第3話 クレムリンの巨像
モスクワの冬の陽光は、凍てついた空気の中で、奇妙なほど白く鋭い輝きを放っていた。
馬車から降り立ったペーターの足元で、新雪が圧密される硬い音が響く。
かつて彼を厳格に支配したブリュンマーとその腹心たちは、二人のコルフ――公使ヨハンと少佐ニコライの毅然たる介入によって後方の随行列へと遠ざけられ、今はペーターの傍らに割り込むことすら叶わない。
しかし、背後から突き刺さるブリュンマーの冷酷な視線だけは、冷気を通じて少年のうなじにまとわりつき、執拗に離れなかった。
「殿下、歩みをお進めください。陛下がお待ちです」
コルフ少佐が、その巨躯でさりげなくブリュンマーの視線を遮り、ペーターの背を静かに促した。
案内されたのは、モスクワの宮殿の深奥に位置する、果てしなく広い謁見室であった。
扉が開かれた瞬間、ペーターの感覚は圧倒的な光と熱の洪水に気圧される。
天井から吊り下げられた無数のクリスタル・シャンデリアが、数千本もの蝋燭の炎を反射して眩惑的な光景を生み出していた。
壁一面を埋め尽くす金箔の彫刻、贅沢に張られた深紅のスエード、貴族たちの放つ香水と汗の混じり合った濃厚な芳気。
それは、キールの簡素で寒冷な宮廷しか知らない少年王子の脳組織を、一瞬にして麻痺させるに十分な光景であった。
そして、その空間の頂点に、その「巨像」は君臨していた。
ロシア帝国女帝、エリザヴェータ・ペトロヴナ。
ピョートル大帝の血を引くその女性は、ペーターの想像を遥かに超えて巨大であった。
まばゆいばかりの宝石が散りばめられた巨大な輪型のパニエをまとい、豊かな胸元を開帳させたその姿は、あたかも壮麗な城塞のようであった。
彼女の周囲を取り囲むのは、厳格な軍人というよりも、絵画から抜け出たような美貌を持つ近衛兵たち――女帝の個人的な寵愛を受ける若き美男子たちである。
彼らは一様に華美な制服を着崩し、女帝の視線を競い合うようにして控えている。
北ドイツの質素厳格なルター派の宮廷で、宗教的規律と過酷な教育に縛られて育った少年にとって、目の前に広がる光景は完全なる異世界に他ならなかった。
道徳的な秩序の破綻を感じさせるそのあまりの過剰さと華美さは、彼の張り詰めた精神に強い恐怖を伴う圧倒感となって押し寄せ、少年の身体をすくませた。
「おお、私の愛しい子、カール!」
空間を震わせるような、豊かで圧倒的な声が響いた。
大女が、地響きを立てるかのような勢いで玉座から立ち上がり、こちらに向かって直進してくる。
ドレスの裾が擦れる激しい音と、強烈な薔薇の香水の匂いが押し寄せる。
ペーターは本能的に身を硬くし、後退しそうになるのを必死に堪えた。
あまりの威圧感に、呼吸の仕方を忘れたかのようであった。
次の瞬間、ペーターの視界は漆黒と黄金のドレスの布地に覆い尽くされた。
女帝は、駆け寄る勢いのままに若き甥をその太い腕で強く抱きしめたのである。
「なんということでしょう……本当にアンナに、私の美しい姉にそっくりだわ……」
感情を剥き出しにして涙ぐむ女帝の胸の中で、ペーターは全身を棒のように硬直させていた。
恐怖と緊張で心臓が早鐘を打つ。
母親の温もりを知らぬ彼にとって、この突発的で過剰な身体的接触は、愛情というよりも、自分を丸ごと飲み込もうとする巨大な権力の捕食行為のように感じられた。
エリザヴェータの宝飾品がペーターの鎖骨に当たって鈍い痛みを立てるが、彼は声も出せずに、ただ嵐が過ぎざるのを待つ小動物のようにじっと耐えるしかなかった。
しかし、女帝の腕は、ただ盲目的に彼を押し潰していたわけではなかった。
衣服の上からでもはっきりと分かる、甥のあまりにも細い肩の骨。
抱きしめた腕の中に残る、肉の削げ落ちた痛々しいまでの軽さ。
14歳になる少年のものとは到底思えない、やせ細ったその身体の感触が、エリザヴェータの直感を刺した。
女帝の抱擁の力が、わずかに変化する。
彼女はペーターを抱きしめたまま、その鋭い視線だけを動かし、背後に控えるコルフ公使へと向けた。
コルフは静かに、しかしすべてを物語る深い一礼を返した。
(――「ブリュンマーによる教育は、正統なる後継者に対する虐待に等しい。食事を抜かれ、過酷な肉体的な凌辱に晒されている」――)
道中、コルフから極秘裏に送られていたあの信じがたい報告書の内容が、今、女帝の腕の中で冷酷な事実として証明された。
エリザヴェータの歓喜に満ちていた顔が、一瞬にしてロシアの絶対君主としての怒りへと変貌する。
女帝はペーターの細い肩をそっと掴み、その顔を覗き込んだ。
怯えと過敏な光を宿した少年の瞳が、じっと自分を見つめている。
女帝は心の中で、この哀れな異邦の王子をロマノフの庇護の下、次期皇帝として育成せん決意を固めると同時に、背後に潜むホルシュタインの廷臣たちへ向けて、怒りの視線を送った。
だが女帝は即座にブリュンマーらを排斥する挙に出ることはしなかった。
彼らを正式な手続きを経て招請した以上、ここで粗雑な扱いを露呈させることは、今後の対外的な外交関係において深刻な悪影響を及ぼしかねないという、政治的判断が働いたためである。
エリザヴェータは軽挙な行動を厳に慎んだ。
それゆえ、女帝はブリュンマーらの公式な身分と立場を当面は据え置くこととした。
しかし、宮廷の実務において周到に網を張り、彼らとペーターとの物理的・精神的な接触の機会を、日を追うごとに、かつ確実に減少させてゆく。
こうして影響力を完全に骨抜きにされたホルシュタインの廷臣たちは、後年、ペーターが成人を迎えたのち、相応の恩賞を授けられるという名目の下に、事実上放逐される形でロシアの地を後にすることとなる。
モスクワの市民は新女帝を称えて5つの仮設凱旋門を建てていた。
ゼムリャナヤ市街、トヴェルスカヤ通りとミャスニツカヤ通り、キタイゴロド、そしてヤウザ川沿いのヤウザ城前である。
スパスキー門で、彼らはアムブロシイ大主教をはじめとする教会関係者に出迎えられ、女帝を称える祝辞が述べられた。
ウスペンスキー大聖堂での祈りの後、一行はクレムリンを散策した。
エリザヴェータはペーターを街全体を見渡すことができるテレム宮殿へと案内した。
そのすぐ近くには美しい城のような姿のポクロフスキー大聖堂――聖ワシリイ大聖堂が建っていた。
エリザヴェータは少年に、この美しい教会はイヴァン雷帝の時代に建てられたものだと説明した。
クレムリンのテレム宮殿は女帝を迎える準備が整っていたが、彼女はヤウザ川沿いの宮殿、アンネンホーフで過ごすこととし、その日から戴冠式に向けて連日、祝宴が催された。
エリザヴェータが好んだ仮面舞踏会や豪華な舞踏会をはじめ、それらに合わせて夜空には大輪の花火も打ち上げられる。
モスクワ中から集まった貴族や民衆で、街は文字通りお祭り騒ぎの熱気に包まれていた。
そして、四月二五日。 黄金色のドームを抱く純白のウスペンスキー大聖堂で、厳かに戴冠式が行われた。
ロシア正教の重厚な聖歌が響き渡る中、信仰告白に続き、厳粛な祈りが捧げられた。
司教がエリザヴェータの頭に冠を載せようとした、その瞬間である。
エリザヴェータは司教の手から自ら王冠を受け取り、迷いのない動きで己の頭に載せたのだ。
これにより、新たな皇帝は、自らの力によってこの地位を得たのだということを世間に知らしめたのである。
その後、エリザヴェータは12段の階段の頂上にある玉座に着席し、そこで国家の象徴たる双頭の鷲の紋章を手渡された。
ペーターは、その圧倒的な絶対権力の光景を、息を呑んで見つめていた。
己がいつかその座を継ぐべき、ロマノフの王冠の重みとともに。
息つく暇もなくロシア皇帝となるための英才教育が始まるピーター。そこで彼は今まで歩んできた人生を捨て去ることを迫られる。
次回「皇帝への道標」
☆ネタバレコーナー
コルフ少佐はピョートル3世即位後、1762年3月21日の勅令によって彼のために新設した「全警察総総督」という警察行政のトップとして帝国全体の治安維持を統括する任を命じられ、同時にプロイセンのフリードリヒ2世との間の極秘往復書簡の仲介役に抜擢されています。
一方、コルフ公使は、文官の最高峰である「第2階級(正秘密顧問官)」に引き上げられました。
軍人の大将(全軍将官)クラスに匹敵する階級であり、長年の外交面での功績と皇帝からの厚い信頼を示すものでした。さらにデンマークとの開戦回避と調停のための非常に難易度の高い交渉役を務めています。




