第129話 黒糖飴を配り始めた理由
古いアルバムに残されていた、母の言葉。
「私が黒糖飴を配り始めた理由」
その続きを知るため、主人公はページをめくる。
そこに書かれていたのは、母自身が経験した、ある小さな出来事だった。
主人公は、アルバムの前から動けなかった。
『私が黒糖飴を配り始めた理由。』
その一文の下には、まだ何も書かれていない。
次のページに続いている。
主人公はゆっくりとページをめくった。
そこには、母の字で文章が綴られていた。
『あの日、私は何もできなかった。』
主人公の指が止まる。
何もできなかった。
その言葉が、胸に引っ掛かった。
母は、昔から人に優しかった。
主人公の記憶の中でもそうだった。
困っている人がいれば声を掛ける。
誰かが落ち込んでいれば、そっと隣に座る。
そして、いつも黒糖飴を一粒渡していた。
主人公は、それが母の性格なのだと思っていた。
けれど――
その始まりには、何か理由があった。
主人公は続きを読んだ。
『私は、ある女の子に出会いました。』
『その子は、いつも一人でした。』
『笑わない子でした。』
『誰かが話しかけても、返事をしませんでした。』
主人公はページをめくる。
古い写真が挟まっていた。
小さな女の子が一人で写っている。
施設「ひだまり」の庭だろう。
女の子はベンチに座り、膝を抱えている。
主人公は写真を見つめた。
「……この子は?」
店主が隣から覗き込む。
「ああ……。」
老人の表情が変わった。
「この子か。」
「知ってるんですか?」
「覚えているよ。」
老人は写真を見ながら、静かに答えた。
「とても静かな子だった。」
主人公はアルバムへ視線を戻した。
『私は、その子に何度も話しかけました。』
『でも、何も答えてくれませんでした。』
『何を言えばいいのか分からなくなりました。』
『私は、その子を笑わせてあげたかった。』
『でも、何もできませんでした。』
主人公は黙っていた。
母でも、何もできないことがあった。
それは当たり前のことなのかもしれない。
人を助けたいと思っても、どうすればいいのか分からないことはある。
主人公は続きを読んだ。
『ある日、私は自分の鞄の中に黒糖飴が入っていることに気付きました。』
『母からもらったものでした。』
主人公の胸が少し熱くなる。
『私は、その子に黒糖飴を一つ渡しました。』
『その子は、しばらく飴を見つめていました。』
『そして――』
次のページには、短い一文だけが書かれていた。
『初めて笑いました。』
主人公は息を止めた。
写真が一枚、ページの間から落ちた。
拾い上げる。
そこには、さっきの女の子が写っていた。
今度は笑っている。
手には黒糖飴。
母が隣で笑っている。
「……これが、始まりだったんだ。」
店主が頷いた。
「そうだ。」
主人公は写真を見つめた。
『私は、その時に思いました。』
『人を幸せにするために、大きなことをする必要はないのかもしれない。』
『何かを解決できなくてもいい。』
『話せなくてもいい。』
『ただ、隣にいて、小さな甘さを渡すことならできる。』
『だから私は、それから黒糖飴を持ち歩くようになりました。』
主人公は胸ポケットに手を入れた。
そこには、いつもの黒糖飴がある。
母から受け継いだもの。
ずっと大切にしてきたもの。
主人公は、それを一粒取り出した。
包みを見つめる。
「……母さん。」
その時だった。
店の奥から、老人の声が聞こえた。
「その子にはな……もう一つ、忘れられない話がある。」
主人公が顔を上げる。
「どんな話ですか?」
老人は少し迷った。
「話していいものか、ずっと悩んでいた。」
「母に関係することですか?」
「そうだ。」
老人は窓の外を見た。
「君のお母さんは、その子に黒糖飴を渡したあと、毎日ここへ来るようになった。」
「毎日?」
「ああ。」
「そして、ある日……あの子が初めて自分から話した。」
主人公は息を呑んだ。
「なんて?」
老人はゆっくりと言った。
「『ありがとう』だ。」
主人公は目を伏せた。
「……ありがとう。」
母が渡した黒糖飴。
それを受け取った少女が返した言葉。
その小さな言葉が、母の人生を変えた。
そして母は、その後も黒糖飴を配り続けた。
ひだまりの子どもたちへ。
困っている人へ。
寂しそうにしている人へ。
そして――
主人公へ。
主人公は、今まで自分が黒糖飴を受け取っていた意味を初めて理解した。
黒糖飴は、母の優しさそのものだった。
「でも……。」
主人公は写真を見る。
「どうして母は、俺にも黒糖飴を渡してくれたんだろう。」
老人は微笑んだ。
「それは、お母さんにしか分からないだろうな。」
「……そうですよね。」
主人公は少し笑った。
すると老人が、何かを思い出したように立ち上がった。
「いや。」
「え?」
「一つだけある。」
老人は店の奥へ歩いていく。
しばらくして、小さな紙袋を持って戻ってきた。
「これも預かっていた。」
主人公は紙袋を見る。
古い紙袋。
そこには、母の字で名前が書かれている。
主人公は息を呑んだ。
「……俺の名前?」
「そうだ。」
「いつから……?」
「かなり昔だ。」
主人公は震える手で紙袋を受け取った。
中には、小さな缶が入っていた。
蓋を開ける。
そこには――
黒糖飴が一粒だけ入っていた。
主人公は言葉を失った。
「……一粒。」
老人が頷く。
「お母さんは、これを最後まで残していた。」
主人公は飴を見つめる。
包み紙は古くなっている。
それでも、大切に保存されていたことが分かる。
缶の底には、小さな紙が敷かれていた。
そこには母の字で、こう書かれていた。
『この子が自分の旅を始めた日に渡してください。』
主人公の目から涙が落ちた。
「……俺が旅を始めた日?」
老人は静かに答えた。
「君が国道を走り始めた日だろう。」
主人公は動けなかった。
あの日。
国道で昼寝をしていた。
裸足の男性と出会った。
黒糖飴を奪われた。
取り返した。
そして、その男性に一粒渡した。
その出来事が、すべての始まりだった。
もし母が、この未来を知っていたのだとしたら。
主人公は黒糖飴を見つめる。
「母さんは……あの日を待ってたのか。」
誰も答えない。
ただ、窓の外から風が吹いた。
カーテンが揺れる。
そして――
店の入口に、白い花びらが一枚落ちた。
主人公は顔を上げた。
「……また。」
外を見る。
誰もいない。
けれど、少し離れた商店街の角に――
白いワンピースが一瞬だけ見えた。
主人公は立ち上がる。
「待って!」
外へ出る。
しかし、少女の姿はもうなかった。
足元に白い花が落ちている。
主人公はそれを拾う。
花の下には、小さな紙切れがあった。
そこには、たった一言。
『次は、あなたが渡す番。』
主人公は紙を握りしめた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……分かったよ。」
黒糖飴を一粒、ポケットへしまう。
「今度は俺が渡す。」
国道の向こうから、車の音が聞こえる。
主人公はロードバイクへ戻った。
母から受け取った優しさ。
大富豪から受け取った優しさ。
旅の途中で出会った人たちから受け取った優しさ。
それらは全部、自分の中に残っている。
だから今度は――
自分が誰かへ渡す番だ。
主人公はペダルに足を掛ける。
そして、国道へ走り出した。
その先に誰がいるのか。
まだ主人公には分からない。
けれど、不思議と怖くなかった。
優しさは、受け取った場所で終わらない。
誰かへ渡した瞬間に――
また新しい物語が始まる。
主人公は、笑いながら走った。
今回も読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、母が黒糖飴を配り始めた理由が明らかになりました。
母が誰かを救ったのではありません。
ただ、黒糖飴を一粒渡した。
そして、その小さな優しさが一人の少女の笑顔に繋がった。
それが母にとって、大きな出来事だったのだと思います。
そして最後に登場した、母が残していた一粒の黒糖飴。
「この子が自分の旅を始めた日に渡してください。」
この言葉が意味するものは何なのか。
母は、主人公がいつか旅に出ることを知っていたのでしょうか。
そして白い少女が残した、
「次は、あなたが渡す番。」
という言葉。
第4章のテーマが、ここでさらに大きく動き始めます。
主人公が次に出会う「誰か」は、いったいどんな人なのでしょうか。




