第136話 国道の下で待つ声
暗闇へ続く階段。
その先から聞こえたのは、優斗が一番忘れられなかった声だった。
「やっと、来たのね」
本当に母なのか。
それとも、母が残した“何か”なのか。
優斗は、物語の原点だった国道の下へ足を踏み入れる。
一段。
また一段。
優斗は慎重に階段を下りていく。
湿った空気が頬を撫でた。
土の匂い。
コンクリートの冷たさ。
上から差し込む光は、もう背中しか照らしていない。
「深いな……」
教育係が後ろを振り返る。
「出口は見えてる。落ち着いて進め」
E-01の瞳が青く光った。
「地下空間を確認。人工構造物です」
「人工?」
「はい。自然の洞窟ではありません」
優斗は壁に触れた。
古いコンクリート。
ところどころ補修された跡がある。
誰かが管理していた。
しかも、長い間。
「母さんが……?」
答えはない。
その時だった。
カラン。
階段の下で、小さな音が響いた。
全員が足を止める。
「誰かいる」
優斗が小さく呟く。
静寂。
そして再び。
カラン。
金属が揺れるような音だった。
「行くぞ」
教育係が前へ出る。
数分ほど下ると、階段は終わった。
目の前に広がっていたのは、地下通路だった。
優斗は言葉を失う。
天井は意外と高い。
古い照明が一定間隔で並んでいる。
そのほとんどは消えているが、数本だけが弱く灯っていた。
まるで、誰かが今でも電気を通しているようだった。
壁には、赤いペンキで矢印が描かれている。
『→』
その横に、小さな文字。
『ひだまり』
優斗は息を呑んだ。
「また、この名前だ」
女性が頷く。
「ここが、本当の“ひだまり”よ」
「本当?」
「地上の建物は入口に過ぎない」
優斗は通路の奥を見た。
矢印はさらに続いている。
歩き始める。
靴音だけが響く。
コツ。
コツ。
コツ。
その音が、不思議なくらい懐かしかった。
「……来たことがある」
優斗は立ち止まった。
「え?」
教育係が振り返る。
「覚えてない。でも……」
壁を見る。
天井を見る。
空気を吸う。
「ここを歩いた気がする」
女性は優しく笑った。
「その感覚でいいの」
「やっぱり俺は……」
「ここに来ていた」
優斗は拳を握る。
記憶はない。
それでも身体が覚えている。
幼い頃。
ここを歩いた。
その時。
通路の壁に、一枚の落書きを見つけた。
小さなクレヨンの絵。
太陽。
家。
そして。
大人と子供が手を繋いでいる。
優斗は息を止めた。
「これ……」
絵の横に、子供の字で名前が書かれている。
『ゆうと』
「……俺だ」
震える指で文字に触れる。
クレヨンは色褪せている。
でも確かに残っていた。
女性が静かに言う。
「あなたが描いた絵よ」
優斗の胸が締め付けられた。
自分の記憶は消えても。
自分が残したものは、ここに残っていた。
「母さんと描いたのか?」
女性は頷いた。
「一緒に笑っていたわ」
優斗は目を閉じた。
思い出せない。
それが悔しかった。
「思い出したい」
その一言に、女性の表情が揺れた。
「焦らないで」
「でも!」
「無理に開く記憶は、人を傷つける」
老人も同じことを言っていた。
みんな同じ言葉を口にする。
それだけ、この記憶には理由がある。
通路の奥で、また声がした。
「優斗」
今度は、はっきり聞こえた。
優斗が駆け出そうとする。
「待て!」
教育係が腕を掴む。
「罠かもしれない」
E-01が周囲を走査する。
「熱源なし」
「じゃあ声は?」
「音源を特定できません」
優斗は深呼吸した。
走りたい。
でも、ここまで来て焦れば台無しだ。
ゆっくり進む。
通路の先で、道が二つに分かれていた。
左。
右。
左には古い木の看板。
『記録室』
右には錆びたプレート。
『約束の間』
優斗は二つを見比べた。
「約束の間……」
女性の顔色が変わる。
「そこは」
「知ってるのか?」
「私も入ったことがない」
「え?」
「入る資格があるのは、一人だけ」
女性は優斗を見つめた。
「あなたよ」
優斗は右の扉へ歩いた。
古い鉄の扉。
中央に、小さな鍵穴。
手の中の鍵を見る。
「これだ」
差し込む。
カチッ。
鍵は、驚くほど軽く回った。
ガコン。
扉がゆっくり開く。
中は暗かった。
だが、中央だけに光が差している。
一脚の木製椅子。
その前に、小さな机。
机の上には、一台の古いカセットテープレコーダー。
そして、一冊のアルバム。
優斗は震えながら近づく。
テープには母の字で書かれていた。
『優斗へ』
指先が震える。
これまで手紙だった。
写真だった。
ノートだった。
でも今度は違う。
母の声、そのものが残っているかもしれない。
女性が静かに言う。
「それは、あなたが来た時だけ再生する約束だった」
優斗は再生ボタンに指を置く。
カチッ。
テープが回り始める。
ザー……。
ノイズ。
数秒の沈黙。
そして。
「優斗」
母の声だった。
優斗の瞳から、一粒の涙がこぼれる。
「もし、この声を聞いているなら」
テープは続く。
「あなたは約束を守って、ここまで来てくれたんだね」
優斗は嗚咽をこらえた。
「ごめんね」
母の声が震える。
「あなたから記憶を隠したのは、私が弱かったからじゃない」
少しだけ息を吸う音。
そして。
「あなたのお父さんとの約束を守るためだった」
部屋の空気が凍りついた。
優斗は動けない。
「……父さん?」
今まで、一度も語られなかった存在。
その名前が、ついに母の口から語られた。
テープの向こうで、小さく息を吸う音が聞こえる。
「あなたは、お父さんのことをほとんど知らないよね」
優斗は黙ったまま頷いた。
もちろん、テープの母には見えない。
それでも、自然とそうしていた。
「ごめんね。私が話さなかった」
「話せなかった、の方が正しいかな」
ノイズが少し混じる。
ザーッ……。
それでも、母の声は途切れない。
「お父さんは、悪い人じゃない」
「最後まで、あなたを守ろうとした人」
優斗の胸が締め付けられる。
「だったら、なんで……」
思わず声が漏れる。
テープは答えるように続いた。
「あの日、国道で約束をしたの」
「もし私たちに何かあったら、優斗だけは未来へ送り出そうって」
教育係が息を呑む。
女性は静かに目を閉じた。
どうやら、その約束を知っていたらしい。
「だから私は、あなたの記憶を眠らせた」
「思い出せば、戻ろうとしてしまうから」
優斗は拳を握る。
「戻る?」
どこへ。
何のために。
その答えは、まだ語られない。
代わりに、母は優しく笑うような声になった。
「でも、ここまで来たなら大丈夫」
「あなたはもう、一人じゃない」
その言葉に、優斗の頭をよぎる顔があった。
教育係。
E-01。
老人。
白い少女。
ひだまりで出会った女性。
国道で出会ってきた人たち。
確かに、自分はもう一人ではなかった。
「机の上のアルバムを開いて」
優斗は震える手でアルバムを開く。
一ページ目。
若い頃の母。
その隣には、笑う父。
初めて見る父の顔だった。
「……似てる」
教育係が小さく笑う。
「目元がそっくりだ」
優斗も思わず笑った。
こんな状況なのに、不思議と涙が止まらなかった。
ページをめくる。
幼い自分。
三人で手を繋いでいる写真。
さらに次。
国道沿いの景色。
そして、一枚だけ異質な写真があった。
夜の国道。
道路の中央。
丸いマンホールのような蓋。
その上に、白い花びらが散っている。
写真の裏には、母の字。
『入口』
優斗は写真を持ち上げた。
「入口……」
女性が頷く。
「その場所は、今も残ってる」
E-01が地図を照合する。
「一致しました」
「どこだ?」
「優斗さんが眠っていた地点から、およそ二十三メートル先」
優斗は息を呑んだ。
「あの日のすぐ近く……」
テープが最後の言葉を残す。
「優斗」
「ここから先は、私じゃなく、あなたが選ぶ道」
「黒糖飴を忘れないで」
「それは、約束を開く鍵だから」
カチッ。
テープが止まった。
部屋に静寂が戻る。
誰もすぐには口を開けなかった。
優斗はアルバムを閉じる。
そして、写真を一枚だけ胸ポケットへ入れた。
父と母、そして幼い自分が写る写真。
「行こう」
その一言に、全員が頷く。
国道の下に眠る本当の入口へ。
優斗は二粒の黒糖飴を握りしめ、地下通路のさらに奥へ歩き始めた。
その頃――。
地上の国道では、一台の黒い車が静かに停車していた。
スーツ姿の男が地下へ続く場所を見つめ、小さく呟く。
「やっと動き出したか」
男の胸元には、見覚えのある紋章が光っていた。
それは、アルバムの父が身につけていたバッジと、同じ紋章だった。
今回は、ついに国道の下へと足を踏み入れ、「本当のひだまり」と呼ばれる地下空間が姿を現しました。
幼い優斗が描いた落書き。
「約束の間」。
そして、母が残したカセットテープ。
これまで文字として残されてきた母の想いが、ついに“声”となって優斗へ届きます。
そして最後に明かされた言葉。
「あなたのお父さんとの約束を守るためだった」
今まで物語から意図的に遠ざけられていた“父”という存在が、ここから物語の核心へと繋がっていきます。




