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見知らぬ土地、見知らぬ夫

「見たことのない景色だわ」

馬車の窓に顔を寄せ、シリは飢えるように外の景色を見つめた。


嫁ぎ先であるワスト領までは、馬車で5日の道のり。


その移動の間、シリは子どものように目を輝かせていた。


窓の外に広がるのは、これまで地図でしか見たことのなかった風景ばかり。


生まれてこのかた、シュドリー城の中で育ち、

外に出るといっても、城の周辺を弟や家臣と共に馬で巡る程度だった。


「外の世界は、こんなにも広くて、美しいのね……」

誰に語るでもなく、シリはつぶやいた。


家臣たちの噂話に耳を傾け、地図をなぞりながら思い描いていた景色は、こんなにも色鮮やかではなかった。


ミンスタ領を離れたことで、どこか心が軽く、自由になった気がした。


――ほんの5日間だけの、儚い自由。


この旅が終われば、顔も知らぬ男の妻となり、

政略の名のもと、ミンスタ領の影として生きていかねばならない。


旅は、あっという間に5日目を迎えた。


昼過ぎ、花嫁行列はワスト領との境にある宿へ立ち寄った。


レーク城へ到着する前に、衣装を整えるためだ。


その準備が進む中、シリの心にじわりと不安が広がっていった。


――あと数時間で、この見知らぬ土地で暮らすことになる。


名前しか知らない男と、夫婦として過ごしていかねばならない。


「エマ……どうしよう。なんだか、怖くなってきたわ」


これまで気丈にふるまってきたのに。

いざ現実が近づいてくると、足がすくんでしまう。


「大丈夫です、シリ様」

エマはシリの肩に手を添えた。


「ゼンシ様がお選びになったお相手です。きっと間違いはありません」

優しく、けれど力強く語りかけるエマ。


だが、シリやエマの身近には、グユウの人柄を知る者などいなかった。


ワスト領は小さな領地で、領主の話題などほとんど上らなかったのだ。


「このドレス、とてもお似合いですよ」

エマは明るい声でそう言い、シリを鏡の前に導いた。


乳白色の薄布に、淡い紫の花を散らしたドレス。


胸元から裾へと流れるような飾りが、華やかでありながら儚さを感じさせた。


背中のボタンを留めながら、エマは無意識にシリの背を見つめた。


あの日、背中に赤紫色に残っていた痕は、ほとんど消えていた。


それを確かめると、エマの指からわずかに力が抜けた。


明日は婚礼。


そして、その夜には初夜が待っている。


「優しい人だと、いいな……」

鏡越しに、シリがぽつりとつぶやいた。


エマにというより、自分自身に言い聞かせるような、小さな声だった。



支度を終えた花嫁行列は、宿をあとにした。


ほどなく領境へ着くと、ワスト領の家臣たちが一行を待ち受けていた。


ミンスタ領の家臣たちは彼らに荷物を引き渡し、ここで花嫁の護送を終える。


これで、キヨやゴロクとも別れだ。


「シリ様、どうかお元気で」

ゴロクはそれだけを口にすると、顔を伏せた。


目元が赤くなっている。


「あなたもね。ここまでありがとう」

シリが答えると、ゴロクは深く頭を下げた。


これからは、エマを除けば、知らぬ者ばかりに囲まれて暮らしていく。


ジムがワスト領の家臣たちを率い、花嫁の馬車の先頭に立った。


その先導に従い、馬車は領境を越えた。


「シリ様、ロク湖が見えてまいりました」


エマの声に、シリは再び窓に目を向けた。


そこには、視界いっぱいに広がる、果てしない湖――ロク湖があった。


「これは湖なの?」

初めて見るその広さに、シリは息を呑んだ。


海を知らぬ彼女には、それがまるで海原に見えた。

さざ波の音が風に乗って耳をかすめる。

湖の中央には、ぽつんと島が浮かんでいた。


「あの島の名前は?」


「わかりません」

エマは申し訳なさそうに首を振った。


地図の上で見ていた湖と、目の前に広がる現実は、あまりにも違っていた。


馬車は湖畔を離れ、長い山道を登っていく。


レーク城は、その山頂に築かれた堅牢な城だった。


やがて馬車は城門へたどり着いた。


城門前には、松明がずらりと焚かれ、

その炎に照らされながら、大勢の家臣が頭を垂れて待っていた。


「シリ様のご到着!」

ジムの声が響くと、列をなしていた者たちが一斉に頭を下げる。


その様子を、馬車の中から見ていたシリの肩が、小刻みに震えた。


「シリ様」

隣に座るエマが、そっと背中を撫でる。


ーー今までは、兄の命令に従うだけだった。


だがこれからは、自ら妃として振る舞い、

この地で新たな人生を歩んでいかなければならない。


シリは顔を両手で覆い、目を閉じた。


――扉を開けたら、もう戻れない。


どんな暮らしが待っているのかも、見当がつかない。


「帰りたい……シュドリー城に帰りたい……」


あれほど離れたいと思った城なのに、今は見慣れた自室や、

顔を知る人々が無性に恋しかった。


恐怖が喉元までこみ上げてくる。

それでも、逃げ出すことは許されない。


この扉を開ければ、これまでの自分には戻れない。


そう思いながら、シリは深く息を吸った。


次回ーー

政略の花嫁として、ワスト領へ嫁いだシリ。

迎えたのは、鉄仮面のように無表情な若き領主・グユウだった。

冷たい眼差しに戸惑いながらも、翌日には婚儀、そして初夜が迫っていた――。


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