教師、マドモアゼル・カルデルが立っていた。
我が強く、手がつけられないほどのお転婆だったゾフィーに寄り添い、時には厳しく、時には深い慈愛をもって淑女の作法を仕込んでくれた、もう一人の母とも言える存在である。
隠密の旅ゆえに、大仰な別れの儀式も、長い惜別の時間も許されない。
カルデルはただ、寒さとは異なる理由で小さく震える手でゾフィーの旅外套の襟元を整え、じっとその目を見つめた。
「マドモアゼル・ゾフィー。どこへ行かれても、あなたがご自分を見失わないことを祈っております」
いつもは厳しい教師の、張り詰めた、しかし深い憂いをたたえた声を耳にして、ゾフィーの胸に初めて、生まれ育った故郷を去るのだという実感がこみ上げた。
「ありがとう、先生。あなたの教えを、決して忘れません」
じゃじゃ馬だった少女の、それがシュテッティンの城での最後の言葉となった。
厳格なプロテスタントとしての信念からロシア行きに反対する父クリスティアン・アウグストに連れられて、十四歳のゾフィーは、旅の厚い毛皮に身を包み、馬車へと乗り込んだ。
まずはフリードリヒ2世の待つベルリンへ、そしてその先にある、果てしない氷雪の帝国ロシアへの道を急いだのであった。
プロイセンの若き覇王、フリードリヒ2世と謁見し、励まされるゾフィー。だがフリードリヒは母ヨハンナにある密命を申し付ける。
第6話「フリードリヒの密命」
☆ネタバレコーナー
カルデル嬢の見送りのシーン以外は、ほぼ史実をなぞっています。当時の教育ママは恐ろしい。




