6.年上皇妃ブリジットの離婚事情 〜後編・少年皇帝イアンの場合〜
イアンの成人の儀は滞りなく進み、国内外の貴人を招いた晩餐会も無事に終えた。あとは着替えて寝るだけとなると、今日という日を終えるのが名残惜しく感じる。ブリジットは部屋を抜け出て礼拝堂に向かった。
背後から聞こえてきた軽快な足音が、すぐにブリジットに追いつく。
「ブリジット! こんな時間にどうしたの?」
「陛下、眠れなくて少し散歩をしようかと」
「僕と一緒だ」
イアンが少年のような目をして無邪気に笑う。人前では大人びた微笑を浮かべるのに、今もブリジットにだけは見せてくれる笑顔。
「ね、どこ行くつもりだったの?」
「礼拝堂です。少し祈りたくて」
「それも僕と一緒だ」
笑いながら「行こう」と手を取られ、共に礼拝堂へと向かう。骨ばった硬い手はやすやすとブリジットの手を包み込み、前を歩く背中は広く肩幅もがっしりしている。
(本当に立派になって……)
イアンを少年皇帝などと揶揄する者はもういないだろう。触れられている手がじんと熱を持ち、わずかに力を込める。
(最後だもの。少しくらいいいわよね……)
皇妃でなくなれば、もう触れることも構わないのだから。
たどり着いた礼拝堂は夜のしじまに包まれ、高い位置にあるステンドグラスから月明かりで色づいた光が床に落ちる。まるでこの世のものではないような美しさで、ブリジットは感嘆の息をもらした。
(この光景を一緒に見られて良かった)
するとイアンがひょいと顔をのぞき込んでくる。
「ねぇ、ここで結婚のサインをしたの覚えてる?」
「えぇ、もちろん」
「あの時あなたは『これは私たちが家族になるためのサインだ』って言ったよね。それが僕はとても嬉しかったんだ」
夫婦としては歪でも、せめて家族になれたらと思っての言葉だった。この十年、二人は確かに家族だった。しかし立派な成鳥となった雛鳥は巣立たせなければならない。ちくりと胸の痛みを感じてうつむくと、目の前に一枚の紙を差し出された。
「それでさ、今度はこれにサインをもらえる?」
「これは?」
差し出された書類を見て、ブリジットの目が大きく開かれる。それは十年前にこの場所でサインしたのと同じ――二人が婚姻を結ぶための書類だった。
「どうしてこれを?」
「どうしてって、決まってるじゃないか。あなたはとても賢いのに、時たま少し愚かだ」
「おろ……まぁっ!」
イアンが楽しそうに書類を指さす。
「今度こそ夫婦になるためのサインをお願い」
「な……ぜ……」
「もちろん、あなたと本当の夫婦になりたいから。僕が真に想う者はあなただ、ブリジット。大好きだよ、ずっとずっと前から」
「でも……それは姉を慕うようなものです」
「ブリジットは僕が姉に欲情する変態だと言うの?」
「よ……! 陛下!?」
あまりに明け透けな物言いに目を白黒させると、イアンがくすくすと笑いながらあやしげに目を細める。それはブリジットが初めて見る大人の色香を帯びた表情だった。ブリジットの背筋がわずかに震える。
「ねぇ、どうして僕があなたの寝所に忍び込まなくなったと思っているの?」
「え……?」
二人が結婚したばかりの頃、眠れない夜にイアンはこっそりブリジットの寝所に忍び込んできたものだ。しかしそれもほんの短い期間で、すぐに来なくなったけれど。
「お一人の夜に慣れたのではなく……?」
「ふふ、あなたに不埒な想いを抱いていることがバレないようにさ。あなたの隣で愛しいあなたを汚す夢を幾度見たことか」
「陛下! それ以上はおっしゃらないで……」
白い結婚だったブリジットは、夫婦の交わりについて圧倒的に知識も経験も不足している。そのためイアンの言葉が恥ずかしくてたまらない。ブリジットがうつむくと、イアンは書類を祭壇に置きブリジットの手を両手で包みこむ。
「ねぇ、僕を見て。あなたの目には僕がまた子どもに見える?」
「そんなまさか……」
イアンが立派な大人になったからこそ、離婚しなければならないと決めたのに。
「僕が男に見えない? そんなはずないよね。こんなに頰を紅潮させて目を潤ませているのに」
あごに添えた手で上を向かされ、イアンの目がブリジットを見つめる。そのまま心の奥まで見透かされそうだ。皇帝として数多の難敵とやり合ってきてイアンに隠しごとなどできるはずがなかった。
イアンの姿に男性を意識したのはいつからだろうか。ブリジットの手を離れ一人で公務をこなすようになった時かもしれない。
「ねぇ、ブリジット。僕のことが好きでしょう?」
「……はい」
ブリジットは観念して小さくうなずいた。
「うれしいな。ねぇ、今からあなたの寝所に行ってもいい?」
「陛下……っ!?」
「ふふ、冗談だよ。まだ証人のサインをもらってないしね。でもサインをもらったらその時は」
イアンがブリジットを抱きしめ「いいよね?」と耳元でささやく。欲を帯びた声になにかを期待して身体が熱を持つ。
「はい。陛下……」
月明かりが差し込むステンドグラスの光に彩られながら、二人は誓いのキスを交わすのだった。




