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小説 吉田松陰 座右の火 1830-1859  作者: 山田 誠一


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第四章:身分が違うというだけで、友は死んだ

安政元年十月(1854年)、江戸の伝馬町牢屋敷から、国元である長州藩へと檻車で送還された吉田松陰を待っていたのは、萩の城下にある「野山獄のやまごく」への投獄であった。


野山獄とは、一木一草すら生えぬ殺風景な壁に囲まれた、身分の高い武士を幽閉するための監獄である。同時に、共に密航を企てた足軽の金子重之輔は、身分が低いというだけの理由で、過酷極まる「岩倉獄いわくらごく」へと送られた。この身分制度という名の不条理な「時代の制約」に、松陰は激しい憤りと無力感を覚える。そして間もなく、金子は過酷な獄中環境に耐えかね、病を発して息を引き取った。


「重之輔、すまぬ。我が志のせいで、お前を殺してしまった……」

薄暗い牢内で、松陰は慟哭した。友の死は、松陰の胸に生涯消えぬ刃を突き刺した。

(人はなぜ生き、なぜ死ぬのか。重之輔は足軽という身分に縛られながらも、国を憂う至誠を持って死んだ。ならば、生き残った私は、この命をどう使うべきか)


当時の野山獄は、絶望の泥沼であった。一度ここに入れば、二度と生きて出られぬと言われ、囚人たちはただ日々を虚無の中にすり潰し、互いを罵り合っていた。


ここで、松陰は独自の「行動の理由」を見出す。

(環境が人間を腐らせるのではない。己の心の火を消すから、人は腐るのだ。この牢獄にいる者たちも、かつては志を持った武士であったはず。ならば、彼らの魂の火を再び灯すことこそ、生き残った私の義務ではないか)


松陰は、獄中を一つの「社会」と捉え、新たな対立と協調の構造を作り上げる決断をした。

彼は囚人たちに対し、上から目線で説教を垂れることはしなかった。自らを最も罪深い者として位置づけ、謙虚に、しかし毅然として語りかけた。


「皆々様、ただ時が過ぎるのを待つのはもったいない。幸いここには、それぞれの道を極めた達人が揃っておられる。互いに己の得意とする学問や芸を講じ合い、高め合おうではございませんか」


松陰はまず、自らが最も得意とする『猛子(孟子)』の講義を始めた。

孟子の思想の本質は、「王道政治」と「不当な権力への抵抗」である。松陰の口から発せられる熱烈な言葉は、絶望の底にいた囚人たちの耳条に、一条の光のように差し込んだ。


「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり(誠の心を尽くして動かせない人間など、この世に一人もいない)」


松陰のその「至誠」は、囚人たちだけでなく、彼らを監視する獄卒(看守)たちの心をも揺さぶった。

俳諧に優れた者には俳句を講じさせ、書道に優れた者には文字を習う。やがて野山獄は、暗鬱な監獄から、互いが人間としての尊厳を取り戻し、魂を磨き合う「至高の学び舎」へと変貌を遂げたのである。


客観的にこの光景を俯瞰すれば、それは権力によって幽閉された無力な囚人たちの、ささやかな慰みに過ぎないかもしれない。しかし、人間学という大局の視点から見れば、これは松陰の「教育者」としての真の覚醒であった。彼は、いかなる過酷な制約の下にあっても、人間の可能性を信じ抜き、他者を導く術を体得したのである。


安政二年十二月(1856年)、松陰の獄中での驚くべき平穏と、藩内の親族たちの必死の助命嘆願が実を結び、松陰は「実家での禁固(謹慎)」へと減刑され、野山獄を出ることを許された。


杉家の敷地内にある、わずか八畳一間の小さな物置小屋。

ここが、後に日本の歴史を根底からひっくり返す若者たちが集う、伝説の梁山泊となる。


松下村塾しょうかそんじゅく」の幕が、今、静かに上がろうとしていた。

しかし、釈放されたとはいえ、松陰は依然として藩から監視される「罪人」という重き制約の中にあった。外へ一歩も出られぬ足枷の中で、彼は自らの思想を、次の世代へと注ぎ込む覚悟を固めていた。


時の砂時計は、刻一刻と日本の終わりを告げようとしている。松陰の元へ、萩の町から、一人の眼光鋭い少年が近付いてくる足音が聞こえていた。


次章、第五章へ続く。

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