第142話 約束の向こう側
扉は開いた。
その先に立っていたのは、母と同じ笑顔を浮かべる女性。
本物なのか。
記憶なのか。
それとも“約束”が見せる景色なのか。
優斗は、人生で一番会いたかった人へ手を伸ばす。
琥珀色の光が地下空間を包み込んでいた。
振動が止まる。
風も止まる。
時間だけが、ゆっくりと流れているようだった。
優斗は一歩踏み出す。
「母さん。」
女性は微笑んだ。
その笑顔は、何度も夢で見た笑顔だった。
優しい目。
少しだけ右に傾く首。
そして、笑うと小さくできる目尻のしわ。
間違えるはずがない。
「優斗。」
名前を呼ばれた瞬間。
胸の奥で何かがほどけた。
優斗は駆け出そうとする。
しかし。
足が止まった。
「……違う。」
自分でも驚くほど冷静な声だった。
女性は悲しそうに笑う。
「気づいたんだね。」
優斗は拳を握る。
「母さんなら。」
喉が震える。
「俺に“ありがとう”って言う。」
女性は静かに目を閉じた。
そして。
「正解。」
その姿が揺らぐ。
光の粒になって崩れ始めた。
「待って!」
優斗が叫ぶ。
女性は最後まで笑っていた。
「私は、お母さんが残した記憶。」
「……。」
「でも。」
光が優斗の頬を撫でる。
「想いは、本物。」
その言葉と共に。
女性は光へ溶けた。
優斗は立ち尽くす。
会えた。
でも会えていない。
涙が止まらなかった。
灯が隣へ立つ。
何も言わない。
ただ、一緒に泣いていた。
その時。
琥珀色の空間の中央に、小さな木箱が現れた。
誰も触れていない。
自然とそこに現れた。
蓮司が息を呑む。
「兄さん……。」
木箱には、道標の紋章。
そして、古い焼印で刻まれた文字。
『拓海』
優斗はゆっくり近づく。
手を伸ばす。
「開けて。」
灯が初めて自分から言った。
優斗は蓋を開く。
中には、一冊の手帳が入っていた。
黒い革表紙。
角は擦り切れている。
毎日持ち歩いていたことが分かる。
「父さんの日記。」
蓮司が小さく呟く。
優斗は最初のページを開いた。
『六月二日』
『優斗が初めて黒糖飴を噛んだ。』
優斗は思わず笑った。
「そんなことまで。」
ページをめくる。
『七月十五日』
『優斗は転んでも泣かなかった。』
まためくる。
『八月一日』
『今日、灯と友達になった。』
優斗の手が止まる。
「灯。」
灯は照れたように笑った。
「覚えてない?」
「少しだけ。」
断片だった。
川。
夏祭り。
黒糖飴を半分こした記憶。
優斗は胸が熱くなる。
さらにページをめくる。
そこから文字の雰囲気が変わっていた。
乱れている。
焦っている。
『九月二十三日』
『始まってしまった。』
『もう時間がない。』
『国道の下へ隠す。』
『真琴に託す。』
『蓮司には最後まで知らせない。』
蓮司の表情が凍りつく。
「俺に……知らせなかった?」
真琴は目を伏せた。
「約束だったの。」
蓮司は何も言えない。
優斗は次のページを開く。
そこだけ、赤いインクで書かれていた。
『もし、優斗がここまで来たなら。』
『もう隠す意味はない。』
全員が息を呑む。
次の一文を読んだ瞬間。
地下空間の空気が変わった。
『国道の下に隠したのは、物じゃない。』
優斗の鼓動が速くなる。
『人だ。』
「……え?」
教育係が顔を上げる。
E-01の瞳が激しく点滅した。
「生命反応を確認。」
「どこだ!」
「地下最深部。」
一本道のさらに奥。
今まで暗闇だった場所に、一つの光が灯る。
カプセルだった。
透明な円筒。
中に、一人の人影が眠っている。
優斗は息を止めた。
黒い髪。
穏やかな顔。
首元には、道標の紋章。
そして。
優斗は、その顔を知っていた。
アルバム。
家族写真。
三日前の写真。
全部同じだった。
「父さん……。」
透明なカプセルの中で。
拓海の指先が。
ほんのわずかに動いた。
第142話、ありがとうございました。
今回は、扉の先で待っていた“母”が、記憶として残された最後の想いだったことが明らかになりました。
そして、拓海が残した日記によって、黒糖飴や灯との思い出が少しずつ繋がり始めます。
しかし、一番大きな真実は最後にありました。
国道の下へ隠されていたのは「物」ではなく、「人」。
透明なカプセルの中で眠る拓海の指が動いた瞬間、物語は過去を追う旅から、父を取り戻す物語へと変わります。




