第125話 白い少女が消えた場所
母が残した手紙を胸にしまい、主人公は再び国道を走り始めた。
白い少女が消えた場所。
そこには、まだ主人公の知らない母の過去が眠っている。
そして、その先で待っていたのは、思いがけない人物だった。
夕暮れの国道を、主人公はゆっくりと走っていた。
ペダルを踏むたび、ロードバイクのタイヤが乾いた路面を軽く鳴らす。
郵便局でもらった母の手紙は、胸ポケットの中にある。
何度も読み返した。
それでも、まだ信じられない気持ちが残っていた。
母は、自分がいなくなった後のことまで考えていた。
まるで、自分がいつかこの旅を始めることを知っていたかのように。
「母さん……俺がここまで来るって、本当に分かってたのかな。」
答えてくれる人はいない。
ただ、国道を吹き抜ける風だけが、主人公の横を通り過ぎていった。
しばらく走ると、道路脇に小さな標識が見えた。
古い木製の案内板。
そこには、
『旧街道・展望道』
と書かれている。
主人公は自転車を止めた。
標識の下には、細い山道が続いている。
白い少女が消えた方向と同じだった。
「こっち……なのか?」
もちろん返事はない。
主人公は少し迷った。
山道をロードバイクで進むのは難しそうだ。
けれど、なぜか引き返す気にはなれなかった。
ロードバイクを押しながら、ゆっくりと坂道を上る。
蝉の声が遠くなる。
国道を走る車の音も、少しずつ小さくなっていく。
そして――。
開けた場所に出た。
そこには、小さな石造りの祠があった。
古い。
けれど、周囲には雑草が少なく、誰かが今でも手入れしているようだった。
主人公は祠の前で立ち止まる。
「ここ……母さんが来てたのかな。」
祠の横には、一本の木がある。
その幹に、小さな傷が残っていた。
何かを削って書いたような跡。
主人公が近づいて見る。
そこには、
『ひ』
という文字が刻まれていた。
「ひ……?」
主人公は首を傾げる。
その時。
背後から声がした。
「それ、お母さんが書いたものよ。」
主人公は驚いて振り返った。
そこには、一人の女性が立っていた。
五十代くらいだろうか。
買い物袋を片手に持ち、穏やかな表情で主人公を見ている。
「……母を知っているんですか?」
女性はすぐには答えなかった。
主人公の胸ポケットに目を向ける。
そして、少しだけ微笑んだ。
「その黒糖飴……まだ持ってるのね。」
主人公の胸が大きく跳ねた。
「母からもらったものです。」
「そう。」
女性は懐かしそうに木を見上げた。
「あなたのお母さんも、ここで同じことを言っていたわ。」
「何を……?」
女性は木の幹に触れた。
「『この子が大きくなったら、一緒にここへ来たい』って。」
主人公は息を止めた。
「……僕と?」
「ええ。」
女性はうなずいた。
「あなたのお母さんは、あなたの話をよくしていたわ。」
「どんな話を?」
女性は少し笑った。
「黒糖飴を大事にしている子。」
「ロードバイクに乗って、どこまでも行ってしまいそうな子。」
「それから――」
女性は主人公を見る。
「優しいけれど、自分のことを後回しにしてしまう子。」
主人公は苦笑した。
「それ、母さんが言ってたんですか?」
「何度もね。」
女性は買い物袋を地面に置いた。
「だから、お母さんは心配していたの。」
「優しさは大切。でも、自分まで壊してしまったらいけないって。」
主人公は黙って聞いていた。
母の言葉を、今までとは違う角度から聞いている気がした。
母はただ、
「人に優しくしなさい」
と言っていたわけではない。
「自分自身も大切にしなさい」
そう伝えたかったのかもしれない。
女性は祠の横にある小さな石を指差した。
「そこを見て。」
主人公がしゃがみ込む。
石の下に、何かが挟まっている。
取り出してみると、それは小さな写真だった。
写真には、若い頃の母が写っている。
その隣には――。
「……大富豪さん?」
主人公は思わず声を漏らした。
若い頃の大富豪。
そして、母。
二人は並んで笑っていた。
けれど、それだけではなかった。
写真の端には、もう一人の人物が写っている。
白い服を着た、小さな女の子。
主人公の指が止まった。
「この子……。」
女性の表情が少し変わる。
「その子のことは、私にもよく分からないの。」
「母さんは、何も言ってなかったんですか?」
「一度だけ。」
女性は静かに答えた。
「『あの子は、道に迷った人のところへ現れるの』って。」
主人公は写真を見つめる。
白い少女。
今まで何度も自分の前に現れた存在。
偶然だと思っていた。
幻なのかもしれないと思ったこともある。
けれど――。
母も知っていた。
主人公は写真を握りしめる。
「母さんは……あの子と会っていたんですか?」
女性は答えなかった。
ただ、夕暮れの空を見上げた。
「あなたのお母さんは、最後にここへ来た時、こう言っていたわ。」
主人公は顔を上げる。
「『この子がいつか旅に出たら、きっとあの子が導いてくれる』って。」
風が吹いた。
木々が一斉に揺れる。
主人公は振り返った。
誰もいない。
けれど、遠くの木々の間に白いものが見えた気がした。
「……白い少女。」
主人公が一歩踏み出す。
その瞬間、女性が呼び止めた。
「待って。」
主人公が振り返る。
女性は、もう一つ小さな封筒を差し出していた。
「これも、お母さんから預かっていたの。」
「……まだあったんですか?」
「ええ。」
封筒の表には、母の字で一言だけ書かれていた。
『あなたが、本当に自分の旅を始めた時に。』
主人公は封筒を見つめた。
そして、ゆっくりと受け取る。
胸の奥が、不思議なくらい静かだった。
怖くはない。
母の過去を知ることが、以前ほど怖くなくなっていた。
むしろ――。
もっと知りたい。
母が何を見て、誰と出会い、何を残そうとしたのか。
主人公は封筒を大切に胸ポケットへしまった。
「ありがとうございます。」
女性は微笑む。
「行ってらっしゃい。」
その言葉を聞いた瞬間、主人公は少しだけ笑った。
「はい。」
ロードバイクのハンドルを握る。
山道を下れば、また国道へ戻れる。
主人公はペダルに足を掛けた。
そして走り出す。
背中から夕陽が差し込む。
その光の中で、一瞬だけ――。
白い少女が主人公の前を歩いていた。
振り返らない。
ただ、ゆっくりと先へ進んでいる。
主人公はその背中を見つめながら、静かに笑った。
「今度は、ちゃんと追いつくから。」
ロードバイクのタイヤが回り始める。
母の残した旅。
そして、自分自身の旅。
二つの道が、少しずつ一本に繋がり始めていた。
第125話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、母と大富豪、そして白い少女が過去から繋がっていたことが少しずつ見えてきました。
まだ白い少女の正体は明かされません。
ただ、主人公の母が彼女の存在を知っていたことは、大きな意味を持っています。
そして母が最後に残した、もう一通の封筒。
主人公自身の「本当の旅」とは何なのか。
次回は、その封筒に書かれた母の言葉から、さらに過去へと物語が繋がっていきます。




