第126話 母が残したもう一通の手紙
母が残した、もう一通の封筒。
そこに書かれていたのは、主人公がこれまで知らなかった母の想いだった。
そして、その手紙は「優しく生きること」だけではなく、「自分自身の人生を生きること」を主人公へ伝えようとしていた。
夕暮れの国道を走りながら、主人公は何度も胸ポケットへ手を伸ばしていた。
指先に触れるのは、母が残した一通の封筒。
『あなたが、本当に自分の旅を始めた時に。』
そう書かれていた。
母は、いつから自分が旅に出ることを知っていたのだろう。
そんな疑問が、頭から離れなかった。
ロードバイクを止める。
国道沿いに、小さな休憩所があった。
木製のベンチに腰を下ろす。
周囲には誰もいない。
聞こえるのは、遠くを走る車の音と風の音だけだった。
主人公は封筒を取り出した。
「……開けるか。」
少しだけ迷ってから、封を切る。
中には、一枚の便箋。
そして、もう一つ。
小さな写真が入っていた。
主人公はまず写真を手に取る。
そこには、幼い頃の自分が写っていた。
母と二人で、国道沿いのベンチに座っている。
主人公の手には黒糖飴。
母は笑っていた。
「こんな写真……あったんだ。」
記憶には残っていない。
けれど、その風景を見ていると胸の奥が温かくなる。
写真の裏には、母の字で短い言葉が書かれていた。
『この子がいつか、自分の道を見つけますように。』
主人公は写真を裏返したまま、しばらく動けなかった。
やがて、便箋を開く。
『あなたへ。』
たった四文字。
それだけで、胸が詰まった。
『この手紙を読んでいるあなたは、もう私が知っている小さな男の子ではないのでしょうね。』
主人公は苦笑する。
「そりゃ……そうだよ。」
誰もいない休憩所で、思わず声が出た。
『あなたは昔から、困っている人を見ると放っておけない子でした。』
『でも、それを私は何度も心配していました。』
主人公の手が止まる。
『優しいことは、とても素敵なことです。』
『でも、優しい人ほど、自分のことを後回しにしてしまうから。』
主人公は静かに息を吐いた。
母には、全部見透かされていたのかもしれない。
『だから、一つだけ約束してください。』
次の文章を読む。
『誰かを幸せにするために、自分を不幸にしないこと。』
主人公は目を閉じた。
風が頬を撫でる。
母の声が聞こえたような気がした。
『あなた自身が幸せになってください。』
『笑ってください。』
『好きな場所へ行ってください。』
『好きな人と出会ってください。』
『そして、あなたが幸せな時に、もし目の前で困っている人がいたら、その人に少しだけ優しさを分けてあげてください。』
主人公は便箋を握りしめる。
「……母さん。」
涙が一滴、紙の上に落ちた。
『それで十分です。』
『それ以上、何かを背負わなくていい。』
『あなたは、あなたの人生を歩いてください。』
最後の一文。
『黒糖飴は、誰かを救う魔法ではありません。』
『ただ、ほんの少し心を甘くするものです。』
主人公は胸ポケットから黒糖飴を取り出した。
見慣れた包み。
ずっと大切にしてきた。
けれど今まで、自分はこの飴を「母との思い出」としてしか見ていなかったのかもしれない。
母が伝えたかったのは、飴そのものではない。
その先にあるものだった。
主人公は包みを見つめる。
「……少しだけ、分かった気がする。」
その時だった。
風が止まった。
あれほど吹いていた風が、突然ぴたりと止まる。
国道を走る車の音だけが、妙にはっきり聞こえた。
主人公は顔を上げる。
道路の向こう側。
白いワンピースの少女が立っていた。
いつものように、何も言わない。
ただ主人公を見つめている。
「また来たのか。」
少女は答えない。
けれど今日は、いつもと違った。
少女は自分の胸元に手を当て、それから主人公の胸ポケットを指差した。
主人公は黒糖飴を見る。
そして、少女へ視線を戻す。
「これ?」
少女が小さくうなずく。
主人公は少し考えた。
そして黒糖飴を一粒、包みから取り出した。
「……いる?」
少女は微笑んだ。
主人公が手を差し出す。
しかし――。
少女の姿が、ゆっくりと透け始めた。
「え?」
風が吹く。
白いワンピースが揺れる。
少女は消えていく直前、初めて口を開いた。
「……つぎへ。」
主人公の目が大きく開く。
「え?」
その声を最後に、少女の姿は風の中へ消えた。
残されたのは、静かな国道だけ。
主人公はしばらく立ち尽くしていた。
そして、手の中の黒糖飴を見る。
「次へ……か。」
母の手紙。
白い少女。
黒糖飴。
どれも、同じ方向を指している気がした。
主人公はロードバイクへ戻る。
そして、ペダルに足を掛けた。
もう一度、国道の先を見る。
「じゃあ……行くか。」
走り出す。
今度は、答えを探すためだけではない。
自分の人生を歩くために。
誰かのためだけでもない。
自分自身のためにも。
国道の先には、夜へ向かう空が広がっていた。
その空の下で――。
主人公の旅は、また少しだけ新しい形へ変わり始めていた。
第126話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、母が主人公へ最後に伝えたかった「自分自身の人生を大切にする」という想いを描きました。
優しい人だからこそ、誰かのために自分を犠牲にしてしまうことがあります。
だから母は、主人公に「自分も幸せになっていい」と伝えたかったのだと思います。
そして、白い少女が初めて言葉を発しました。
「……つぎへ。」
この一言が何を意味するのか。
主人公は次に、誰と出会うのでしょうか。
まだ旅は続きます。




