兄の夢、妹の覚悟
「お言葉ですが兄上、なぜ、あの小さなワスト領に私が嫁がねばならないのですか? ご説明ください」
シリは顎を上げ、まっすぐにゼンシを見据えて問いかけた。
単刀直入な物言いに、背後の乳母エマは思わず口を開け、天井を仰ぐ。
この子はいつもこうだ・・・
ワスト領――北方の小領土。肥沃さも規模も、ミンスタ領には到底及ばない。
その領に、自分が嫁ぐ意味とは何か?
ゼンシはふっと口角を上げた。あざけるような笑み。
「相手の人柄よりも、領土の格を気にするか。さすがだな」
呆れたように言いながらも、その声音には僅かな愉しみも混じっていた。
「座れ。少し話そう」
ゼンシはバルコニーにある椅子を指し、シリに座るよう促した。
「シリの分のお茶を」
その一言で、侍女たちはばたばたと動き始めた。
ゼンシは気難しい。
お茶の温度も、味も、器も、少しでも気に入らなければ顔色が変わる。
誰もが彼の機嫌に神経をすり減らしている。
そんな男に、真正面から意見するのは妹のシリただ一人だった。
あっという間に、テーブルにはお茶と菓子が並ぶ。
シリの好物――黄色いプラムの砂糖漬けも添えられていた。
けれど、彼女は一瞥すらくれず、背筋を伸ばして椅子に座ったまま動かない。
「・・・シリ。お茶を」
促されて、ようやく手を伸ばし、紅茶を一口だけすする。
味はしなかった。
ゼンシは13歳年上。
亡き父に代わり、幼い頃から領主としての背中を見せてきた男だった。
シリと同じ金色の髪、深い青の瞳。
けれど、その瞳が時折、鋭く獲物を狙うような光を帯びると、シリですら身がすくむ。
だが、今日のゼンシの眼差しは穏やかだった。
「・・・お前が男だったならな。何度そう思ったことか」
不意に、静かに漏れたつぶやき。
「なぜですか?」
反射的に問いが返る。
これもまた、シリの癖だった。
「お前は気が強い。臆さず、先を読む力がある。馬の扱いもうまい。
男として生まれていたら、きっと立派な領主になっていた」
そう言って、ゼンシはカップに視線を落とした。
「お前が嫁ぐのはワスト領。確かに、力は弱い。
だが、地の利がある。王都ミヤビの隣に位置し、南への通商路をおさえるには絶好だ」
「・・・つまり、それが兄上の“夢”なのですね?」
「違わぬ。だが、私だけの夢ではない。
家臣、侍女、母上、領民――皆の願いでもある。領土を広げ、ミンスタを強くする。それが我らの使命だ」
ゼンシはゆっくりと姿勢を正し、真っ直ぐにシリを見つめた。
「そのために――シリ、お前にワスト領のグユウのもとへ嫁いでほしい」
その目には、いつになく真剣な光が宿っていた。
シリは静かに目を閉じ、思考を整理した。
ーー女性である私は、自分の運命を選べない。
けれど、ただ従うのではなく、自分の意志でこの道を選びたい。
再び目を開ける。
そこに宿るのは乙女の瞳ではなく、戦士の覚悟。
「わかりました、兄上。ミンスタのために――喜んで嫁ぎます」
ゼンシは目を細めた。
その瞳には、誇りと惜しさ、そして僅かな痛みが混じっていた。
しばし、二人は視線を交わす。
先に視線を逸らしたのはゼンシだった。
バルコニーから、静かに暮れてゆく空を見やる。
「グユウは寡黙だが、信頼に足る男だ。わしが見込んだ。・・・2年前に結婚していたが、離縁させた」
その言葉に、シリの瞳が揺れる。
政治上の再婚など珍しくはない。
だが、その裏にある誰かの痛みを想像すると、胸がざわつく。
「当然の処置だ。ミンスタの姫を、第二夫人に据えるわけにはいかん。
前妻は生家に戻し、子は・・・男の子だ。まだ赤ん坊だが、ワスト領に留まる」
月が昇り、銀色の光がシリの額を照らす。
「兄上の夢が叶うよう・・・グユウ様と仲良くなれるよう努めます」
震える声で告げたその瞬間、ゼンシの瞳に鋭い光が宿った。
距離は近く、月明かりでもその眼差しの鋭さははっきりとわかる。
――この目だ。
その目で見据えられると、どんなに気丈な彼女でも動けなくなる。
だが今回は、すぐに視線がほどけた。
「結婚は2ヶ月後。5月に行う。準備を」
その言葉に、驚きの声を上げたのはシリではなく、乳母のエマだった。
「に、2ヶ月後ですか!」
エマの悲鳴のような声が、ようやく張り詰めた空気を和らげた。
ゼンシは何も言わず、バルコニー越しに月を仰いだ。
次回ーー
「結婚なんてしたくない」
それがシリの本音だった。
だが、姫に自由は許されない。
未来に待つのは、知らぬ夫と、その子供との暮らし…。
「姫はおしとやかに」ってうるさい。私は馬と鞭があれば良いの




