第2話 言えなかった三年間
第2話では、史乃が胸の奥にしまってきた三年間の片想いを振り返ります。
ノートを貸した日、雨の放課後、同じ写真に写った距離。
何も起こらなかったからこそ忘れられない、小さな記憶のお話です。
色紙に寄せ書きを書こうとして、ペン先が止まる。
卒業おめでとう。
東京でも頑張ってね。
元気で。
どれも嘘ではないのに、どれも足りなかった。
結局、私は無難な言葉を並べた。
丁寧で、やさしくて、誰にでも書ける文章。
自分の本音からいちばん遠い言葉を、いちばんきれいな字で書いた。
そのとき、ふいに赤い定期入れのことを思い出した。
中学の終わりに母が買ってくれた、少しだけ背伸びした色。
角はもう擦れて、赤はところどころ薄くなっている。
その透明ポケットの奥に、私はずっと小さな写真を入れていた。
文化祭のあとに配られたクラス写真を、自分でも笑ってしまうくらい小さく切って、彼のいる部分だけ残したものだ。
ひどく子どもっぽいと分かっていた。
いつか捨てようと思いながら、結局、今日まで持ってきてしまった。
あれを初めて入れたのは、一年の冬だった気がする。
もっと前かもしれない。
気づいたら好きだった、という言い方はたぶんずるい。
ちゃんと覚えている。
いつからか、はっきり知っている。
二年の学年末試験の前、榊くんに「水瀬、世界史のノート貸して」と言われた日だ。
昼休み、私はお弁当の卵焼きを半分残したまま固まってしまった。
どうして私なの、と思った。
もっと字のきれいな子も、まとめ方のうまい子もいたはずなのに。
けれど彼は何でもない顔で、「水瀬のノート、見やすいから」と言った。
たったそれだけの一言が、あの頃の私には十分すぎた。
放課後、ノートを渡したら、近くにいた女子たちに「ぬけがけじゃん」と笑われた。
もちろん本気ではない、いつものからかいだった。
でも私は顔が熱くなってしまって、うまく笑い返せなかった。
榊くんは困ったように、「俺が頼んだんだって」と言ってくれた。
たったそれだけのことを、私は今もこんなに鮮明に思い出せる。
あの日の帰り、ノートを渡した右手だけ、ずっと熱かった。
駅まで歩くあいだも、家の玄関で靴を脱ぐときも、夕飯の箸を持つときも、その手だけが別の生き物みたいに落ち着かなかった。
好きになる理由なんて、案外そういう小さな一言で十分なのだ。
その頃から私は、彼に話しかけられた日だけ、帰り道の足が少し軽くなるのを知っていた。
駅までの信号が全部青に見えたり、コンビニで買ったミルクティーがいつもより甘く感じたりした。
そんな自分がいかにも単純で、少し恥ずかしかった。
もうひとつ、忘れられない日がある。
二年の夏休み前、放課後の教室で急に雨が降り出した日だ。
窓ガラスに大きな粒が当たり始めて、部活へ向かう子たちが廊下で騒いでいた。
私は日直の仕事で黒板を消していて、教室にはもう数人しか残っていなかった。
「水瀬、傘ある?」
振り返ると、榊くんが机に片肘をついていた。
「あるけど」
「よかった。俺、忘れた」
「……どうするの」
「コンビニで買うしかないかな」
困ったように笑うその顔を見て、私は一瞬、自分の傘を貸したらどうなるだろうと考えた。
彼はどうやって帰るのだろう。
途中まで一緒に歩くのだろうか。
でもそんなこと、言えるはずがなかった。
「無駄な出費だよね」
彼はそう言って、窓の外を見た。
雨はすぐやむと思っていたのかもしれない。
私も、もう少し長くこの時間が続けばいいのにと思った。
教室の蛍光灯が雨雲のせいでいつもより白く見えて、消し残したチョークの粉が湿った空気に馴染んでいた。
何も起こらなかった。
ただ、同じ雨を見ていただけだった。
なのに私は、その日のことまでずっと覚えている。
何も起こらなかった日ほど、あとから宝物みたいになるのはどうしてだろう。
クラス写真を撮るために、みんなが黒板の前へ集まり始めた。
私も加奈に腕を引かれて前へ出る。
榊くんは私の二つ隣に立った。
肩が触れそうで触れない距離。
先生が「もっと詰めて」と言うたびに、胸の中だけが勝手にうるさくなる。
シャッターが切られる。
この一枚にも、私が写る。
榊くんも写る。
だけど、同じ写真にいることと、同じ場所にいられることは、まるで違う。
撮り終わったあと、加奈が耳元で小さく言った。
「ねえ、ほんとにこのままでいいの?」
「なにが?」
「そういうところ」
私は答えなかった。
答えられなかった、のほうが近い。
このままでいいと、自分に言い聞かせてきたのだ。
好きだと知られるのが怖かった。
気まずくなるのも怖かった。
何より、今ある距離が壊れるのが怖かった。
だから何も言わないまま、卒業の日まで来てしまった。
もし告げていたら何か変わったのだろうか、と考えたことは何度もある。
でも、そのたびに、変わってしまうくらいなら今のままでいい、と自分で自分を黙らせてきた。
そうして守ったはずの「今」は、今日で終わる。
式が終わって校門の外へ出るころには、雨脚が少し強くなっていた。
加奈は家族が迎えに来ていると言って、昇降口のあたりで私と別れた。
「風邪ひかないでね」
そう言いながら、最後に妙な顔で笑って、加奈は小さく言った。
「後悔しないように」
私は聞こえないふりをした。
聞こえないふりをしたのに、その言葉だけが雨より強く、背中に残った。
傘をひらいて、校門を出る。
制服の裾に雨粒が跳ねる。
道の脇の花壇には、水を含んだパンジーがうつむいていた。
卒業式の日なのに、世界は驚くほどいつも通りだ。
駅へ向かう道を歩き出してすぐ、後ろから足音がした。
「水瀬」
振り返ると、榊くんが黒い傘を片手に立っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第2話では、史乃が榊くんを好きになったきっかけと、言えないまま積み重ねてきた想いを書きました。
片想いは、大きな出来事よりも、何気ない一言や、ただ同じ雨を見ていた時間のほうが、深く残ることがあるのかもしれません。
次話は最終話です。
雨の卒業式の日、史乃と榊くんは駅まで一緒に歩きます。




