妻より大切だったもの
シリの夫、グユウ その友人トナカの会話 結婚直前
ワスト領。
広い湖のほとりに、二人の青年が並んで立っていた。
美しく、気まぐれで、渋々やってくる春。
厳しい冬を越えた今、わずかに光を放つ太陽でさえ、ありがたく感じられる。
「・・・そうか。離縁したのか」
鳶色の髪、顔にそばかすのある青年がつぶやいた。
「すまない。婚礼のときは、祝いの品をたくさん頂いたのに」
黒髪に黒い瞳の青年が頭を下げる。
「聞いたぞ。ミンスタ領のゼンシと同盟を組んだと」
「ああ。同盟の証に、ゼンシ様の妹が嫁いでくることになった」
鳶色の青年はシズル領の領主、トナカ・サビ。
湖に向かって立ちすくむのは、ワスト領の若き領主、グユウ・セン。
彼は二十三歳。
シリの婚約者でもある。
湖面を撫でるように風が吹き抜け、グユウの黒髪を揺らしていく。
ワスト領とシズル領は、湖を挟んで隣り合う小領。
祖父の代から協力して生き延びてきた。
グユウは幼少期、十歳まで人質としてシズル領に預けられた。
年が近いトナカとは、兄弟のような関係だ。
陽気なトナカと、寡黙で控えめなグユウ。
性格は対照的だが、深い絆があった。
「子供・・・シンはいくつだ」
「まだ半年も経っていない。母親の顔も、もう覚えていないだろうな」
政略結婚の末に生まれた子は、離縁後も父のもとに残る。
男の子であれば、跡継ぎであり、時には人質として使えるからだ。
「・・・心が通じなかった。オレは話すのが得意じゃない。二年間、まともな会話すらなかった」
グユウはぽつりとつぶやく。
「離縁を切り出したとき、妻は何も言わずに出て行った。・・・きっと、オレといても退屈だったんだ」
ーー暗い。
あまりにも暗い。
グユウの周囲に沈んだ空気が漂っているのを、トナカは感じていた。
ーーグユウは優しい。
長く共にいれば、その優しさに胸を打たれる。
けれど――優しさは、表に出さねば伝わらない。
不器用な男だ。
彼の言葉の欠片や、沈黙の裏にある感情を汲み取れなければ、付き合いきれない。
「・・・なんで、ミンスタ領と組んだ?」
トナカの問いに、グユウは短く答える。
「父も、重臣たちも賛成だった。領のためだ」
それだけで、トナカには察しがついた。
ーーグユウは望んでこの同盟を結んだわけではない。
ゼンシの申し出を断れば、戦になる可能性すらあったのだ。
だが、グユウの表情が少し和らいだ。
「・・・ただ、一つ条件を出した」
「条件?」
「ミンスタ領が、シズル領に手を出さないように。書面に残してもらった」
トナカは目を見開く。
「それを条件にしたのか」
「当然だ。ミンスタ領がその気になれば、オレたちのような小領など、すぐに飲み込まれてしまう。・・・だから、必要な交渉だった」
「・・・グユウ。感謝する」
トナカの声が少し震えた。
ミンスタ領と手を組んだことで、距離が生まれるのでは――そんな不安があった。
それでもグユウは、シズル領を守ろうとした。
その想いが、トナカにはありがたかった。
「姫は美人らしいな。ゼンシが二十歳まで手放さなかったとか」
「噂は聞いた。父上は『ミンスタの魔女に騙されるな』と再三言っていた」
グユウはどこか投げやりな口調で答えた。
「・・・でも、美人かどうかなんて関係ない。オレは、結婚に向いてない」
うつむいたまま、彼は静かに言葉を落とす。
再び沈み込むグユウを見て、トナカは肩を叩く。
「仲良くしなくてもいい。子供を作って、同盟を強める。それだけだ。
愛したい女がいれば、第二夫人でも第三夫人でも・・・」
「・・・一人で手一杯なのに、そんな器用なこと、できるか」
グユウはまっすぐ湖面を見つめ、微かに息を吐いた。
トナカは、そんな友の横顔を見つめながら、胸が締めつけられるのを感じた。
この、不器用で傷つきやすい青年が――よりによって、ミンスタ領の姫と結婚する。
どうなるか、まるで想像がつかない。
ーーグユウ・・・幸せになれ。
心からそう願った。
次回ーー
「優しい人だと、いいな……」
政略の花嫁、シリ。
笑顔で振る舞いながらも、胸に広がるのは恐怖と不安だった。
少女としての最後の夜が、静かに始まろうとしていた。




