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雨の証明  作者: ちょこまろ


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3/3

最終話 雨の証書

最終話です。


卒業式を終えた雨の帰り道、史乃は榊くんと駅まで並んで歩きます。


言えるかもしれなかった言葉。

言えないまま終わっていく三年間。


雨の音と一緒に、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。

「水瀬」


 振り返ると、榊くんが黒い傘を片手に立っていた。


 肩に鞄をかけ、もう片方の手には卒業証書ホルダーをぶらさげている。


「あれ、同じ方向?」


「駅まで」


「俺も」


 それだけで、自然に並んで歩くことになった。


 歩幅を合わせるでもなく、でも離れもしない、曖昧な距離。


 三年間で何度かあった偶然の帰り道と同じだった。


 違うのは、これが最後かもしれないと私が知っていることだけだ。


「雨、やまなかったね」


「うん」


「晴れてほしかった?」


「どうだろう。晴れてたら、ちゃんと終わる感じがしなかったかも」


 自分でも少し意外なことを言った。


 榊くんは「わかるかも」と笑う。


「俺も、今日雨でよかった気がする」


「なんで?」


「みんな、泣いてもごまかせるから」


 その言い方がおかしくて、私は笑った。


 笑いながら、泣きたくなる。


「榊くんは泣いた?」


「いや、全然」


「そうだと思った」


「水瀬は?」


「……たぶん、まだ」


 まだ。


 その言葉の先を、自分でも分かっていた。


 駅前の商店街に入ると、アーケードに当たる雨音が少し変わった。


 パン屋の前から焼きたての匂いがして、制服姿のまま笑い合う別の学校の生徒たちとすれ違った。


 どこへ行っても、今日が特別なのは自分たちだけではないらしい。


「東京、楽しみ?」


 聞いてから、少し遅れて後悔した。


 もっと違うこと、いくらでもあったはずなのに。


 榊くんは少し考えてから、「半分くらい」と言った。


「半分?」


「楽しみ半分、不安半分。知らない街だし」


「榊くんでも不安になるんだ」


「なるよ。俺、そんな何でも平気そうに見える?」


「ちょっと」


「心外だな」


 彼は笑って、それから少しだけ真面目な声になった。


「でも、出るって決めたから」


「うん」


「出たいと思ったし」


 その一言に、私は何も返せなかった。


 それでいいのだと思った。


 彼には彼の春がある。


 ここじゃない場所へ向かっていく人の顔をしている。


 私が勝手に寂しがっても、その歩幅を止める理由にはならない。


 横断歩道の前で信号待ちをしているあいだ、車のタイヤが水を切る音だけが大きく聞こえた。


 信号機の下で、榊くんが何か思い出したように鞄を探る。


「そうだ」


 彼は制服の内ポケットから、小さく折ったメモを取り出した。


「引っ越したら、たぶんしばらくバタバタするから。これ、向こうの住所」


 白い紙に書かれた文字を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに沈んだ。


 東京の住所。


 それは未来の匂いがした。


 まぶしくて、遠くて、どうしても自分の知らない街の匂い。


「ありがとう」


 それしか言えなかった。


「別に、手紙書けって意味じゃないよ」


「うん」


「でも、近く通ることとかあったら」


「……東京、あまり行かない」


「だよね」


 ふたりで少し笑った。


 本当は、そのとき言えたのかもしれない。


 好きだった、でもよかった。

 行かないで、でもよかった。

 忘れないで、でもよかった。


 たぶん、どれでもよかったのだと思う。


 でも、言葉は喉の手前で全部、雨に濡れた紙みたいにふやけてしまった。


 形を持つ前に、だめになる。


 青信号に変わって、人が一斉に歩き出す。


 私たちもその流れにまぎれて渡った。


 改札の前で、榊くんが立ち止まる。


「じゃあ、ここで」


「うん」


 傘を閉じる音。

 制服の袖を払う仕草。


 そんな一つひとつが妙にはっきり見える。


「水瀬」


「なに?」


「元気でね」


 たったそれだけの、クラスメイトに向けるには十分な、でも私にはまるで足りない言葉。


「榊くんも」


 彼は軽く手を上げて、改札の向こうへ消えた。


 呼び止めることはできなかった。


 人の流れの中に、見慣れた背中が紛れていく。


 あんなに何度も見てきたのに、届かないものになるのは一瞬だった。


 その背中が見えなくなった瞬間、もう二度と、理由もなく名前を呼ばれることはないのだと思った。


 明日からは、同じ教室の空気を吸うこともない。


 帰り道が少しだけ重なる偶然もない。


 自然に隣を歩ける季節が、たった今、終わったのだと思った。


 私はその場に立ち尽くして、メモを握りしめた。


 掌の中で、紙が少しだけ湿っていく。


 雨のせいか、汗のせいか、分からない。


 そのときになってやっと、息がうまく吸えなくなった。


 ああ、終わったんだ、と思った。


 今日で終わるのは高校生活だけじゃない。


 明日から、教室で当たり前みたいに同じ空気を吸うことも、廊下ですれ違うことも、何かのついでに話しかけられることも、もうないのだ。


 私は今まで、そのことを本当には分かっていなかった。


 家に帰ると、母は「おかえり、おめでとう」と言って台所から顔を出した。


 私は「ただいま」とだけ答えて、自分の部屋へ逃げるみたいに入った。


 鞄を置いて、ベッドの上に座る。


 部屋の静けさが、やけに広く感じる。


 卒業証書ホルダーを机の上に置き、赤い定期入れを取り出す。


 透明ポケットの奥に、少し色褪せた小さな写真。


 笑っているクラスメイトたちの中に、榊くんがいる。


 たったそれだけの紙切れを、私は何年も持ち歩いてきた。


 机の上に、今日もらったメモを並べる。


 住所は、丁寧でも雑でもない字で書かれていた。


 見慣れた、授業中のプリントの端に走らせるのと同じ字。


 東京。


 その文字を見ていたら、急に涙が落ちた。


 ひとつ落ちると、次も、その次も止まらない。


 何が悲しいのか、自分でもうまく説明できない。


 ただ、今になってようやく分かった。


 私は、ただ卒業が寂しいんじゃなかった。


 ただのクラスメイトでいることが、思っていたよりずっと幸せだったのだ。


 朝、教室に入れば同じ場所にいること。


 授業中、何でもない顔で窓の外を見る横顔が視界に入ること。


 ノートを貸して、と頼まれること。


 帰り道が少しだけ重なること。


 夏の夕立を同じ窓から眺めること。


 そんなふうに、何の約束もなく同じ時間を過ごせること。


 あれは全部、当たり前なんかじゃなかった。


 好きだったのだと思う。


 きっと、ずっと前から。


 でも、好きだと口にしたら壊れてしまう気がして、三年間、名前をつけないまま大事にしてきた。


 大事にしすぎて、結局、何ひとつ届かないところまで持ってきてしまった。


 窓の外で、雨はまだ降っている。


 もうこの制服を着ることもないのだと、ふと思った。


 クローゼットの扉にかけたセーラー服の襟が、部屋の明かりの下で少し青く見える。


 あの制服を着ていたから、私は彼と同じ教室にいられた。


 そう思うだけで、また胸が詰まった。


 私はメモをそっと閉じて、定期入れの奥の写真を見つめた。


 この先、桜が咲いて、春が来て、それぞれ別の場所で暮らしていくのだろう。


 彼は東京で新しい友達を作って、新しい景色を見る。


 私はここで、進学先の教室に座る。


 世界は何事もなかったみたいに続いていく。


 それでも、今日までの時間だけは消えない気がした。


 失くして初めて分かるものがあるなんて、少し悔しい。


 でもたぶん、そうやってしか気づけない光もある。


 机の上の卒業証書ホルダーに手を置く。


 冷たい表面の向こうに、今日という日が静かに収まっている。


 私は涙を拭いて、もう一度だけメモを開いた。


 そこに書かれた住所を、指先でなぞる。


 手紙を書くかどうかは、まだ分からない。


 たぶん、すぐには書けない。


 雨の音は、少しだけやわらいでいた。


 私は窓を少しだけ開けた。


 湿った春の匂いが、ひんやりと部屋に入ってくる。


 遠くで電車の走る音がした。


 あの線路の先に、東京へ続く道もあるのだろうと思う。


 明日、空が晴れるかどうかは分からない。


 でも、きっと春は来る。


 その春を、今度はひとりで歩いていくのだと思いながら、私はしばらく、濡れた町を見つめていた。


 そして、机の上の白いメモを、写真の隣にそっと置いた。


 今はまだ、過去と未来のあいだにあるこの痛みを、閉じずにおきたかった。


 言えなかった言葉も、渡せなかった気持ちも、全部まとめて今日の雨の中に置いていくみたいに、私は静かに目を閉じた。


 ただ、会いたかった。


 明日も教室で、何でもない顔で「おはよう」と言いたかった。


 それがもう叶わないことだけが、雨の匂いみたいに、いつまでも部屋に残っていた。


― 完 ―

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


この物語は、告白できなかった片想いのお話でした。


好きだと伝えられなかったことは、きっと後悔として残ります。

けれど、同じ教室で過ごした時間も、何気ない会話も、雨の日に並んで歩いたことも、史乃にとっては確かに大切な証だったのだと思います。


卒業は、何かが終わる日であり、同時に、それぞれの春へ歩き出す日でもあります。


史乃の雨の日の記憶が、読んでくださった方の心にも、少しだけ残っていたら嬉しいです。

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