第1話 卒業式の日、雨はやまなかった
卒業式の日、雨の中で終わっていく三年間の物語です。
言えなかった片想いと、もうすぐ離れてしまう教室の空気を、静かに追いかけるお話になっています。
ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。
卒業式の日、雨は朝からやむ気がなかった。
校門の前には、色とりどりの傘がひらいている。
黒、紺、灰色。
ときどき、春を先取りしたみたいな淡い水色やベージュが混じる。
その波にまぎれながら、私は校舎へ向かった。
胸に抱えた卒業証書ホルダーが、思ったより重い。
重いのは、たぶん紙のせいじゃない。
今日が終わるせいだ。
昇降口で上履きに履き替えながら、私は無意識にローファーのつま先を見た。
三年履いた革は少し擦れて、雨を吸って、くたびれている。
そんなものまで、もうすぐ「高校のもの」になるのだと思うと、胸の奥に小さな水たまりみたいな寂しさが広がった。
「史乃、おはよう」
後ろから声をかけられて振り向くと、加奈が濡れた前髪を指で払いながら立っていた。
制服の肩に細かな雨粒が残っている。
「おはよう」
「ついに卒業だね」
「うん」
加奈は私の顔を見て、ふっと笑った。
「朝から、世界の終わりみたいな顔してる」
「してないよ」
「してる。まあ、今日くらいは許されるけど」
どこまで分かって言っているのか、私は聞かなかった。
加奈は昔から、私が隠しているつもりのものを、何でもない顔で見抜く。
教室に入ると、もう何人か来ていて、窓際では写真を撮る声が弾んでいた。
黒板には担任が昨日の放課後に書いたらしい「卒業おめでとう」の文字と、少しいびつな桜の絵。
机の上には配布物の束。
いつもの教室なのに、今日はどこか借り物みたいに見える。
私は自分の席に鞄を置いて、前から三列目、窓側の席を見た。
まだ空いている。
その空いた椅子を見ただけで胸が騒ぐ自分を、私は三年間ずっと持て余してきた。
榊くんは、卒業式の日だろうと、たぶんぎりぎりに来る。
遅刻はしない。
でも、早く来る理由もない、という顔をしている人だった。
朝練のある運動部でもないのに、たまに寝ぐせがついていて、ネクタイも少し曲がっていて、それなのにだらしなく見えない。
そういうところまで、ずるいと思っていた。
私がそれを「ずるい」と思っていることを、もちろん本人は知らない。
チャイムの少し前、教室の後ろの扉が開いた。
何人かが「あ、来た」と笑う。
私は見ないふりをしたくせに、ちゃんと分かってしまう。
席へ向かう足音。
鞄を机に引っかける音。
椅子を引く音。
その全部に、三年間が染みついている。
卒業式は、思っていたよりずっとあっさりしていた。
体育館の空気はひんやりしていて、パイプ椅子は驚くほど冷たい。
校歌も式辞も来賓の祝辞も、全部が遠く聞こえた。
名前を呼ばれて立ち上がり、礼をして、また座る。
そのあいだにも、前の列にいる榊くんの背中が視界に入るたび、胸の奥が小さく鳴った。
四月から、彼は東京へ行く。
それを知ったのは去年の秋だった。
進路希望調査の紙が配られた日の放課後、男子たちが教室の後ろで大学の話をしていて、その輪の中から「東京ならさ」という声だけが耳に残った。
何気ない会話だったのに、私はその一言だけを、落としたガラスみたいに鮮明に覚えている。
そのとき、ああ、と思った。
この人は、ちゃんと遠くへ行ってしまう人なんだ、と。
答辞の声が体育館に響く。
隣の列からすすり泣く音が聞こえる。
私は泣けなかった。
ただ、手の中のホルダーの端を指でなぞっていた。
これが終わったら、終わってしまう。
そう思うたびに、喉の奥が少しだけ苦くなった。
教室へ戻ると、急に現実がほどけたみたいに、みんなが騒ぎ始めた。
寄せ書きを回し、写真を撮り、担任に花束を渡して、笑ったり泣いたりしている。
卒業式そのものより、そのあとのほうがずっと卒業らしい。
私は机の中を空にしながら、いらないプリントと、捨てられない紙切れを分けていた。
何かしていないと、落ち着かなかった。
「水瀬」
名前を呼ばれて顔を上げると、榊くんが立っていた。
「あ……」
「これ、寄せ書き回ってきた?」
「まだ、書いてない」
「じゃあ、あとで俺にも回して」
そう言って、彼は私の机の端に色紙を置いた。
制服の袖口が少し濡れている。
たぶん傘をちゃんと差さずに来たのだろう。
そういうところも、やっぱりいつも通りだった。
「卒業だね」
「うん」
「水瀬、実感ある?」
「……あんまり」
「俺も」
彼は笑った。
その笑い方が、三年間何度も見てきたものと同じで、それだけで泣きそうになる。
「あとでクラス写真撮るらしいよ」
「うん」
「ちゃんと来てね。水瀬、こういうとき端っこに消えそうだから」
「消えないよ」
「ほんとに?」
そのとき、誰かが後ろから榊、と呼んだ。
彼は「あ、呼ばれた」と片手を上げる。
「じゃ、またあとで」
「うん」
またあとで。
その言葉の軽さに救われて、その軽さに傷つく。
私たちは三年間ずっと、そういう距離だった。
特別ではない。
けれど、何でもないとも言い切れない。
教室の中なら自然に話せるのに、一歩外へ出ると急に名前のない関係になる。
近いようで遠い、その曖昧さの上に、私は勝手に気持ちを積み上げてしまった。
そして今日、その曖昧なままの三年間が終わろうとしている。
榊くんの背中が人の輪にまぎれていく。
私は机の上に置かれた色紙を見つめた。
そこに何を書くかで、最後に残る私の言葉が決まってしまう気がした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第1話は、卒業式の日の朝から、史乃が榊くんへの気持ちを抱えたまま、最後の教室にいる場面を書きました。
「またあとで」という何気ない言葉が、卒業の日には少しだけ特別に聞こえる。
そんな距離感を感じていただけたら嬉しいです。
次話では、史乃が三年間言えなかった想いと、忘れられない小さな記憶が描かれます。




