第131話 母が最後に出会った老人
母が残した黒糖飴。
そして、「次は、あなたが渡す番」という白い少女の言葉。
主人公は再び国道へ戻り、次の出会いを求めて走り始める。
その先で待っていたのは、母が最後に黒糖飴を渡したという、一人の老人だった。
国道を走っている。
風は穏やかだった。
昨日までの雨が嘘のように、空は青い。
主人公は、いつもよりゆっくりペダルを踏んでいた。
胸ポケットには、母が残した黒糖飴。
そして、昨日ひだまりでもらった言葉が頭から離れない。
『次は、あなたが渡す番。』
「……誰に渡すんだろうな。」
独り言を呟く。
答えてくれる人はいない。
もちろん、白い少女もいない。
それでも主人公は、不思議と焦っていなかった。
誰かを探して走る必要はない。
出会うべき人には、きっと出会う。
そんな気がしていた。
国道沿いに小さな集落が見えてきた。
商店が数軒。
古い公民館。
小さな神社。
そして、道路脇に一台の古いベンチ。
主人公はその前を通り過ぎようとした。
その時だった。
「……すまん。」
声がした。
主人公はブレーキを握る。
振り返る。
ベンチに、一人の老人が座っていた。
年齢は七十代くらいだろうか。
古びた帽子を被り、膝の上には小さな紙袋を置いている。
「どうしました?」
主人公がロードバイクを降りる。
老人は困ったように笑った。
「ちょっとだけ、話し相手になってくれんか。」
「俺でよければ。」
主人公は老人の隣に腰を下ろした。
老人は少し驚いた顔をした。
「旅の途中か?」
「はい。」
「ロードバイクで?」
「そうです。」
「昔のワシなら、そんなもんで日本中を走るなんて馬鹿げとると言っただろうな。」
老人が笑う。
主人公も笑った。
「よく言われます。」
「そうか。」
二人はしばらく国道を眺めた。
車が一台、二台と通り過ぎていく。
老人は小さく息を吐いた。
「……ワシはな。」
「はい。」
「ずっと後悔していることがある。」
主人公は黙って聞いた。
老人は紙袋を見つめている。
「昔、ある人に酷いことを言った。」
「大切な人だったんですか?」
「……妻だ。」
主人公は何も言わなかった。
老人が話しやすいように、ただ隣にいる。
「若い頃のワシは、仕事ばかりだった。」
「家族より仕事。」
「金を稼ぐことが、家族を幸せにすることだと思っていた。」
老人は苦笑した。
「妻が何か話しかけても、『忙しい』と言っていた。」
「子どもが遊んでほしいと言っても、『また今度』と言った。」
「……。」
「その『また今度』が、来なかった。」
主人公は老人を見る。
「奥さんは……?」
「もういない。」
老人は静かに答えた。
「病気だった。」
「最後まで、ワシは仕事を優先した。」
「そして、最後の日。」
老人の声が震えた。
「妻はワシに、『あなたは優しい人よ』と言った。」
主人公は少し驚いた。
「でもワシは、自分が優しい人間だなんて思えなかった。」
「何もしてやれなかったからだ。」
老人は俯いた。
「だから、ずっと後悔している。」
主人公はしばらく考えた。
何を言えばいいのか分からない。
母なら、何と言うだろう。
きっと簡単な慰めはしない。
「……奥さんは、本当にそう思ってたんじゃないですか。」
老人が顔を上げる。
「何がだ?」
「優しい人だって。」
「でもワシは――」
「優しい人って、ずっと優しいことをする人じゃないと思います。」
主人公は国道を見る。
「間違うこともあるし、後悔することもある。」
「それでも、誰かを大切にしたいと思えるなら……。」
主人公は少し笑った。
「その気持ちは、なくならないんじゃないですか。」
老人は黙った。
長い沈黙。
やがて、老人の目から涙が落ちた。
「……そうなのかな。」
「俺には分かりません。」
主人公は正直に答えた。
「でも、俺だったら……そう思いたいです。」
老人は涙を拭いた。
そして、膝の上の紙袋を見つめる。
「実はな。」
「はい。」
「妻が亡くなる少し前、ある女性に会った。」
主人公の胸がざわついた。
「女性?」
「ああ。」
老人は紙袋から何かを取り出した。
小さな黒糖飴だった。
主人公の目が止まる。
「……それ。」
老人は飴を見る。
「知っているのか?」
主人公は胸ポケットから、自分の黒糖飴を取り出した。
二つを並べる。
包み紙は違う。
けれど、同じ黒糖飴だった。
老人は驚いた。
「君も持っているのか。」
「母から受け継いだものです。」
「……母?」
「はい。」
主人公は母の話をした。
ひだまり。
黒糖飴。
約束のノート。
そして、亡くなった母。
老人は黙って聞いていた。
やがて、その顔に驚きが浮かんだ。
「まさか……。」
「どうしました?」
老人は主人公をじっと見つめる。
「君の母親……名前を聞いてもいいか?」
主人公が母の名前を告げる。
老人の手が震えた。
「……やっぱり。」
「知ってるんですか?」
「あの人だ。」
老人は黒糖飴を握りしめた。
「ワシの妻が最後に受け取った黒糖飴をくれた人だ。」
主人公は言葉を失った。
母は、妻を亡くした老人のことを知っていたのだ。
いや。
もしかすると――
母は、この老人の妻に会っていた。
そして黒糖飴を渡した。
老人は遠くを見る。
「妻は、その飴を大切にしていた。」
「亡くなるまで?」
「ああ。」
老人は笑った。
「最後まで、一度も食べなかった。」
「……どうして?」
「ワシに渡すためだと言っていた。」
主人公は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
老人は続ける。
「でもな。」
「妻は、その飴をワシに渡せなかった。」
「亡くなってしまったから。」
老人の手の中で、黒糖飴が小さく揺れた。
「だからワシは、何年も持っていた。」
主人公は老人を見る。
「どうして?」
「分からん。」
老人は笑った。
「捨てることもできなかった。」
「食べることもできなかった。」
「ただ、持っていた。」
主人公は自分の黒糖飴を見る。
母から受け取ったもの。
そして、この老人が持っているもの。
同じ一粒の飴なのに、それぞれ違う人生を背負っている。
その時だった。
老人が主人公へ紙袋を差し出した。
「これを……君に渡したい。」
主人公は驚いた。
「俺に?」
「そうだ。」
「でも……大切なものですよね。」
老人は首を横に振った。
「もう、ワシが持っている必要はない気がする。」
「……。」
「妻が最後に受け取った優しさだ。」
老人は微笑む。
「今度は、誰かに渡してやりたい。」
主人公はすぐには受け取れなかった。
「本当にいいんですか?」
「ああ。」
「ありがとうございます。」
主人公は両手で受け取った。
その瞬間。
風が吹いた。
国道沿いの木々が揺れる。
老人が空を見る。
「……不思議だな。」
「何がですか?」
「君に会ったら、妻にもう一度会えたような気がした。」
主人公は笑った。
「俺は、母にそっくりなんですかね。」
「顔じゃない。」
老人は首を振った。
「雰囲気だ。」
主人公は少し照れた。
「母には、かなわないですよ。」
「そうでもない。」
老人は笑った。
「君も、同じことをしている。」
主人公は何も言えなかった。
老人の手には、もう黒糖飴はない。
主人公の手には、老人から受け取った黒糖飴がある。
そして自分のポケットには、母から受け取った黒糖飴。
二つの飴。
二つの人生。
二つの優しさ。
主人公は静かに立ち上がった。
「じゃあ、俺は行きます。」
「そうか。」
「また、ここを通ったら寄ります。」
老人は笑った。
「その時は、もっと話をしよう。」
「はい。」
主人公はロードバイクにまたがった。
走り出そうとした、その時。
老人が呼び止めた。
「兄ちゃん。」
「はい?」
「一つだけ頼みがある。」
「何ですか?」
「その飴を……誰かに渡してくれ。」
主人公は笑った。
「もちろんです。」
ペダルを踏む。
国道を走り出す。
しばらくしてから、主人公は後ろを振り返った。
老人はまだベンチに座っていた。
そして、こちらへ手を振っている。
主人公も手を振り返す。
やがて老人の姿が小さくなる。
主人公は前を向いた。
胸ポケットには二粒の黒糖飴。
母から受け取った一粒。
そして、老人から託された一粒。
どちらも、誰かの人生を通ってきた。
だからこそ――
次に渡す人の人生にも、何かを残すのかもしれない。
主人公はペダルを踏み込んだ。
その時、道の先に白い花びらが舞った。
一枚。
二枚。
そして――
三枚。
主人公は目を細める。
「……また、案内してくれるのか?」
風の向こう。
白い少女が一瞬だけ見えた。
少女は何も言わない。
ただ、国道の先を指差している。
主人公は笑った。
「分かった。」
「行ってみるよ。」
少女の姿が消える。
主人公はそのまま走り続けた。
まだ知らない。
その先にある出会いが――
母の過去だけではなく、
自分自身の未来を大きく変えることを。
今回も読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、母が最後に黒糖飴を渡した人物との出会いを描きました。
老人が抱えていたのは、長年の後悔。
そして、その後悔の中に残っていたのは、亡くなった妻から受け取った「優しさ」でした。
主人公は老人の過去を変えることはできません。
亡くなった人を取り戻すこともできません。
それでも、老人の話を聞くことはできた。
そして老人もまた、最後に黒糖飴を次の誰かへ託すことを選びました。
ここで、母から始まった優しさが、また一人の人間を通して主人公へ繋がりました。
そして主人公の手には、二粒の黒糖飴。
母から受け取ったもの。
老人から託されたもの。
次は、その二粒が誰の手へ渡るのか。
白い少女が示した国道の先で、また新しい出会いが始まります。




