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小説 吉田松陰 座右の火 1830-1859  作者: 山田 誠一


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第六章:先生、あなたの思想は狂気だ

安政五年六月(1858年)、大老・井伊直弼による「日米修好通商条約」の無勅許調印は、日本全国の尊王攘夷派を激怒させた。とりわけ、天皇を絶対の「公」とする吉田松陰にとって、幕府のこの暴挙は、日本の国体を根底から覆す「大不義」以外の何物でもなかった。


二十九歳となった松陰の思考の流れは、ここで劇的な転換を迎える。

(これまで私は、幕府や藩を改革することで国を救おうと考えていた。しかし、それは間違いであった。幕府という巨大な権力構造そのものが、己の保身のために国を売ろうとしている。ならば、既存の組織に頼る思想は捨てねばならぬ。今こそ、身分の低い一般の民、すなわち『草莽そうもう』が立ち上がり、直接行動を起こすべき時だ)


ここに、松陰の有名な「草莽崛起そうもうくっき」の思想が誕生する。それは、土地や身分のあらゆる制約を個人の至誠によって突破しようという、究極の決断であった。


松陰は即座に行動を起こした。彼は、幕府の開国政策を強力に推進していた老中・間部詮勝まなべあきかつが、京都へ赴いて朝廷を威圧しようとしているという情報を掴む。


「間部が京に入る前に、これを要撃(暗殺)し、天下の目を覚まさせねばならぬ」


松陰は松下村塾の塾生たちを集め、この「間部要撃策」への賛同と血盟を求めた。それは単なる威嚇ではなく、文字通り命を賭したテロル(過激行動)の提案であった。


しかし、ここで松陰の前に立ち塞がったのは、敵の刃ではなく、他ならぬ愛する塾生たちの「躊躇」であった。

久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎といった、後に時代を動かす俊英たちも、この時の松陰の提案には動揺を隠せなかった。


「先生、お言葉ながら、今、一老中を暗殺したところで、幕府の巨体を動かすことは叶いません。我らはもっと大局を見て、藩の力を動かすべきです」

久坂は沈痛な面持ちで松陰を諫めた。


塾生たちの判断基準は、現実的な「勝算」に基づいていた。しかし、松陰の判断基準は、勝敗ではなく「義」の有無にしかおきえなかった。

「勝算などどうでもよい! 正しいことを正しいと言うために、なぜ命を惜しむのか。お前たちは、明倫館の腑抜けた武士どもと同じになってしまったのか!」

松陰は激昂した。塾生たちとの間に、深い亀裂が走る。松陰は、自らが育てた最愛の弟子たちから「狂人」を見るような眼で見られるという、孤独の深淵に叩き落とされたのである。


それでも松陰は諦めなかった。彼はあえて、長州藩の役所に対して「間部を暗殺するための武器と弾薬を貸与されたし」という、正気の沙汰とは思えぬ建白書を提出した。


客観的にこの行動を俯瞰すれば、それは完全に常軌を逸した「狂気の暴走」に他ならない。藩の首脳陣からすれば、自藩から幕府の大官を暗殺するようなテロリストを出せば、毛利家そのものが取り潰されかねない大危機であった。


長州藩の重臣たちは、青褪めた。

「吉田松陰をこれ以上放っておけば、長州藩が滅ぶ」


安政五年十二月(1859年)、藩主・毛利敬親の命により、松陰は再び捕縛され、あの野山獄へと引き戻されることとなった。一度は光を灯したあの監獄に、今度は「危険思想の首謀者」として幽閉されたのである。


獄中にあっても、松陰の頭脳は休まなかった。彼は、自らが取ったこの危険な行動の裏に、冷徹な「構造的配置」を見出していた。

(藩が私を捕らえたのは当然の措置だ。しかし、これで私の叫びは、藩の公式な記録として永遠に残る。また、私が獄に繋がれることで、塾生たちの胸には『なぜ先生はそこまで執念を燃やすのか』という問いが、消えぬ楔として打ち込まれるはずだ)


松陰は、己の肉体を監禁させるという最大の危険を冒すことで、塾生たちの魂を「覚醒」させるという、高等な賭けに出ていたのである。


野山獄の冷たい床の上で、松陰は血を吐くような思いで、自らの思想を『策論』として書き連ねた。その頃、江戸では井伊直弼による「安政の大獄」が猛威を振るい、幕府に反抗的な公家や志士たちが次々と捕らえられ、処刑されていた。


死の影が、確実に松陰の元へと近付いていた。しかし、彼の心は不思議なほどの静寂に包まれていた。彼は知っていた。自らが蒔いた火種は、もはや長州藩という一地方の枠組みを越え、日本という巨大な松明に火を点けようとしていることを。


安政六年五月(1859年)、幕府から長州藩に対し、一通の命令が届く。

「吉田松陰を、江戸の伝馬町へ檻送せよ」


それは、生きては戻れぬ死への旅路の始まりであった。萩を離れる日、松陰は集まった親族やわずかな門弟たちに対し、ただ微笑んで見せた。


彼の魂の最終章が、江戸の空の下で幕を開けようとしていた。


次章、第七章へ続く。

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