第2話 神からの贈り物
カール・ペーター・ウルリヒの父、カール・フリードリヒ公爵は、最愛の息子をスウェーデンの玉座へ就けるため、一刻の猶予も許さず、わずか3歳のウルリヒに神学教授を雇い入れた。
彼の名は、グスタフ・クリストフ・ホスマン。
プロテスタントの牧師である。
彼の家系は多くの科学者や学者を輩出しており、彼自身も、その知恵、人間性、そして類まれな話術を高く評価されていた。
そして公爵は、自らの音楽的な才能を受け継がせるべく、宮廷の狩猟係であったバスティアンに、ペーターへのバイオリン指導を命じた。
バスティアンはアマチュアではあったが、基礎的技術を教えるに十分な技量を有していた。
彼の弟子ペーターはロシアでもヴァイオリンの練習を続け、やがて卓越した音楽家へと成長し、ロシア史上、音楽教育を受け、ヴァイオリンを演奏する唯一の統治者となる。
公爵は、統治者として必須の能力である軍事教育にも力を注いだ。
それは厳格なものではあったが、当時の欧州の基準に照らせば、決して特異なものではない。
未来の君主たる少年が受けるべき、ごく真っ当な義務であった。
公爵は彼に、同世代の少年たちを集めて結成した「本物の少年兵部隊」を与えた。
小さな体に誂えた特注の制服をまとい、兵卒から順当に昇進して少尉に任命されたペーターは、指揮官として木製の銃を掲げ、軍事教練の号令を響かせる。
王族としての正統な教育は、孤独な彼にとって、唯一自分が「主君」であれる誇りの時間であった。
後年、すべてを奪うことになる妻によって、この軍事への純粋な情熱が「大人になっても人形で遊ぶ幼児性」という悪意あるプロパガンダへと歪められるとは、少年は知る由もない。
しかし、これらの教育を通じて、彼の内面にある『ある決定的な特質』が頭をもたげ始める。
ペーターは、その内に「神からの贈り物」を秘めていた。
それは後世の言葉で言えば、突出した知性と感性が生み出す、あまりにも繊細で不均衡な精神の火花であった。
彼のような存在は、往々にして常人の理解を超えた行動原理に従う。
特定の分野における爆発的な集中力、あるいは既存の権威に対する極端なまでの懐疑心や、頑固ともいえる意志。
それは、かのアインシュタインの如きであった。
軍事教練のルールやヴァイオリンの楽譜といった『明確な秩序』には驚異的な集中力を示す一方で、宮廷の曖昧な人間関係には激しく拒絶反応を示した。
他者の悪意や政治的打算を察知するセンサーが鋭敏すぎるがゆえに、彼は周囲との不合理な調和を拒み続けたのである。
多忙な父の背中を追い、亡き母の面影を知らぬまま育ったペーターに、最大の試練が立ちふさがる。
一七三九年、父カール・フリードリヒ公爵が病によってこの世を去ったのだ。
王子、わずか11歳の時の悲劇であった。
遺児となった彼の摂政(後見人)を務めたのは、叔父のアドルフ・フリードリヒであった。
しかし、彼は自身の政治的立場を守るための権力闘争に忙殺され、幼き主君の教育をホルシュタインの宮内大臣、オットー・フォン・ブリュンマーの手へと完全に委ねてしまう。
ペーターの「総監(教育総責任者)」となったブリュンマーは、亡き領主の遺志を継ぎ、未来の君主を育てるべく自ら教鞭を執った。
だが、このスウェーデンの退役軍人あがりである廷臣には、ペーターの内に秘められた「ギフテッド」としての鋭敏な特性を理解する術など持っていなかった。
彼にとって、ペーターの繊細さや過敏さは単なる「ひ弱さ」に映り、独自のこだわりは「奇怪な我が儘」としか映らなかった。
ゆえにブリュンマーは、頑固な少年を「凡庸な王の型」へと矯正すべく、その教鞭を振るう腕に、容赦のない暴力を込めてゆくのである。
その「教育」たるや、まさに筆舌に尽くしがたいものであった。
食事抜きという生理的懲罰に始まり、硬い豆の上に長時間跪かせる肉体的苦痛、さらには首に侮辱的な札を下げさせる精神的凌辱。
見るに堪えない惨状に、侍従や女官らが意見具申を試みようとしたこともあった。
しかし、最高責任者であるブリュンマーの方針に異を唱えられる者など、この宮廷には存在しない。
それどころか、保身のために虐待の片棒を担ぐ者さえ現れる始末であった。
終わりなき地獄に思われた調教の日々は、しかし、ある日突然、海の向こうからやってきた激震によって打ち砕かれる。
ホルシュタインの狭く冷たい宮廷に突如として現れたのは、ロマノフ家の紋章を掲げた、ロシア帝国からの秘密使節団であった。
伯母である女帝エリザヴェータが、自身の後継者として、亡き姉の遺児であるペーターを帝国へと召喚したのだ。
ペーターにとって、ロシアがどのような国であれ、それはブリュンマーによる絶対支配の終焉を意味していた。
ペーターの頬を、安堵と歓喜の涙が伝う。
しかし、その灯火は一瞬にして消し去られた。
ブリュンマーとその腹心である侍従が、教育係としてロシアへも同行するというのだ。
再び絶望の淵に突き落とされかけたペーターを救ったのが、迎えとしてロシアから派遣された公使ヨハン・アルブレヒト・コルフと、32歳の若き警護官ニコライ・アンドレーヴィチ・コルフ少佐であった。
奇しくも同じ姓を持つ二人であったが、両者の間に血縁関係はなかったとされる。
ヨハン・アルブレヒト・コルフ公使の怜悧な観察眼は、ペーターの怯えきった様子と、ブリュンマーらの異常な高圧さから、このホルシュタインの宮廷で何が行われていたかを見抜いていた。
その懸念は、ロシアへと同行する馬車の内部で確信へと変わる。
移動の最中であっても、若き主君に対し容赦のない威圧を続けるブリュンマーらの態度に、ついに二人のコルフは業を煮やした。
「これ以上の無礼は、正統なるロマノフ家の血を引く王位継承者に対する不敬である」
毅然と抗議を突きつけた二人は、怯えるペーターを自らの身体の間に挟みこみ、ブリュンマーらの陰湿な視線と暴力から、少年を守り抜いたのである。
二人のコルフという「盾」に守られながら、馬車は走り続けた。
日を重ねるごとに、窓の外の冬景色はホルシュタインの慣れ親しんだ街並みから、果てしなく広がる深い針葉樹の森と、どこまでも続く白き平原へと移り変わっていく。
彼らは、「デュッカー伯爵一行」という名で旅を続けた。
この策謀が表沙汰になると、彼を国王に推挙しようとするスウェーデンは元より、プロイセンの王、フリードリヒ2世の干渉を受ける恐れがあったためである。
フリードリヒ2世の王妃エリザベート・クリスティーネがヴォルフェンビュッテル家の出身であったため、プロイセンとロシア国内の政敵(女帝の父であるピョートル1世に幽閉された幼君イヴァン6世の一派)が結びつくことは、女帝エリザヴェータにとって最大の悪夢であった。
さらに、ペーターがスウェーデンの王冠を戴けば、ロシアは北方の宿敵とプロイセンによる挟み撃ちに遭うリスクがあった。
だからこそ、この旅は極秘裏に進められなければならなかったのである。
真冬のロシアへの旅は、困難を極めるものであった。
一行は、国境であるリヴォニア自治領の要塞都市リガで雪を駆ける橇へと履き替えると、何かに追い立てられるように先を急いだ。
後年、公使コルフは自らの回顧録の中で、この極限の旅を共にしたペーターの姿を、深い感銘とともにこう振り返っている。
「彼のエネルギーと好奇心は、彼にとって最大の救いとなった。疲労の色が見えたり、物思いに沈んだりするたびに、目に入る事象が彼の気を紛らわせ、私に向かって次々と質問を浴びせかけるのだ。『あれは何? あの人は誰? なぜ? どこ? どうやって?』と。その問いは、まるで泉から湧き出る水のように彼の中から溢れ出て止まらなかった。目を輝かせ、私の答えを貪るように吸収しては、新しい知識を得たことに胸を躍らせる。その姿は、心から恍惚としているように見えた」
一七四二年二月五日。
果てしない白銀の平原を駆け抜けた橇の列は、新都サンクトペテルブルクを通り過ぎ、さらに南、ロマノフ王朝の魂が眠る古都モスクワへと滑り込んだ。
前年にクーデターを成功させたばかりの伯母エリザヴェータ女帝は、自身の戴冠式を執り行うため、宮廷ごと、この古い信仰の都に滞在していたのである。
「デュッカー伯爵」という偽名の仮面を脱ぎ捨て、「ピョートル大帝との血縁を持つ正統なる後継者」として堂々の入城を果たしたその瞬間、モスクワを埋め尽くす数千の教会の鐘が一斉に鳴り響いた。
腹の底に響くような、重厚な真鍮の咆哮。
かつてブリュンマーの調教部屋で聞いた、自分を恐怖させるための怒号や鞭の音とは違う。
それは、彼という存在の到来を世界に知らしめ、祝福するための、地響きのような大音響であった。
「皇太子殿下万歳!」
「エリザヴェータ陛下の御世に栄光あれ!」
沿道を埋め尽くした無数の民衆から、割れんばかりの歓声が湧き起こる。
玉ねぎ型の黄金ドームが冬の低い陽光を浴びて怪しく輝く街並みの中、色鮮やかなカフタンや重い毛皮に身を包んだ群衆がひしめき合い、ドイツから来た若き次期君主の姿を一目見ようと手を振っていた。
五感を刺激する圧倒的な色彩、地を震わせる鐘の音、そして熱狂する人々の地響き。
ペーターはその光景を、息を呑んで見つめていた。
「殿下、ご覧ください」
民衆の熱気から守るように隣に座るコルフ少佐が、低く、誇らしげな声で囁いた。
「これが、これからあなたのものとなる帝国です」
左右を二人のコルフに挟まれ、歓声の渦を進むペーターの胸には、かつてない高揚感が満ち満ちていた。
馬車の隅で、完全に主役の座を奪われ、苦虫を噛み潰したような顔で押し黙るブリュンマーの姿など、もう今のペーターの目には映らない。
鳴り響く祝砲と、自分を称える民衆の波。
その光に満ちた熱狂の向こう側、クレムリン宮殿の奥で、自身の運命を握る絶対権力者――伯母エリザヴェータ女帝が待っている。
少年は、新しい知識を吸収した時と同じように、目を輝かせながら、ロマノフ王朝という名の巨大な舞台へと、ついに最初の一歩を踏み出したのである。
二人のコルフに救われたピーターは、厳寒の長旅の末、モスクワに到着する。そこで待っていたのは偉大なる女帝エリザベータであった。
次回「クレムリンの巨像」
☆ネタバレコーナー
相対性理論で有名なアインシュタインもバイオリンを愛し、その調べを自らの指で奏でていたそうです。
彼もピョートルのようなギフテッドとしての特徴を多く備えていたと言われています。




